「まがね」作品評の記事 (2/2)

野中秋子「小説が出来ない」を読む   鬼藤千春

野中秋子「小説が出来ない」を読む   鬼藤千春

 小説が出来ない、というのは他人事ではない。小説を書くことを志している人にとって、その悩みを持たない人はまずいないだろうと思う。たとえ題材があったとしても、それが小説の形になるのに、10年、20年とかかるのは文壇の作家たちもよくあることだ。形になるのはまだいい方で、日の目をみることなく鬼籍の人となることも少なくない。
 井上ひさしは「木の上の軍隊」という戯曲を、書き終えることなく他界してしまった。沖縄で終戦を知らず、2年間ガジュマルの木の上で生き延びた2人の軍人の実話である。それを戯曲にしたいと構想を立て、段ボール箱に膨大な資料を集めていた。が、構想を立てて20年を経ても書けなかった。しかし、それは彼が怠け者であったからではない。
 作家はたとえ題材があったとしても、モチーフやテーマが醸成しないと、安易に書き出せない。その間に認識が深まり、新しい発見があってこそはじめて、動き出すことができるのだ。
 「小説が出来ない」という作品は、厄介なことに「私」は題材も構想も持ってないので、なおさらその悩みは大きいと言わなければならない。だが、作者が知ってか知らずか、「小説が出来ない」と言いつつ、この作品は「私」の半生を語っているのである。半生とは「それまでの人生」のことだから、それを語っている限り小説に成り得ている。
 「私」は「一生文学と関わって生きていきたいと思ったのは大学生の時だった」と告白している。「文学的に物事をとらえられる人になりたい」と思ったのだ。
 そして、小説が書けなくて悶々としている時、喫茶店である人物に出会った。「今、職探しやってんだけど……。まず住むとこも探さないと……。俺、オノミチ気に入った。ここで当分暮らす事に決めたよ」と、サーファー君は言った。「私はこのサーファー君がとても新鮮に見えた。自分の心の命ずるまま自然体でのびのび生きているようで愉快だった」
 「私」は教師をやっていたが、今は退職している。その「私」の致命的な欠陥――。それは、「人はこうあるべきだ。人生はこんなふうにあるべきだ」と思っている。世俗的・常識的なものさしで物事や人を捉えてしまう。
 だから、サーファー君の生き方は、「私」の常識をくつがえしたのだ。そして、自身の生き方が重いということに気づかされる。「私」は2度にわたって大きなオペを経験した。その経験を通して「どんな状況にあっても、楽しみを見つけてこそ人生だ」、「まず面白くなきゃ。楽しめなきゃ、人生は」ということに気づいた。
 この作品は「小説が出来ない」と言いながら、来し方と人生を語り、未来に向かって、自身の生き方を模索する小説になっている。

「まがね」秀作選の紹介にあたって   鬼藤千春

「まがね」秀作選の紹介にあたって   鬼藤千春

 「まがね」の創刊は、1977年の3月である。今年で36年を迎えた。いま、第54号を発行したところである。2年に3号、つまり8ヵ月に一冊のペースで発行してきている。
 「まがね」は優れた小説の宝庫である。「民主文学」の支部誌・同人誌推薦作の優秀作・入選も数多く輩出している。
1978年 「山男と弥ァやん」 三宅陽介・優秀作
1986年 「四十年目の夏」 妹尾倫良・入選
1992年 「英ちゃん」 実盛和子・入選
2004年 「遠ざかる灯」 諸山立・入選
2007年 「麦秋」 有坂初江・入選
2008年  「みかん」 鬼藤千春・入選
2009年  「緑風の時」 野中秋子・入選
2010年  「声を聞かせて」 笹本敦史・入選

 また、その他の文学賞にも数多く選ばれている。
「母の遺言」 長瀬佳代子 岡山県文学選奨小説B部門・入選
「冬芽」 長瀬佳代子 津山の文学賞・佳作
「帰郷」 長瀬佳代子 岡山県文学選奨小説部門・佳作
「仲間」 長瀬佳代子 自治労文芸賞・受賞
「内示を待つ日」 長瀬佳代子 第11回自治労文芸賞・入選
「谷間の小屋へ」 長瀬佳代子 川崎文芸懇話会賞・受賞
「骨の行方」 諸山立 岡山県文学選奨小説B部門・入選
「水底の街から」 諸山立 岡山県文学選奨小説A部門・入選
「母の世界」 浜野博 岡山県文学選奨小説部門・佳作


 このように、「まがね」の作品は、さまざまな文学賞を受賞しており、対外的にも大きな評価を得ている。
 また、受賞作品だけでなく、「まがね」の創刊号から第54号までの中には、優れた作品が沢山眠っている。そこで私は、それらの秀作を掘り起こし、紹介したいと思っている。その仕事が現在と未来の人たちに役立つことを願って、「まがね秀作選」の紹介をしてゆきたい。

井上淳 「ある婚活の場景」を読む   鬼藤千春

井上淳 「ある婚活の場景」を読む   鬼藤千春

 この作品は、400字詰め原稿用紙7枚の小品である。
 お洒落なフレンチレストランでの「婚活」の情景を描いている。ガラス越しには、きらびやかなネオンの光がせわしなく揺れ動いている。
 話は、ほとんど地の文がなくて、会話ですすめられてゆく。この作品は小説として成り得ているか、と一瞬そんな疑問も湧くが、作者は小説の心を十二分に心得ているし、小説として成立している。
 登場人物は、男と女の二人きりである。その男と女の人物像の対比が面白い。はっきりいって男は身なりから趣味に至るまでパッとしない。ところが、女は今日も「お友達とちょっとバイクで、箱根まで」ツーリングである。
 また、男はラーメン屋とか牛丼屋にはいくが、女はよくイタリアンなどに行くという。海外旅行も男は仕事以外では行ったことがないし、他方、女は時々行くそうだ。女は仕事も充実していて、キャリアウーマンである。一方、男は仕事に疲れていて生気がない。
 こんな二人の「婚活」なのだ。そして、女は語る。
「結婚というのは、何かを犠牲にすることなんだって」
「本当に結婚しようと思ったら、理想はどんどん捨てていかなくちゃ」
「捨てるのは相手に対する理想だけじゃないのよ。自分の大切にしてきたもの全てについて」
「まず実家を出てみるだとか」
 そして、きわめつけは、こうである。
「それに服も髪型も、ちょっとねえ」
「私の好きな服のお店に一緒に行きませんか?」
  この女は、男に対して理想をどんどん捨て、自分の大切にしてきたものも全て捨てよ、と説く。たとえば、「まず実家を出てみるだとか」
 女は、相手に理想や大切なものを捨てるように説きながら、自身は自分の高い理想を追い求めている、という面白い話である。
 だから、この女は結婚できないでいる。

「柿」の感想  野中秋子

「柿」三浦協子さんの作品の感想  野中秋子

 何気ないストーリーなのだが、この中に込められているテーマはとても深い。まさに「ぬぐいがたい本質」をこの短編から十分に感じとる事ができる。
 ストーリーはシンプルで分かりやすい。しかし読み手をそれで終わらせない。「人間の本質」に関わる事柄に「わたし」は強くこだわっているのがよく分かる。
 もっと歳を重ねると仲良しの友人と何とか折り合いをつけて、疎遠にならなくてもよかったのかもしれない。それは表面上、エイコの行動は間違ってはいないから。積極的にボランティアに参加し、人の世話もよくする。そして全く当然の事ながら、服や手洗い・マスクの使用に神経質になり炊き出しも食べない。それは間違いではない。おばあさんの気持ちも頂くけれど柿は処分する。私だってその場にいたらエイコのようにするかもしれない。エイコも善意の人なのである。
 しかし「わたし」はエイコのほんの少しの言動の中に、許しがたい心の本質を見てしまった。本質に気付いてしまったのだ。人間性の本質に。それは被災者をどこかで「差別」しているような種類のものだろうか。
 おばあさんは放射能の怖さを知らない。正確には知らされていない。無邪気に我が家の柿を取って、毎年やっているように干し柿を作った。若い彼女達の訪問に心から慰められ嬉しかった。今のおばあさんに出来る最高のお礼がこの柿だった。
 柿をめぐってのエイコとの会話で、「わたし」は彼女のは真の優しさからのボランティアじゃない。被災地の人の心に自分の心が重なり合っていない。もっと言えば、私達と被災者は同じ状況に置かれているのだという深い認識。被災者は「わたし」だったかもエイコだったかもしれないんだという想像力。「わたし」はその事を理屈ぬきで感じとれる女性だったのだと思う。
 優秀で積極的なエイコへの腹立ちは、被災者がこの国で置かれている状況への怒りなのかもしれない。本人は意識していないかもしれないが。
 「わたし」だってその柿が危険だということは十分承知している。その上で、大げさに言うと自分の体をはってむきになって柿を食べた。「エイコ、それはちょっとおかしいよ。人の本質として許せないよ」
 「わたし」は柿を食べ続けることで怒りを爆発させた。そしてその柿はむせる程本当に甘く美味しかった。この時、被災者の心が「わたし」のものとしてしっかりと受け止められたのだと思う。

三浦協子「柿」はこちら

笹本敦史 「わだかまる」を読む  鬼藤千春

 「わだかまる」 (笹本敦史 まがね54号)を読む   鬼藤千春

 父を殺したのは母なのか、姉なのか。それとも事故だったのか? その真相は定かではない。だから「わだかまる」という題名になっている。「わだかまる」を辞書でひけば、「不満・不信などの感情が心の中にたまって、さっぱりとしない」とある。
 この物語の発端は母からの電話である。
「お父さんが死んだよ」母の声だった。
「死んだんだよ。階段から落ちて」
「どうして階段から……」と私。
「私が殺したんだよ」と母。
 こうして物語は始まる。
 父は高校で倫理社会などを教える教師だった。地域では知性的な人格者として振舞っていた。が、彼は「若いころ飲み屋の女と浮気したり、酒を飲んでの暴言、暴力。そして兄が自殺した原因が父にあると言っていたこと」などの性向があった。特に母に対しては、「殴る、蹴る、髪の毛を引っ張って引きずるなど常軌を逸した暴力が何度も繰り返された」
 母は認知症を患っている。「たまには徘徊しているところを町内の人が保護したりしたことはあった」
 母は「自分が階段から突き落とした」というけれど、隣の陽子は、私の姉の景子が実家に帰っているときに「父の死」が起きたと言った。が、陽子は「あっ、そうか。景子ちゃんの車が来てたのは前の日か」と言い直した。このあたりも、判然としない。
 父の暴力は死の直前まで続いていたようだ。「亡くなった人の悪口を言うのは心苦しいんだけど、お父さんの怒鳴り声がしょっちゅう聞こえて、その方が迷惑だったの。あれじゃ奥さんがかわいそうだってみんな言ってたぐらいよ。景子ちゃんもそれを心配して来てたんじゃないかなあ」と陽子さんは囁いた。
「姉が来てた時はどうでした? 事故の前の日とか」私は訊いた。
「聞こえてたわ。景子ちゃんでも抑えきれないんでしょうね」
 陽子さんの言葉である。
 この物語で作者は何を語ろうとしたのだろうか。
 「私が生まれ育った家」を語りたかったのではないのだろうか。
 「天井裏に大きな蛇がいる」という母。その頃から母の精神は病んでいたのかも知れない、と私は思う。そして、兄の自殺。それも母がいうには「あの人(父)が殺した」という。さらに母の認知症。父の浮気、飲酒、暴力、暴言があった。「私にとって、生まれ育った家の思い出は暗く重苦しいものでしかない」
 「何を、どのように書くか」というのは、私たちがいつも心得ていなければならないものである。作者は「暗く重苦しい家の在りよう」を「ミステリアスの手法」で、追求しようとしたに違いない。
 この作品は、スリリングで読み手を小説世界にいざなう。その巧みな筆力は見事である。が、たしかに魅力的な小説には違いないが、「文学とは何か、小説とは何か」を自問する時、その本質に迫り切れていないように思う。私たち読者が、文学に求めるのは「人生とは何か、生きるとは何か」ではないのだろうか。果たして「ミステリアスの手法」は成功したといえるだろうか。

長瀬佳代子 「沈丁花」を読む    鬼藤千春

 「沈丁花」(長瀬佳代子 まがね54号)を読む    鬼藤千春

 これは、独居老人という問題を扱った作品である。今日の日本の社会は、老人の独り住まいという情況は稀ではなく、今後ますます独居老人は増えていく傾向にある。この作品はそこに焦点をあてている。「何を書くか」という、モチーフもテーマもそこにある。
 主人公の妙子も独居老人である。隣家に棲む笹原も同じく独居老人である。ある日、市役所の職員が妙子のところに訪ねてきた。笹原のところにきたのだが、鍵が閉まっていて入れないという。
 職員がいうには、笹原の友人から連絡があって、彼がケイタイに出ないので、家に行って様子を見てほしい、と市役所に電話があったということだ。
 妙子は鍵を預かっていなかったが、以前老女が棲んでいた時、物置から母屋の台所へ入れる、というのを思い出した。それで区長が先に入り、職員と妙子がそれに続いた。二階に上がった区長が「救急車」と大声で叫んだ。
 笹原は二階で倒れていたのだ。笹原は救急車で病院に運ばれたが、脳こうそくだった。もし発見が遅れれば孤独死という事態を招いたかも知れない。妙子は笹原のことを考えて、他人事ではないと思った。妙子も独り住まいであり、身内といえば、東京に甥がひとりいるだけである。
 万一の場合を考えて、妙子は、身辺整理は必要だなと強く思い始めていた。
 この作品は、今日的な問題に焦点をあて、独居老人の在りようを掬い取って読者に提示している。独居老人問題が読者の心に留まるように描いている。小品だが巧みな作品である。
 妙子は庭先の花壇に目をとめ、「沈丁花は、枝が半分枯れて弱々しい」という描写を、最初の方で描いている。これは伏線である。巧いな、と思う。後半で「笹原の妹から貰った沈丁花は、勢いよく育ち、いずれ大きくなり芳ばしい香りを漂わしてくれるだろう」と書いている。「弱々しさと勢いのよい沈丁花」それを作者は巧く描いている。
 しかし、この作品は素描の域を出ていないし、どこか物足りない。深さがほしいのだ。また、文学サークルの描写は不要のように思う。

妹尾倫良 「カワセミ」を読む  鬼藤千春

「カワセミ」(妹尾倫良 まがね54号)を読む    鬼藤千春          

「お姉さん」と呼ばれる女性が、町内会の会費の集金に行って物語は始まる。物語といっても、エリカの「ひとり語り」である。
 エリカは今、35歳である。彼女は病院通いをして働けないので、生活保護を受けながら、アパートでテレビを観ながら退屈な日々を送っている。
 エリカは、いままでの人生を「問わず語り」で振り返ってゆく。彼女は高校の時、妊娠をして学校を中退した。結婚はしなかったけれども、17歳の時、女の子を産んで自分で育てている。と、いっても、田舎の母が育てエリカは金を送っていただけだ。子どもを育てるために、収入のいいピンクサロンで働くようになった。
 彼女は、高校の時の男、ピンクサロン時代に「大人しい公務員の彼」、そして、征夫という男という風に男性遍歴を経てきている。
 征夫は製紙工場に勤めていたが、今は代行運転の仕事をしている。彼とはピンクサロンの時代に出会って恋に落ちた。しかし、エリカが病気で入院している時、征夫はエリカのコーポから「テレビや冷蔵庫、洗濯機やベッド、羽根布団や毛皮のコート、洋服ダンスや金のネックレス」など、全部持ち出して、売り飛ばしてしまった。そんな男である。
 これがエリカの人生である。悲惨な人生だ。「ひとり語り」であるが、エリカの人物像はよく描かれている。エリカの人生の断面を切り取って提示している作品である。「何を書くか、どのように書くか」を考えてみると、「ひとりの女の生きざまを書く」というモチーフがあり、「ひとり語り」という手法に作者は挑戦している。が、この小説には何かが足りない。「文学とは何か、小説とは何か」を考える時、この小説は風俗を描いているが、その域を越えるまでにいたっていない。読者はそれを越えてほしいのだ。その先にある世界を読者は見たいのである。それが小説世界というものだ。
 ただ、最後の中学時代の夢か回想か、あの場面は生きている。カワセミの美しさ、生命の勢いというものを、中学生のエリカは真っ直ぐに受けとめて、将来への希望を見出している。今の自分との落差を象徴的に描いている。

「まがね」54号   石崎徹

「まがね」54号   石崎徹

 笹本敦史「わだかまる」
 洗練された文章、筋の運びもうまい。登場人物も、(描写はわずかだが)なんとなく魅力的で、読ませる力のある小説である。楽しませてもらった。
 これだけでも短編のありかたとしては十分だと思うがあえて注文を付ける。
 読後が何となく物足りない。すごいことになりそうなところでぷっつり切られてしまったような。
 最後の2行は読者を混乱させる。これをヒントに解読しなさいと強制されるような趣きがある。だが、読者の読み方は往々にして作者の意図とは無関係である。ぼくはあえてこれを無視して読んだ。ゆえに作者の意図から離れるかもしれないのだが。
 盛り上がって終わってほしいところを、ずるずるとすべってしまったような印象がある。
「姉が殺したのかもしれない」という疑惑の生まれるところに第一の山がある。この疑惑を最大限まで盛り上げて終わる方法があっただろう。
 一例としては主人公と姉の眼がふと合い、そのとき主人公の眼の中に何ごとかを悟った姉が眼をそらした、というような、あるいはほかの何でもよいのだが、ここを山にしてぷっつり切る方法はありえただろう。
 だが、作者は続けて第二の山を設定する。
「知らないのは自分と妻だけで、親戚と町内とはみんな知っていて知らない顔をしている」のかもしれないという新たな疑惑の発生。
 これはこれで非常に恐ろしい情景になる。だがそれを表現するには枚数が少し足らなかった。姉を含めてひとつのたくらみに結託している集団のただなかに、妻と二人異邦人のように孤立しているという情景を描き出すには、かなりの伏線を必要としただろう。
 この第二の山は作者の「風に吹かれて」を連想させる。状況は違うが、情報の欠落というテーマへの作者のこだわりを感じる。自分は何を知っていて何を知らないのか、それさえ定かではないのではないかという問いかけを感じるのである。
 まあ、これを一例として読者にいろいろ考えさせるとすれば、ここで切った作者の意図は実現したということかもしれない。
 気になった点をひとつだけ。
 父親の造形である。「怒鳴り声に近所が迷惑している」「酒場の女への執着が世間に知れ渡っていて、出世を逃した」ような人物が「知性的な人格者としてふるまっていた」? もちろん本人はそのつもりでふるまっていても周囲は認めていなかったということなのだろうが、「知性的な人格者としてのふるまい」という表現はおのずから周囲からの評価を内包せざるを得ないような気がするのだが。特にそのあとの数行がそんな先入見を与えるので、続く段落に来て混乱してしまう。

  長瀬佳代子「沈丁花」
 いつもながら、よい雰囲気を醸しだす、洗練された落ち着いた文体。笹原という人物に興味をひかれたのだが、後半消えてしまって残念。「身辺整理」という言葉に、充分に生きてきた人の余裕が感じられて、うらやましい思いがする。いま気がせいて生きているぼくの身辺は、いよいよ乱れるばかり。でも長瀬さん、もう満足ですか。「谷間の小屋へ」(48号)や「待つ女」(52号)のようなショッキングな作品をまた書いてください。

  妹尾倫良「カワセミ」
 この作家としてはたぶん異色作。面白く読んだ。こんな才能もあったのかと再認識した。ただファンタジーを読むような感じで読んだ。 
 それでもいいと思うのだが、そういう読み方になったのは、作品の現在がいつなのか分からないからだ。征夫と勝香は遅くとも戦中の生まれ、35才のエリカよりはずっと年上だが、まだバリバリ働いていて、製紙工場に戻る話とか出てくるから、45から50才くらい? 
 1980年代後半の話だろうか(代行運転っていつ頃から始まったんだっけ?)。とするとエリカは50年代前半の生まれと考えればよいのか。それならブロンソンも分からないではない。5才年上の兄がいるのだから、エリカの親は20年代の生まれ? その世代の親ならわが子を男女で差別する親もいたのかもしれない。
 というふうに計算していけば、納得できないでもないのだが、やはり現在がいつなのか分かるような表現が欲しかった。
 エリカは少なくとも現代の35才には見えない。もっといっているか、昔の女という感じがする。
 そこでややこしいので、ファンタジーであるとして読めば、作品世界に入りこみやすいのである。そう、宮崎駿の作品を読むようなつもりで読めば、堪能できる。

  田中俊明「滅亡の序曲」
 いつのまにか文章も筋の運びも洗練されており、二年前とは別人のごとくである。日本史への広い知識に裏打ちされていて、違和感がない。
 もっともぼくは戦国時代に無知なので、その点については発言権がない。
 今回小説になっていると感じたのは、氏真兄妹を主役に配した構想の妙だ。氏真と言えば、ぼくが思い出すのは何十年も前大河ドラマで見た、眉を剃って丸い点をつけ、薄化粧に、狩衣烏帽子姿で蹴鞠に興じ、家康(当時元康)を嘲笑っている姿だけである。今回の小説はそのイメージを一変させてくれた。よいところに焦点を当てたと思う。兄妹の会話を通じて当時の政情、武田の内情を明らかにするとともに、兄妹それぞれの心の思い、生き方をも描き出している。その筆使いは見事である。
 作者の理念がよく表れていると思ったのは、30ページの終わりから、「意地を捨てて兵の命を救う」と氏真に言わせているところ。ほんとうにこの思念が天皇制軍隊にあれば、あれほどの犠牲を出さずに済んだのだ。
 わかりにくかったのは、32ページ終わりから、信虎の一件である。特に信虎の心理がわかりにくい。多少説明が欲しかった。
 あと、タイトルは作品のこの長さには大げさすぎる気がする。それと最初のところで、遅すぎた進軍自体を「滅亡の序曲」といったん言っておきながら、最後には勝頼への偏愛を「滅亡の序曲」と言いなおしている。もちろんどちらもそうなのだろうが、「滅亡の序曲」の意味する対象が短い作品中で変わってしまうのはまずいであろう。

  井上 淳「ある婚活の場景」
 短いがたいへん面白い。この人はやはり才能がある。書けない、書けないが口癖だが、書けるじゃないか。こういうものをどんどん書いていけば、いい作家になる。
 男と女のセリフの裏を想像して読んでいくと、なかなか含蓄がある。ユーモアもある。こういうものを目差してください。

  野中秋子「小説が出来ない」
 まだ「まがね」のブログには転載していない(※注)が、個人のブログで公開したぼくの「石」にそっくりの構造で、最後のセリフがそのままなので驚いた。早く公開しておいてよかった。これを読んだ後では公開できなかっただろう。書けない作家が無理に書くとこういう発想になるのかな。
 しかし、これは立派な小説である。まず題名が人を食っていてユーモラスである。随想の調子で始まるのだが、二十代後半にしか見えない五十才のサーファーの出現で俄然小説になる。前半でごちゃごちゃと愚痴っているだけに余計面白い。ヘビーな自分と照らし合わせて自由人が浮かびあがる。
 でもこの壮年サーファー、前向きな人だからたぶん大丈夫だろうけど、厳しい時代に入ってるよ、老後は大丈夫かい?

(※注)2月28日に転載しました。

  桜 高志「認知症の母」
 実際に本人の口から聞くととても面白い話なのに、どうしてこんな文章になってしまうんだろう。つまりは口達者な人は文章に向かず、文章の書ける人は喋れないということなのか。面白い(単に滑稽というだけじゃなく、人生の深みという意味でも面白い)題材なのである。
 これでは芝居とそのト書きである。芝居は人間が演じるからよい。小説には文章しかないのだから、その文章で情景を作りださねばならない。この長さならこれだけ何でもかんでも突っ込むのは無理である。この作者は自分の頭にあることをすべて喋ってしまわねば気が済まない。
 取り上げるのはひとつかふたつでいいのだ。ばあちゃんがそのセリフをしゃべっているときのその場の風景、ばあちゃんの表情、声の調子、身ぶり、手ぶり、芝居を見ている人が盲目の人に説明する気持ちになって、事細かに書いてほしい。そうでなければ読者にはなにも伝わらない。
「さらに信じられないことが」そんなセリフはいらない。信じるか信じないか決めるのは読者であって、作者ではないのだから、作者の判断を差しはさまないでほしい。作者はただ客観的に見たままを書けばよいのである。そのときどんなスタイルで書くか、何を書いて何を書かないかというところに作者の意図はおのずから現れる。
 面白い題材をいっぱい持っているのだから、頑張ってほしい。題材を持つということは書く人間の一番の強みです。

  鬼藤千春「掌編四題」
「駅」
 すでに合評で述べたので、かいつまんで書く。
1. 子供の書き方はとても良い。
2. 言葉の使い方、テニオハを含めて、もう少し丁寧に。
3. 冒頭の時間的位置がその描写に反映されていない。(耕一はこのとき子供への「殴りつけたい」ほどの怒りを「やっとの思いで」抑えているはず)
4. 若い方から首を切るという会社はないだろう。

「匂い」
 この作品は冒頭から非常に良い文章でひきこまれた。ところが後半、がらりと文章が変わってしまう。後半には何もない。前半の明王院の描写で全編貫いてほしかった。このくらい良い文章が書けるのだから、特に短い作品はやはり磨いてほしい。あらすじを発表しても意味ないと思うのだが。あらすじは生きている以上誰しも山のように持っている。それを文学化できるかどうかだと思うんだけど。

「捜し物」
 これはまさにあらすじだが、題材としては面白いものを多く含んでいる。
 この題材の作品化を望む。作者としてはおそらく最も困難な題材なのだろうが。個人的体験として書くのでなく、どう文学化するかという課題である。それはフィクションであるかないかということではなく、文学たり得ているかどうかということだと思う。

「供物」
 これについては言うべきことはない。

「まがね54号」感想  野村邦子


(山口県光市の野村さんから丁寧な感想が寄せられました。野村さんは俳句、俳論がご専門ですが、上関原発、光市母子殺人事件などすぐれたルポを書かれ、後者では永山則夫の著書にも言及、また村上春樹の「1Q84」を論じるなど、幅広く評論されています。以下に紹介します)


「まがね54号」感想   野村邦子

 梅から桜へと季節は足早に経過していきます。
「まがね54号」お送り下さって、まことにありがとうございました。来し方の中国ブロックでの白熱した討論など懐かしく思い起こしております。岡山支部は優れた書き手に恵まれ、充実した内容に感嘆しました。皆様それぞれのご努力もさることながら、支部としての協力体制に頭の下がる思いがいたします。
 山口支部はベテランの書き手が次々と鬼籍に入り、残された者も高齢化の波で、存続が危ぶまれるような状態です。何とかして起死回生の方策がないものかと頭を悩ましております。世の中右傾化の憂い多く、こういう時こそ、民主文学の灯を掲げ、時流に抗し、若い人に「歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」ということを示さなければいけないとは思っております。「まがね」に勇気をもらった気がいたします。
 ともあれ、的はずれな感想で相済みませんが、印象に残った作品を目次に従ってつらね、お礼に代えさせていただきます。

「わだかまる」笹本敦史
 DVが社会問題になっている現実、男女差別などの日本の旧弊が、天井裏の蛇のようにとぐろを巻いて生き残っているのだろう。父の死が殺人なのか、事故死なのか、ミステリアスな提示で、サスペンス風なおもしろ味がある。最後の場面で、「参列者の多くがわかった上で、見ていない振りをしている」日本人にはこういう態度がえてして多い。母の気持ちを本当に思えば、姉さんは母に、(信長のように)、父の遺影に抹香を投げつけさせればよいのにと思う。父が高校の倫理の教員という設定は少し無理があるように思う。姉の隠蔽工作が、日本的で何とももどかしい。きれいごとはよくない。「姉さんは僕が捨てたものを一人で背負っていこうとしている」という結びは甘ったるい。わだかまりを解くには、きっぱりと裁断することだ。

「小繋事件」(書評)石崎 徹
 読んでいないので、まことに申し訳ございません。尖閣諸島の領有権問題、タイムリーな重いテーマである。日本、中国、台湾間で、「現場の歴史的な実情から出発し」平和的に解決する方法はないのだろうか。領土問題の小ぜりあいが、戦争に拡大することを我々は何よりも恐れる。アジアの近隣諸国とのわだかまりも、元はといえば、日本人がドイツと違って太平洋戦争の戦後処理と反省をいいかげんにしてきたからだろう。近くは上関原発で住民の「入会権」を取り上げ、所有権をかさに中電に勝手なまねをさせていることを連想させてくれる。

「滅亡の序曲」田中俊明
 興味深く読んだ。信玄を英雄視した従来の解釈のアンチテーゼ。歴史的事実を掘り下げ、しっかりした歴史観をもっておられるのに感動した。義信が魅力的である。孫子の兵法の奥義はよく分からないが、権謀術数では、大義に反し、天下を治めることはできないということだ。歴史小説として登場人物の個性もよく描き出されていると思う。

「小説が出来ない」野中秋子
 少々気どりがあるようだが、文章が達者な人だと思った。サーファー君のような生き方に賛意を表する筆者は、精神的な若さを失わない人だと思う。二十代の青年がサーファー君にあこがれるのだったら平凡で、むしろ「地についた生き方を求めて働きなさい」とお説教したくなるかもしれないが。

「掌編4題」鬼藤千春
 志賀直哉の掌編集を思わせる文章だが、すっきりして読みやすかった。「駅」は何とも切ない。3,11でこういう家庭が多く存在するのではないかと思う。「捜し物」では誰にも一つ二つそういう思い出の品があるのではないか。もの言わぬ宝物が、そっと引出しにしまい込まれているとか。だが、「恭平は、その布由子の優しい心を裏切ったのである……」から以下の文章はない方がよいと思う。余情が薄れる?

「ノロ鍋始末記」石崎 徹
 作業現場で体験しなければ表現できないようなとても臨場感あふれる作品である。チームワークからはみ出す者、良心的で気の弱い人、理性的な人、ずるい人間など、さまざまな人間模様をちりばめ、くり広げられていく。後編がどのような展開になるか楽しみである。長編を作るには、エネルギーのいるものだろう。作者の体当たりの筆力に引き込まれる。正当なプロレタリア文学に近いものを思わせる。これがリアリズムというのであろうか。願わくば、心理描写などを交えて、特定の主人公をきわ立たせて、展開していただくとありがたい。荒っぽい会話が労働者らしさをイメージさせる。ところで、会話中心で展開するのは、戯曲でない限り、多用は安易に流れる危険性があるのではないかと思われる。ドラマでない小説の独自性は何でしょうか。

 生意気なことばかり書いてすみませんでした。他の作品については、よく分からないので、差し控えさせていただきます。
 三月末日には、岡山で研究会があるそうで、山口支部からも岩本さん、水野さんが出席される予定です。ご盛会をお祈りいたします。
 また、お会いする時もあれば、よろしきご指導のほど、お願い申し上げます。かしこ
   三月十一日