「民主文学」作品評の記事 (2/5)

有田博「救急入院」  石崎徹

有田博「救急入院」  石崎徹

 これは小説ではない、作文である。それでも、主人公が吐血して病院に運ばれるあたりは読ませた。なかなか表現力があった。ただその表現が作品全体のなかでは浮いている。何のためにそこにその描写があるのかわからない。そこで表現されたことがあとの物語と繋がってこないのだ。
 とりわけ大場の描き方がよくない。こんなに素敵な人物なんですよとこれでもかこれでもかと書いても、大場は実在の人物ではない、作中人物なのである。作中人物の評価をするのは読者である。この場合主人公が彼を評価しているわけだが、それが作者と一体化してしまっている。読者はしらける。
 さんざん誉めておいて、「実は過去にこんなことがありまして」と大場に懺悔させるわけだが、パターンだ。意外性がない。
 教師同士がおたがい先生と呼びあうのは教育現場独特の風習なのだろうが、無批判に使われると、読む方はたまらない。作者の眼がどこにも感じられないのだ。
 教育現場で異常なことが起こっているのは事実だろう。それをどう表現すれば部外者に伝えることができるのか、部外者を納得させることができるのか、深い考察を要求したい。
 教師は作文に慣れ過ぎて、文学というものがわかっていないのではないかと懸念する。
 おそらく作者は教師か元教師なのであろうが、自分が教師のままで書いては駄目だ。教師を離れて、教師を外から観察して書かねば文学にはならない。

仙洞田一彦「ヒルズ」  石崎徹

仙洞田一彦「ヒルズ」  石崎徹

 仙洞田さん、これはいけないよ、全国誌に載せる作品じゃない。
 それでも最初の何ページかは、仙洞田さんらしい軽快でユーモラスな文体で、これは面白くなりそうだぞ、と愉しみながら読んでいたんだ。ところがどこまで行っても意味のない会話がだらだらと続いていくので途中で飽きてしまった。
 内容は何もない。笑劇としたらキャラの設定を間違えてるよ。金持ちがひとつも金持ちらしくない。そこらへんのゴミ捨て場から何億円か拾ってきた人間かなという感じだ。だからこの人物はどこかで逆転するのだろうと期待したらしまいまで何もなくて終わってしまった。おかげでせっかくばあさんがミニスカートに真っ赤な口紅で出てきても、読者には何の効果もない。もう一人の人物も、貧しいとはいえそこそこの生活をしてきた70才、その年齢になれば怖いものなどないだろうに力関係を読む、と言いながら口を開けば結構相手をからかっている。もちろんそれでいいのだが、委縮する、緊張するというト書きとのバランスがとれていない。この男一人で結構相手をやりこめているんだから、ばあさんが出てくる必要はなかったね。最初から最後まで金持ちの旗色が悪すぎて一方的な話で落ちがないんだよ。
 仙洞田さん、どうしちゃったの。もう少しあなたらしい作品を読みたい。

物語と思想(揺れる海) 石崎徹

物語と思想(揺れる海) 石崎徹

「民主文学」9月号の新船海三郎による文芸時評は、大江健三郎と多和田葉子の最新作に触れたのち、8月号の3作品を評している。能島龍三、草薙秀一のそれぞれの作品についても多少読み方の差異を感じないではなかったが、いま両作品を読み直す余裕がないので、最も強く違和感を持った青木陽子「揺れる海」評についてのみ若干感じたことを述べる。
 今回新船氏の批評に抱いた違和感を確認したいと思って、「揺れる海」と、新船氏が短く触れている「紫陽花」(12年2月号)とを読み返してみた。
 結論から言うと違和感は解消されなかった。
 新船海三郎は、3.11後、民主文学の中では筆者が特に注目している評論家である。
 それは氏が、今回の原発事故について、推進派の責任を問うだけではなく、それを阻止し得なかった「我々」のがわについても問うてみようという姿勢を顕著に示したからだ。
 それは国会において既存の原発の危険性を鋭く追及し、各地の原発建設に反対運動を展開してきたにもかかわらず、核兵器と原発との間になお一線を引いて、将来の原子力の平和利用を否定しきれないとも取れる曖昧さを残していた共産党と、その影響を多少なり受けていた「我々」について、その精神構造にまでさかのぼって考えてみようとするものに思えた。
 そこまで引き延ばして受け取ったのは新船氏の意図から外れていたかもしれないが、ともあれ、「我々」の問題として考えようとする姿勢は一貫している。
 それは9月号の文芸時評でも以下のように表現される。
〈水上勉が……(原発を)受け入れていく住民の心底にある……そういう価値観から抜け出すことを呼びかけたのは三十年近く前のことであった〉
〈伊丹万作が今次の戦争を「騙されていた」という人は、次もまた騙されるにちがいない、もっと賢明になろうと説いたのは……敗戦翌年であった〉
 つまり押しつけて来る側、騙しに来る側を批判するだけでは足らない、それを受け入れてしまう、あるいは騙されてしまう「我々」の側の問題をもっと考えてみようとするのだ。
 それは以下のようにも表現される。
〈国策を操る悪い「奴ら」がいて、庶民はいつも騙され、人生を翻弄されるが、それでも健気に一生懸命生きている……(とするのは)、一つの(作られた)構図である〉
 だが話がここまで行くと、疑念が生じてこざるを得ない。上記は〈一つの作られた構図〉というよりも現実そのものなのではないか。
 新船氏はこれに続いて以下のように述べる。
〈しかし、3.11大震災と福島原発事故に直面して、その「一生懸命」が何を結果したのかを知ったこの国の多くの人々は、自分たちのその生き方を深く自省したのではなかったろうか〉
 それは事実そのとおりにちがいない。フクシマはすべての日本人の心に深い衝撃を与え、その考え方に大なり小なり影響を及ぼした。
 だが、新船氏が〈構図〉と呼んだ現実は、それで解消されてしまうような単純なものではないだろう。
 相変わらず庶民は騙され、翻弄され、それでも健気に生きていく。
 新船氏も一応はそれを認めている。それが作中人物の感慨であるなら構わないという意味のことを述べたのち、〈気にかかるのは、作者もこれに同意していることである〉と注を加えている。
 新船氏の評中、最も理解に苦しむところがここなのだ。
 ぼくはひとりの読者として、「紫陽花」と「揺れる海」とを二度ずつ読んだが、新船氏のような読み方は決してできなかった。
 両作品で描かれたのは庶民であり、それでも賢明な庶民なので、二度騙されたことを〈深く自省〉している。だが、一般的に言えば、庶民はこれからも百度でも千度でも騙されていくだろう。それが現実である。だからと言って「彼ら」を軽蔑することはできない。「彼ら」は〈健気に一生懸命〉生きている。あるいはそれはむしろ「我々」かも知れない。
 もし、我々は騙されたのだから悪くないのだ、悪いのは「奴ら」だ、という態度を我々がとるなら、我々は何度でも騙されることになるだろう。だが、青木陽子が両作品で描いたのは、騙されたことを〈深く自省〉した庶民なのである。
 騙されたのだから反省しなくてよいと思うのと、騙されたことを反省するのとでは180度違ってくる。そこを見ていけば、青木陽子の立っている地点は新船海三郎のそれとそんなには違わないはずだ。
 ただおそらく新船氏が不満に思うのは、騙されたことに対して、「なぜ騙されたのか、どこに問題があったのか、どうすればそれを避けられるのか」といういわば自己の知の確立という点に関する内省が不足しているというところなのだろう。
 だがそれはまた別のテーマである。ここに描いたのは知識人の物語ではない。庶民の物語なのだ。そしてそれは充分に描かれたとぼくは思う。
 物語は物語である。もちろんそこには作者の思想が反映されるが、それは物語のなかに含意されるものであって、直接的に表明されるわけではない。
 ここでは庶民の物語を書くことが作者の意図であり、関心であった。それが新船氏自身の関心事(テーマ)に迫っていなかったとしても、作者を責めるのは当たらないのではないか。

草薙秀一「翔太の夏」(民主文学8月号)  石崎徹

草薙秀一「翔太の夏」(民主文学8月号)  石崎徹

 いじめを庇ったせいでいじめられ、遂に逆襲に出て、ビビった相手を今度は逆にいじめる。そんな自分が嫌なのに、いじめられた時の屈辱感が頭を去らず、泥沼に陥る。いじめの道具に使われた蟻を見るとたまらなくなって、これを皆殺しにする。この小学五年生の心理はよく書けている。逆襲に出る場面や、狂ったように蟻に襲いかかる場面の描写には迫力があった。
 この五年生は賢い子で、自分の心理と行動の矛盾に気づいており、いずれ自己克服して立ち直っていくタイプに見えるが、そのきっかけがじいちゃんの戦争の話だというのは、ちょっとずれていないか。
 せっかくここまで少年の心理を追ったのなら、それで徹底してほしかった。大人が登場しない方がよかったと思う。
 いじめは大人子供を問わず、世界中で昔からあり、人種差別や、近年世界中で顕著な外国人排斥、もちろん戦争もそうだろう。
 しかし、少年の心理によりそった作品全体の文脈のなかに、そういう常識的な大人の見解が入ってくると、かえって作品が薄っぺらくなってしまう。せっかく創りあげた世界が当たり前の世界に引き戻されてしまう。芸術が教訓話になってしまう。
 最初から教訓話を書く気なら、ここまでの描写にこだわる必要はなかったのだ。もう少し軽く書いて児童文学にしてもよかった。
 大人に読ませる小説に教訓は要らない。取り上げた事象にどこまで迫真性を持たせ、深く追求できるかがすべてだろう。
 せっかくここまで書きながら、最後に理屈になってしまったのを惜しむ。

青木陽子「揺れる海」(民主文学8月号)  石崎徹

 青木陽子「揺れる海」(民主文学8月号)  石崎徹

 これは最高に面白かった。感動もさせてくれた。
 文章が完璧だ。職業作家の文章である。敦史(31歳)と紗弥加(もうすぐ30歳)との会話を軸に物語が展開していくが、短いセリフのあとにこれまた短いコメントが付く。そのコメントが実に洒落ていて、読者を和ませる。
 特に変わったことを書いているわけではない。二人の両親や祖父母や、それにまつわる人々の現在や過去の話が自然と日本現代史につながっていく。二人はいわばその狂言まわしのような役割を演じるわけだが、その演じ方に巧みな小説的な企てがあって、話が滞ることなくどんどん進んでいく。
 紗弥加と敦史は付合いはじめて丸二年、敦史は紗弥加のアパートに泊っていくのに、自分のアパートにはは寄せ付けない。女でも隠しているのかという疑念が生じるが、隠しているのは女ではなかった。ワンルームの安アパートに仏壇が鎮座しているのだ。かといって創価学会なのではない。この仏壇をめぐり、また仏壇の隠し引出しのようなところから発見された敦史の祖母宛の古い恋文をめぐって、話はどんどん展開していく。
 小説を読む楽しさを存分に味わわせてくれる作品である。
 それでいて内容はずしりと重い。
 満州侵略から敗戦、引き上げ、米軍占領、講和条約から60年安保、バブルと失われた20年、リーマンショック、ブラック企業、そして地震と津波と原発へ、ほとんど日本現代史の教科書である。
 これだけ詰め込んでもそこには説教臭さがない。見事に物語に溶け込んでいる。
 二人とも家庭に恵まれず、家族親族に関心も持たずに生きてきたが、でも関心を持とうが持つまいが、人間は結局つながっている。
 恋文から出発したいわば巡礼のような(それはおそらくは心の空白を埋めることを強烈に望んでいたのだろう紗弥加の熱心さに、敦史がひきずられての結果なのだが)探索の道行きの過程で、煮え切らなかった敦史の心に変化が生じて結婚を申し込む。
 ところが、ハッピーエンドのまさにその瞬間、地震が発生、二人がいるのは福井県の海ぎわ、「まだ海は揺れていない」、だが湾の向こうに見えるのは原発である。
 この小さな恋の物語は、地震と津波と原発とで打ち砕かれてしまうのだろうか。
 それは決して虚構ではない。東北沿岸と福島とで、そんな、恋の突然の終わりがいくつあったことだろう。

 偶然だが、主人公の名前が、わが「まがね」のホープと字まで一緒である。
 また「さやか」は、最近多い名前で、ぼくの息子の妻もそうだが、漢字が無数にある。その中でこの作品の紗弥加という漢字には何となく仏教的雰囲気が感じられて、彼女の天真爛漫さの中にほの見える求道的な姿を象徴しているようでもある。

 いくつか個人的に慣れにくい言葉がある。「看護師」という言葉はすでに本当に日本語として定着しているのか。法律用語ではないのか。ぼくのまわりではみんな看護婦と呼ぶが、それはぼくら老人だけの話なのか。
「マンション」という言葉が安アパートに定着してきているようだが、これにも違和感が否めない。マンションは豪邸を意味するだろう。
「老女」という言葉になじめないのはぼくだけだろうか。「老婦人」と書いてはいけないのか。

能島龍三「生きる」(民主文学8月号)  石崎徹

 能島龍三「生きる」(民主文学8月号)  石崎徹

 労働を描いた作品を読むのは好きだ。電源車リース会社の25歳の労働者の話である。
 九州での女性アイドルグループのライブ照明の準備中に、若い労働者が墜落して死に、その直後、何事もなかったようにライブが実施される場面の描写には臨場感があった。
 また首都高で過労から居眠り運転に陥り事故の間際まで行く場面にもスリルがあった。
 ただ気になるのは、労働が何となく肯定的な扱いを受けていないように思えること。
 もちろん現代の労働が非人間的な重大な問題を抱えているのは事実である。しかし労働者は一生懸命働いており、不満や批判を持ちながらも、それなりの誇りを持っている。でなければ生きていけない。それを否定的に描かれることには抵抗がある。
 この労働の背中に張り付くようにして最初から最後までちらつくのが福祉労働である。 
 たまたま主人公がもともとそれを目指しながら諸般の事情で挫折したという設定だが、作中ではおのずから設定以上の意味を持ってしまう。二つの労働が対比されているような気がして、目障りでならないのだ。
 だが、全体としては結構読みごたえがあった。労働のいろんな場面を力を込めて丁寧に書いているのがよい。作者の経験とは思えないので、取材と空想力によって書いたのだろう。
 元同級生の女性と、民青と思われる活動家集団の登場は、かなり通俗的だが、それなりに読ませる。
 さまざまな問題を主人公のなかで錯綜させて結論を出さずに終わったのもよい。小説に膨らみを持たせている。
 全体としてはよく書けているのだが、部分部分の描写を見ていくと、かなり疑問がある。
 創価学会としか考えられない集会の場面を垣間見た主人公がこれを不気味がるところ。むろん主人公が何をどう感じようと勝手だが、垣間見ただけで創価学会を否定しているような趣きがある。
 それと対比するような形で民青の集会が語られることには、ご都合主義的なパターン化を感じる。どちらもナイーブな青年の初体験による印象という形なので、青年の心象風景としてはよいのだが、こういう描写にはもう少し現実に即した慎重さが求められるだろう。共産党の集会を垣間見て不気味だと書く作家だっているはずだ。垣間見ただけで書いてはならない物事があるのではなかろうか。
 元同級生の女性との六年ぶりの出会いによる会話が、とんとん拍子に作者の求める方向に向かってしまうのは、読んでいて作為が感じられ、現実感を失わせてしまう。上着を肩にかけていてスポーツ自転車を走らせることができるのだろうかという心配もした。
 あと、気になったのは時制の問題である。
 特に第1節は短い節だが、文章が成立していない。
「被災地の空が夕焼けに染まってきた」と書き出される。凡庸な書き出しだが、それはまあ良いとして、明らかに現在進行形の書き出しである。その書き出しに沿って物語は進んでいく。読者も現在のことだと思って附いていく。ところが節の終わりに来て、いきなり「翌日の早朝のことだった」と、翌日の話になる。現在進行形だと思っていたら、突然「翌日」という未来が過去として登場する。(ことだった)。現在と思っていたのは過去の過去、つまり大過去になるわけである。これはちょっとひどすぎる。読者に忍耐力がなかったら、ここから先は読む気になれない。第2節に入ると、さらにその翌日で、結局1節は挿話に過ぎなかったことになる。全体に時制の扱いがおかしい。
 もう一点。死に対する主人公の向かい合い方。非常にセンシティヴである。それはよいのだが、強調され過ぎるのが不自然である。
 死は人間の心の片隅に常にある。折に触れてそれが突出してくる。それと折り合いをつけながら人は生きている。ところがこの青年は死に呑み込まれてしまったように見える。少し異常な事態なのだ。しかしその異常さと物語とは必ずしも噛み合っていない。ストーリー全体に対してこの異常さは過剰なのだ。

入江秀子「まっすぐ顔を上げて」 石崎徹

 入江秀子「まっすぐ顔を上げて」(民主文学7月号) 石崎徹

 こういう作品を読むと、つくづく小説とは定義できないものだと思う。冤罪事件の再審裁判をめぐる、当事者と支援者たちとを淡々と描写している。それが経過報告ではなく、登場人物たちの描写に重点を置いているので、なにがしか小説的な感慨がある。人間たちに触れたという読後感がある。
 ただ事件の詳細を語らないので、もどかしい。ほんとうに冤罪なのかどうかを読者は判断できないからだ。
 内容的には小説というよりもルポだ。たぶん現実をそのまま書いている。かなり密接な支援者である主人公には、「事件のことを書いたノンフィクション」がある。これはきっと作者自身であり、作者の書いたノンフィクションなのだろう。それがあるので、作者としてはこの作品では事件の詳細な説明は省いて、もっぱら人間的要素に焦点を絞ったのだろう。そしてこの小説で興味を引かれた読者が事件のことを知りたいと思うように促している。その目的は達せられたともいえる。それにしてももどかしさが残るのだが。
 技術的な側面からいうと、構成に少し難がある。事件は1979年に起こり、1980年には刑が確定して1990年まで服役、1995年再審請求、2002年、地裁での再審開始決定、2004年、高裁による棄却、そして2013年、第二次再審請求の地裁決定が出るのを待っている。
 小説はこの2013年を始めと終わりに持ってきて、間に2004年を挟んでいる。主筋は2004年にある。ただその2004年のなかでそれ以前のことも語られるので、過去を語り終わって帰ってきた地点が2004年なのか2013年なのか、読者に混乱を与える。
 時間を行きつ戻りつするのは小説の常道である。その行き来には常に小説的企みがある。それが多少読者を混乱させても仕方ないときもある。しかし、この作品の場合、あえてこういう構成にせねばならなかった必然性は薄いのではないか。

入江秀子「まっすぐ顔を上げて」を読む  鬼藤千春

入江秀子「まっすぐ顔を上げて」を読む  鬼藤千春

 これは実際に起きた事件を題材にしており、小説の内容もほとんど事実に基づいて書かれている作品である。作者はこの事件に関して、2004年9月に「叫びー冤罪・大崎事件の真実」と題するノンフィクションを上梓している。
 大崎事件は、1979年10月15日に起こった。自宅に隣接した牛小屋堆肥置き場で、家主の遺体が発見されたのである。それから、かれこれ34年の歳月が流れているのである。
 この作品は、2013年3月6日、鹿児島地裁が第二次再審請求を棄却したことを契機にして書かれたものである。つまり、モチーフもテーマもそれに依拠している。
 私の胸を強く打ったのは、次の件である。少し長いが引用する。
 「数人の弁護士たちに守られるようにして車椅子に乗ったアキ子(再審請求人)が、エレベーターから降りて来た。着古して、袖口が擦り切れ、胸のあたりにいくつか染みの付いたくすんだモスグリーンの厚手のジャンパーを着て、灰色の冬帽子を目深にかぶり、足元に目をやると左右違った古いサンダルをつっかけている。その姿を見た瞬間、響子(主人公)の目から涙があふれて来た。それは、不当決定に対するストレートな怒りというより、大勢の人の中に出て行くのに、すでに一人では身だしなみすら整えられなくなってしまっているアキ子の老いに対する深い悲しみの涙だった」(かっこ内は評者)
 事件が起きた時、アキ子は52歳だった。それから34年、いま85歳である。(年齢は生まれ月によって違っている)アキ子は、34年もの永きにわたって苦難の道、人生を歩いてきたのである。そのことが、引用した文章によって如実に語られている。この描写は、アキ子の人となりを的確に表現しており、彼女の人間像を浮き彫りにしている。
 この作品の大半は、福岡高裁宮崎支部で、鹿児島地裁の出した再審開始決定が棄却された、9年前の回想である。この作品の題名は、「まっすぐ顔を上げて歩けるようになるまでは死んでも死に切れん」という、アキ子の言葉からとられている。

 この作品を概括して評すと次のようになる。
①まず、読者の心を打つのは、事実の重さであり、それがこの作品を支えている。
②作者はすでに単行本を上梓している作家なので、文体・文章が優れており、話の展開、筋運びも巧みで読者を飽きさせない。
③響子がアキ子に初めて出会ったのは1995年で、すでに18年を経ている。そして事件が起きてからは34年である。その永い歳月をひとつの短編に創りあげた筆力は確かである。
④第二次再審請求が棄却されて、アキ子は「私はやっていません。やっていないことをやっていないと言い続けているのに、なんで認めてくれないのですか。残念で、悔しくてたまりません」という言葉を発する。だがその声音にはかつての闘志も悲痛な叫びさえも感じられない。アキ子は車椅子に乗り、じっと石のように固まったまま俯き続けている。このアキ子の描写は優れている。
⑤が、にもかかわらず、響子はこの閉塞情況に戸惑いながら、未来への希望を模索しつつ、この物語は閉じられるのである。

小宮次郎「虹の橋」 石崎徹

 小宮次郎「虹の橋」(民主文学7月号) 石崎徹

 この作品は、読みやすさという点だけで言えば、今月号いままで読んだなかでトップだろう(まだ一作残っているが)。気楽に読める肩の凝らない小説というのはいいものだ。民主文学も変わってきたなと思う。日々労働と生活にふりまわされている現役世代にとっては、読書は気晴らしという側面が強いだろう。そういうものは提供されねばならない。そこで気分転換してまた労働と生活に立ち向かうのだから。
 ただ、そういうものばかりになると、今度は逆に、文学的なものを求める読者が不満を持つだろうという気がする。
 読みやすいから駄目だというのではない。読みやすいに越したことはない。読みやすいうえにストーリーが動いていくので、読まされる。ところが、ストーリーだけを読まされているような気がするのだ。書かれていることがすべてストーリーの展開だけを追いかけている。面白いストーリーだし、ドラマになりそうだが、そのとき脚本家は情景を膨らませるのに苦労するだろう。
 情景の雰囲気が感じられないのである。ドラマがカメラで描いてみせるその場の雰囲気を、小説は文章で描き出さねばならない。俳優が演技力で見せるものを、小説は文章で見せねばならない。ひとつの疑似空間が、そこに浮かびあがってきて、その描かれたものの個性を読者に堪能させねばならない。文学はストーリーを楽しむだけのものではない。描写されたものの個性を味わうものなのだ。
 描かれた内容は興味深いものである。銀行内の正規と非正規との対立を描いている。それは経営側の差別による労務管理なのだが、その現場にいる当事者にとって、この対立は避けがたいものである。人手不足が事故につながりかねないところまで来て、正規、非正規、現場の管理者までが一時的にせよ共通の立場に立つ。共通の立場に立ちながら、それが一時的なものであることをお互いが自覚している。ここには現実への厳しい目と、どこかに希望を見出そうとする意志とがある。
 それを読みやすい作品に仕立てたという点は評価する。だが、小説として読者に提供するには、もっと書きこむ必要があった。芝田敏之の「人気投票」と同じ問題を抱えていると言うべきだろう。

小宮次郎「虹の橋」を読む  鬼藤千春

小宮次郎「虹の橋」を読む  鬼藤千春

 これは銀行の女性、正行員と非正行員の連帯・団結を描いたものである。現代社会における女性の非正規社員は、50%を超えているといわれている。その非正規社員の処遇は極めて劣悪なものである。同じような仕事をしていても、賃金が半分以下とかボーナスが無いか、あっても僅かである。年休なども与えられていない職場は少なくない。
 そのために、正規社員と非正規社員が連帯・団結をしてゆくのは困難が伴うのである。この銀行でも正行員と非正行員の間には溝がある。
 「正行員はいいよね。休んでも早退でもお給料が引かれなくて」
 パートの梅村順子の言葉である。
 このように、正行員と非正行員の間には、埋めるのは相当難しい溝が横たわっている。しかし、正行員が1年で最も忙しい12月を前にして、退職してしまう。そのために、正行員もパートも連日残業が強いられるようになった。また、現金が10万円合わない、というトラブルも発生した。
 主人公の夏美は、課長や支店長や組合役員と掛け合って、1人増員するように要請してきたが、彼らはいずれも難しいということを繰り返すばかりであった。そこで、夏美たち正行員とパートの女性が集まって、嘆願書を提出することにしたのだ。そして、正行員とパートの女性全員の署名と捺印の嘆願書が作られ、支店長に提出されたのである。
 題名の「虹の橋」というのは、ここからきている。つまり、正行員とパートの溝が埋められ、橋が架かったのである。
 この作者は、「民主文学」初登場である。この作品のモチーフもテーマも明確で、それに沿った物語が展開されている。無駄なことがほとんど書き込まれることもなく、簡潔で分かりやすい小説になっている。つまり、ムダ、ムラ、ムリのない作品になっている。初登場の作者は、一応の成功を収めた作品を書き上げたといっていいだろう。
 が、私はこの作品を読んで、「社会的な事件、出来事と人間」ということを考えさせられた。「社会的な出来事」を書いてゆく場合、よく落ち込むのは「人間」を描くということが、おろそかになるということである。
 私たち読者は、社会的な事件、出来事がどのように展開され、どのような解決をみるのか、という興味ももちろんある。しかし、読者が真に求めているのは、事件や出来事の在りようではなく、その中に生きる人間である。つまり、「時代と社会の中に生きる人間」がどのように形象化されているか、そのことこそが真に求められているのである。
 そして、小説を通して「人間とは、人間らしく生きるとは、人生とは」を受容し、感得したいと思っているのである。この作品は、小品でそこまで求めるのは控えなければならないが、夏美と順子の人間像をもっと深く描くということも、課題として残っていると言わなければならない。