随想・エッセイの記事 (2/2)

「カミーユ・クローデル」 野中秋子

カミーユ・クローデル   野中秋子

 先日テレビの芸術番組で女性彫刻家カミーユ・クローデルの作品とその生涯が紹介されていた。
 パリにあるロダン美術館には30年程前に一度だけ訪れた事がある。「ロダン」という発音ではタクシーの運転手に通じなくて、「オダン」と発音するのだという事もその時知った。
 ロダン美術館の一室をとってカミーユ・クローデルの作品が展示されていた。私はこの美術館を訪れるまでカミーユについては全く知らなかった。おそらく彼女をモデルに使ったのであろうと思われる、とても大胆なポーズのロダンのスケッチ画とともに、この男と肩を並べる程の力量を感じさせる女性の彫刻家がいたという事実は私の心に強く残った。
 「カミーユ・クローデル」の映画を見るために広島まで出かけた事もあったが、見終わった後、私は出口のない暗闇の中に放り込まれたような辛く憂鬱な気分に襲われてしまった。
 何故なのか。一つには創作を通して語られるロダン自身の言葉が若い頃の私を魅了し、日本でも度々見る機会のある彼の作品の素晴らしさが芸術家としてのみならず、人間としても素晴らしいと私の心の中に焼き付けられていたせいである。
 1864年に生まれたカミーユは、幼い頃から神話や聖書の劇的シーンを想像力だけで立体化して遊ぶような子供だったらしい。父親の転勤に伴って各地を移動する度にカミーユの関心事だったのは、近辺に粘土性の土を見つける事だった。
 彼女の才能を最初に認めたのは、パリの美術アカデミーで彫刻を学ぶアルクレート・プーシェという人物で、彼はカミーユの弟の家庭教師の友人という間柄だった。プーシェはカミーユの作品を見て、本格的に彫刻を学ばせるよう彼女の父親に勧めたのだ。
 当時のフランスは、まだ国立美術学校に女生徒を受け入れていなかった。
 1881年、パリの美術学校ジュリアンでカミーユは学び始め、学友と共同で本格的に学習アトリエを開き制作に没頭した。そして翌年サロン(政府主催の官展)へ送った石膏胸像が見事入選し、未来は希望に輝いていた。
 そんな時アトリエの指導者だったプーシェはローマに留学することになり、代わりにやって来た新しい指導者がオーギュスト・ロダンだった。こうして18歳のカミーユと42歳のロダンは出会った。
 ロダンはこの時既に量感溢れる作風で他を圧倒する新進気鋭の彫刻家として世に出ていた。彼はカミーユの並々ならぬ才能に衝撃を受けるとともに、その若さと美しさに心を奪われてしまった。ロダンには16年連れ添ったローズ・ブールという女性がいたにもかかわらず。
 カミーユとロダンの関係は子弟を超えた男女の愛へと進んでいった。ローズは貧しいロダンのためにお針子として働き、日常の世話から作品の管理までやり、一人息子が生まれても内縁のままでロダンに尽くし続けるという女性だった。
  才能溢れるカミーユの中で、彫刻家としての自立の欲求とロダンへの強い愛の葛藤という苦しみが始まった。誇り高いカミーユは、愛人の座に甘んじることは出来なかった。また彫刻家としても、女性という事で容易に世間から認められず、事あるごとに、「ロダンの物真似」「ロダンの生徒」と言われ続けてもきた。
 彼女はロダンと出会い、学び、お互いの才能を認め合いながら創作を重ねていった。そして激しく愛し合い強く反発しあった。 しかしロダンが最後に選んだ女性はローズだった。
 醜い老婆と一緒に去ろうとする老人。そして男に取りすがる若い女。「分別盛り」という題名でカミーユはその時の自分の想いを作品にした。老婆はローズ、老人はロダン、若い女は彼女自身を表している。
 1898年、カミーユは彫刻家としての自立をめざしロダンのもとを去る。しかしその後間もなく心を病み精神病院に隔離され、78歳でその生涯を終えるまでの30年間、病院から出る事は一度もなかった。妄想の中で激しくロダンを憎み続けながらの30年間であった。
 ロダンはカミーユのために病院へお金を送ったり、晩年建設予定のロダン美術館の一室をカミーユ・クローデルのために捧げるよう遺言も残している。
 1880年フランス政府の依頼で制作された未完の作品「地獄の門」はカミーユ自身もモデルとなり、共に制作した二人の愛の葛藤の最後のモニュメントと言われている。
 幽閉された病院の中で30年間、かつて愛した男を憎み続けるカミーユの心の中は想像を絶するものがある。
 彼女を発狂に追い込んだものは何なのか。そして発狂せずにその苦しい人生の一場面を乗り越える道は、一つも見出しえなかったのであろうか。まだ彼女が若かっただけに、一層その事が私を辛い思いにさせた。
 ロダンをして、あの時代で女性を一人の人間として見る力をどれ程持ち得ていたであろうか。
 こんな事を考えている時私の心をよぎったのは、「一番時間がかかり、最後まで残るのが女性差別だよ。これは相当時間がかかるなあ」と喫茶店でお茶を飲みながら私達に語った、哲学者の古在由重氏の言葉だった。まだ私が若い教師だった頃の話だ。また我が娘の結婚式のスピーチでこうも言ったそうである。「娘よ。夫の奴隷にはなるな」と。
 ロダンもカミーユも共に才能豊かな芸術家である。二人とも自分の力への自負とともにプライドや高慢さも持ち合わせ、その事が二人の愛情の中の葛藤の一つにもなったであろう。単に二人の女の間を揺れ動く優柔不断な男ロダンという側面だけでなく、女がその仕事に自分と肩を並べる程の力を持って現れた時、ロダンはその男の古さでもってカミーユの全てを受容しきれなくなったのであろうか。カミーユはローズのように、愛する男の後ろを静かについて行くだけでは終わらなかった女である。
 しかし愛の関係においては、カミーユも多くの女性達がそうであったように、まだ自立の方法を見つけ出す事が容易には出来なかった。またロダン自身も自分の中の愛に生きる勇気は持ち合わせていなかった。
 若いカミーユが激しい恋愛の破綻から受けた深い傷を糧に一層芸術家としての力に豊かさを増し、ロダンをその創作でもって乗り越えていってほしかったと女性の私は強く思う。
 男を全身全霊で愛した自分まで否定せず、その愛の過程の自分のありのままを受容し、作品を生み出す女としての力を私はカミーユの中に見出したかった。

「いい加減が合理的」 野中秋子

いい加減が合理的  野中秋子

 最近面白い記事を見た。
新聞の科学の欄で「DNAの収納、実はいい加減」というのだ。何だか人間の生き方の本質を言い当てているようで、DNAの知識は全くない私にも関心を強くひかせる記事だった。
 研究がここまでくる過程で今まで定説とされていた事が覆される痛快さ、当たり前が当たり前でなく、規格から外れているとみなされていた方が自然の理にかなっているというだけでワクワクしてくる。
 「揺らぎ」「いい加減」というDNAの融通性こそが不規則な動きやすさにつながり、省エネで必要な時に必要な事を一番手早く見つけ出せるようになっているらしい。本当に人間生体という自然も合理的に出来ているものだと感心した。
 人の心の闇の部分だって実は合理的な視点を持たないと見えてこないような気がする。
 文学と科学はどこかでしっかり繋がっていないと双方とも生きて動かない気さえしてしまった。二つの共通点はロマンだから。

「新年にあたって」  鬼藤千春

新年にあたって       鬼藤千春

 大晦日恒例の紅白歌合戦にチャンネルを合わせて、テレビの前に座っていたが、私が考えていたことは、やがてくる新年のことである。二〇一三年がどんな年になるか、どんな年にしたいのか、ということどもだ。
 私の想いは大きく膨らんで、遠くを見るような眼でテレビの画面をぼんやりと見ていた。文学や健康、わが家の経済や生活のあり方、などが頭を過ぎっていった。
 生活の在りようの軸にしてゆきたいのは、「書くことと読むこと」ということであった。書くことといえば、まず日記を毎日綴ってゆくということである。小説の方は掌編小説を幾編かと短編を二つくらい書いてゆきたいというものだ。
 いま、一月を終えようとしているが、日記は四百字詰め原稿用紙にして、百五十枚の分量を書いてきている。一日平均五枚である。この日記の量は尋常ではないと思っているが、それは小説が書けないからだ。
 小説を書くということは、決して容易なことではない。まず「なぜ書くのか」、「何を書くのか」、「どのように書くのか」、ということをクリアしなければならないからである。言葉をかえれば、モチーフは、題材は、テーマは、創作方法は? ということを考えなければならないのだ。小説を書こうと思いたつと、まさに「寝ても覚めても」そのことを考えるようになる。自身の内部でそれが醸成するのを辛抱強く待つのだ。
 しかし、そんな辛い営為をしたからといって、いいヒントが天から舞い降りてくるわけでもないのだ。そこで小説が書けないから、やむなく私は日記を書いているのだ。謂わば、本業が芳しくないから、仕方なく内職をしているようなものだ。早く日記から開放されたいのである。
 読むこと、は書くことと切っても切れない関係にある。ほとんどの作家や評論家は、「いい小説を書こうと思えば、いい小説を沢山読むことだ」、ということを例外なく言っている。だから、いい本を一杯読むことが求められているのだ。が、私の友人は、「その歳になって今更本を読んでももう遅い。やめとけ」と手厳しい指摘をする。
 その通りだとも思う。遅きに失する、という気がしないでもない。たしかに青年時代には、「人間とは何か、人間はなんのために生きるのか」、という風なことを考え悩んでいた。したがって、感性も豊かで研ぎ澄まされていた。しかし、六十五歳にもなると、本から受容することが鈍感で限られてくるのはたしかだ。が、書こうと思うならば、あえて読まなければならないのだ。
 そこで新聞の連載小説を読むことも、私のひとつの目標にしたのである。いままで、この歳になるまで、新聞の連載小説を読んだことがなかった。単行本が発行されてから読めばいい、というのが私の考えであった。が、本にならない連載小説もあるから読んでおきたい、と思ったようなわけである。いま、「民主主義文学会」会員の須藤みゆきの「月の舞台」という連載を、一日も欠かさず読んでいる。
 そして、決して欠かせないことのひとつは、健康であるということだ。私の近しい人たちの中にも、健康を害している人がずいぶんと多い。そこで、ウオーキングをすることを心に秘めたのである。冬と夏は室内でウオーキング・マシンを使ってやることにしている。春と秋はもちろん室外へ出て、海や山の風景を眺めながら歩くのである。いまは、パソコンで高橋真梨子や山崎ハコの動画を視聴しながら、一時間のウオーキングだ。この一年、健康であることを痛切に願っている。
 新年を迎えて、新しい変化というのは、「まがね文学会」がホームページ(ブログ)を開設したということだ。これは会に活性化をもたらしている。私自身、年間に幾編かの掌編小説を書けばいいと思っていたのだが、このブログによって、毎月一編の掌編を書くことを心に期したのである。また、ある会員も自身の作品が掲載されたことによって、意識の変化があったようで、新しい提案を寄せてきている。彼ももっと作品を書いてみたいという希望を述べている。
 「まがね文学会」は、文芸誌「まがね」とブログという、発表の場をふたつ持ったということになる。そのどちらとも継続というのは難しいのだ。それでも「まがね」は三十数年発行してきて、試され済みであるけれど、ブログはこれからである。ネットでよく見受けられるのは、開設はしているが、それがなかなか更新されないということだ。それでは読者の信頼は得られない。私たちはこのブログを継続するだけでなく、豊かで充実したものにすることが使命となっている。
 最後に、「まがね文学会」のよりよき発展を願って新年を迎えたのである。会の目指すものは、単純化していえば次の通りである。つまり、一人ひとりの会員が、「よく読むこと」、「いい作品を書くこと」、そして、「仲間を増やすこと」である。そして、芸術と文学の民主的発展に寄与することだ。
 この一年が、「まがね文学会」と会員のみなさんにとって、いい年でありますようお祈り致します。