掌編小説の記事 (2/4)

「音楽」 石崎明子

音楽  石崎明子

 約束のない土曜日の夜ほど退屈な時間はない。一人で夕食を終え、食器を洗っていると、マダムがやってきて、今夜、英国人の散歩道で花火が上がるのよと言った。メルシ、行ってみますと返すと、うれしそうに微笑んだ。
 元オーストリア人の彼女の息が抜けるようなアクセントにも、最近はずいぶん慣れた。はじめて電話をした時は、何を言っているのかほとんど分からず、これが話に聞く南仏のアクセントかと大きな勘違いをして、不安におそわれたものだ。
 壁には独立して家を出た子供たちや、六つになるかわいいお孫さんの写真が飾ってある。夫の写真がないのは、離婚したのだろうか。アパートの五階の風通しのいい部屋に一人で住んでいて、北向きの三部屋は、学生に貸している。今下宿しているのはドイツ人の兄弟、スウェーデン人の娘さん。毎日朝から晩まで出かけている。来て一週間足らず、時間をもてあましている私とは大違いだ。おそらく彼女はそんな私を見かねたのだろう。
 九時過ぎに家を出る。ガリバルディ広場を横切り、古いニースと呼ばれる旧市街に入った。途端に道が狭くなる。幅三、四メートルの細い路地、観光客の頭の上にのしかかるようなアパートの壁は、黄色、橙、桃色。窓には水色の鎧戸。フランスでは法律違反のはずの洗濯物も、涼しい夜風に揺れている。ちょうど夕食時でレストランの前に出されたテーブルではろうそくの灯りのもと、皆おいしそうに海の幸をほおばっている。アコーディオン弾きはテーブルの間を練り歩き、下手くそなオーソレミオを声を張り上げて、歌っている。
 ニースは一八六〇年までイタリアの小国サルディニアの一部だったという。ここには、十七世紀イタリアの下町の風景がそのまま残っているのだ。
 教会を一つ、イタリア名のついた広場を二つ三つ通りすぎる、建物にぽっかりあいたアーチをくぐるといきなり海に出る。夜のニースは夢みたいにきれいだ。ゆるやかなカーブを描く『天使の湾』沿いに、車のライトが真珠のように連なっている。どこかの有料ビーチではビーチパーティが開かれているようだ。浜辺で華やかに点滅している明りが見える。
 さて花火はと目を凝らすと、湾沿いのずっと遠くに、ひときわ大きく輝くものがある。見ていると、それは地上の光からはなれ、ふわりと浮かびあがった。両脇に赤と青の小さなランプをひきつれて、湾を横切っていく。飛行機だったのだ。ふりむくと、城跡の残る小高い丘のところどころがライトで照らされ、ガリヴァー旅行記の浮島を思わせる幻想的な光景だ。
 歩道のベンチに座って一休みする。一段低い浜辺では、若者たちが思い思いに輪になっておしゃべりしている。聞こえてくるのは英語、イタリア語、スペイン語、黒人のジュース売りがアロー、アローと独特のかけ声で叫びながら、玉砂利の浜辺を歩き回っている。
 様々な国籍のバカンス客たちが、目の前を笑いながら通りすぎていく。家族連れ、ローラースケートをはいた若者たち、恋人同士。独りなのは私くらいだ。無性に寂しくなる。
 ロビンソンにフライデーが必要だったように、きれいなものは誰かとわけあうことが必要なのだ。一人では笑顔も浮かべられない。
 花火ははじまらない。座っているのにも飽きて、立ちあがって少し歩く。家族連れが立ちどまって見ている大きな看板に興味を引かれ、一緒に眺めると、「花火を見ながらディナーを。二十時半から」と書いてあった。すでに九時半をまわったところだ。一気に力が抜ける。仕方ない、帰ろう。
 旧市街に入るアーチの前にもどると、大きな拍手が聞こえた。人だかりの間からのぞくと、柱の根元にハープを抱えた若者が座っていた。黒髪に彫りの深いイタリア系の顔立ちをしている。さらっと指慣らしをして、静かに弾きはじめた。
 それはとても美しい音色だった。のどの渇きをいやす清水のように、やさしく心にしみいってくる音色だった。高く澄んだ旋律と、柔らかい低音の和音が、完全な調和を生みだし、心は空へ飛んだ。古代ローマ、女神の神殿でハーブを奏でる楽人。嫉妬深い女神の像が柱の間から彼をじっとみつめる……
 チャリン、という金属音で地上にもどる。無造作に地べたに置いてある帽子に、次々と小銭が投げ入れられる。曲が終わると盛大な拍手があがり、小さな兄弟が走りよって帽子に小銭を入れた。彼が微笑むと、恥ずかしそうに逃げ出した。次の曲はうってかわって陽気な曲だった。ポケットの中を探って二フランをみつけ、投げ入れると、その場を後にした。町はこれからが本番で、日焼けした人々をかきわけて歩く。心は音楽で満たされて、もう寂しくはなかった。

「小鳥」 鬼藤千春

小鳥   鬼藤千春

 周作と外界を結ぶのは、わずか六十センチ角ほどの小窓だけだ。だが、この小窓がどれだけ彼の心を癒すものとなっているか、それは計り知れない。
 青い空を背景にして、白い雲が流れていったり、時折り小鳥が過ぎっていったりする。周作はその小窓を終日眺めているのだ。晴れの日も曇りの日も、雨の日もそうだった。
 やはり、雨の日は憂うつだった。鉛色の空が低く垂れ込めて、グレーのカーテンを引いているようだ。風にあおられ、雨粒が斜めに落ちて、窓硝子を流れるだけである。
 周作は、三階の倉庫のような部屋へ押し込められている。この部屋は横四メートル、縦三メートルくらいの大きさだ。その部屋の中央に、ひと組の机と椅子がぽつんと置かれている。入り口は半間のアルミのドアだ。
「桐野君、うちの会社はピンチだ。いま退職すれば、三割増しの退職金が出せる。どうかな」
 応接室へ呼んで、だしぬけに課長が言った。
「課長、それはどういうことなんですか。辞めて欲しいということですか」
 虚を衝かれて、周作は狼狽していた。
「桐野君、不況でどうにもならんのだ。コストをカットしなければ、会社がもたん」
 眼鏡の奥の瞳が、鋭く光った。
「課長、うちには、中学三年と小学六年の娘がいるんですよ。金がいるのはこれからです。家のローンもあと二十年ですよ」
 課長を睨んで、周作は言った。
「まあ、今すぐ結論を出せ、と言ってるわけじゃない。考えといてくれ」
 課長はそう言って、席を立った。
「課長、ぼくは、いま辞めるわけにはいきません。考えることは何もありません」
 課長を見上げて、周作は言った。
 その後、周作は三回呼ばれた。いずれも辞めてくれ、辞めない、の押し問答だった。そして、前回の面接があったのだ。
「桐野君、もう君のする仕事はないんだ。辞めるのが厭だったら、明日から三階の特別室で待機していてくれ。仕事があるようなら、またいずれかの部署に、就いて貰うようにしよう」
 課長の言葉は、冷ややかで突き放すように聞こえた。
 周作は、次の日から特別室へ通うようになった。朝、出勤すると、総務へ出向いて室の鍵をもらう。午前八時までに室へはいるのだ。そして、午後五時まで特別室で待機しているのだった。
 特別室へ通うようになって、はや一カ月が過ぎた。二月の初めにここへ来るようになって、もう三月を迎えた。二月は北の空が鉛色の日が多かった。が、三月になると、空の色が変わってきた。
 小窓で切り取られている風景は、まるで写真を観るようだった。遠くに山々の峰の連なりが見える。そのうえにスカイブルーの空が広がっている。白い綿菓子のような雲が、窓の左から覗いて、ゆるやかに右の窓枠の方に向かって流れてゆく。
 窓を凝視していると、小石が投げ飛ばされたように、小鳥が窓を横切ってゆく。が、一日に何回かは、小鳥が窓枠に止まって、特別室の中を覗いてゆく。窓枠が少し張り出した上を、器用に渡って移動してゆくのだ。
 スズメだろうか、いや名も知らぬ小鳥のようだ。チチッ、チチチッ、チッ、とかすかに、小鳥の鳴き声が聴こえてくる。小鳥はせわしげに、首を左右に振って室の中を窺う。周作と眼が合うことがある。机の前に座っている周作をじっと見つめる。そして、首をかしげる仕草をする。滑稽だった。周作は、思わず笑みがこぼれた。
「おい、元気か。いよいよ春だな」
 周作は、優しく小鳥に声を掛けた。
 明日香は今春から、高校生である。妹の紗希は中学生だ。ここでギブアップするわけにはいかない。周作は待機が解かれるまで、この特別室にいるつもりだ。
 この室はリストラ部屋と呼ばれて、もう何人もの人が会社を去っていった。精神的に参って、うつ病になった人もいたし、不眠症や食欲不振に陥った人もいた。彼らは退職を余儀なくされていった。
 周作は本屋に行って、ストレッチの本を求めて、この室でよく身体を動かすように努めてきた。四メートルと三メートルの室をウオーキングもしている。
 ふんわりとした白い雲が流れて、青い空が山なみの上に広がっている。春の光を浴びて、空は輝いていた。小鳥が周作をじっと覗き込んでいる。時折り小さく羽ばたきをして見せる。
「負けてたまるか!」
 胸底から突き上げてくるものがあり、周作は心の中で叫んだ。
 チチッ、チッ、チチチッ、――
 小鳥が不意に力強い声音で啼いて、飛び立っていった。

「徳正の懸念」 笹本敦史

徳正の懸念  笹本敦史

 徳正は気がかりだった。最近、つれあいの痴呆がかなり進んできているようなのだ。話しかけても、徳正の言っていることが理解できないのか、とんちんかんな反応をする。
 先日は、つれあいがふらりと家を出て行って行方不明になった、徳正は何時間もかけて探し、ようやく見つけることができた。
「ずいぶん探したぞ。何をしてたんだ?」
「お父さんがいないから探してたんですよ」
「おれはここにいるだろう」
「どうしてですか?」
「どうしてって、お前を探してたんだ」
「そうですか」
 つれあいは諦めたようにつくり笑顔を見せ、手を差し出した。今さら手をつないで歩く歳でもないが、徳正はその手を取って歩いた。困ったことになった。このままではつれあいのことを四六時中監視していなくてはならなくなる。頼りになる一人娘は遠方に嫁いでいて、めったに帰ってこない。
 今日ももう昼飯時をとうに過ぎているのに、つれあいは飯の仕度をしようとしない。困ったことに徳正は家事というものが全くできないのだ。こんなことなら飯の炊き方ぐらい教わっておけば良かったと思うが、今のつれあいの状態ではまともに教えてはくれまい。
「おい、昼飯は」
 とうとう我慢できなくなって、徳正はつれあいの背中に怒鳴った。つれあいは呆けたように振り返り、
「さっき食べたじゃないですか」
 などと言う。
「もういい」
 徳正は静かに言って立ち上がった。これ以上何を言っても無駄だろうと思い、外に出ることにする。
「どこへ行くんです?」
 つれあいの声が聞こえる。
「加部のところへ行く」
 徳正は近くでそば屋をやっている幼馴染の名を告げた。
 そば屋の暖簾をくぐると幼馴染が、
「徳ちゃん、待ってたよ」
 と声かけてきた。
「待ってたってのはおかしいな。お前は予知能力でもあるのか」
「おカミさんが電話してきてさ、あんたが行くからよろしくってな」
「そうか……」
 徳正はつれあいが何を思って電話をかけたのか、と考え込んだ。
「それで何の用だ?」
「何の用もないもんだ。そば屋に焼肉食いに来るやつがあるか。あったかいヤツを頼むよ」
「おお、そうか……わかった」
 加部は手際良くそばを茹で、出汁をはった丼に入れ、葱と鳴門を乗せて出した。
「いやあ、美味そうだ。もう腹が減って死にそうだったんだ」
 しかし、徳正の箸の動きはすぐに鈍った。やはりつれあいの状態が気になって、食が進まないのだ。
 それから数日経った。娘が珍しく訪ねてきた。
「病院へ連れて行ってあげようと思って」
 娘はタクシーを呼び、二人を乗せて病院の名を告げた。
 精神科のようだった。待合室は空いていた。痴呆の治療はこういうところが担当するのか、と考えていると、予約をしてあるためかすぐに声を掛けられた。
 診察室へは徳正と娘もついていった。
「徳正さん」
 医者に名前を呼ばれた。
「今日が何月何日かわかりますか?」
「ええと……、一月……」
 そう言いかけて自分が半袖シャツを着ていることに気がついた。
「あっ、いや違った」
「いえいえ、いいんですよ。ちょっとした検査ですからね。徳正さん」
 医者は満面の笑みを浮かべていたが、徳正を凝視する目は笑っていなかった。徳正は思わずつれあいと娘を見まわした。二人とも心配そうな目で徳正を見つめていた。
「えっ?」
 徳正は思わず立ち上がった。その勢いで丸椅子が転んだ。椅子が床を打つ音が診察室に響いた。
「オレじゃない」
 徳正は大声を上げた。
「大丈夫ですから、落ちついてください」
 医者はいっそうの作り笑顔で言った。しかし、射すくめるような目は徳正を冷静に観察している。

「望遠鏡」 鬼藤千春

 望遠鏡  鬼藤千春

 車から降り立つと、かすかな甘い香りが漂ってきた。史朗が振り向くと、墓地の入り口に金木犀が植わっていた。
 高台にある墓地に歩み寄ると、瀬戸内海が大きく広がっていた。太陽の光線を浴びて、海は蝶が舞っているように輝いている。水平線は空が落ち込んだあたりで、ぼうっと霞んでいた。
 墓地に視線を移して見渡すと、四角錐をした戦死墓が、いくつも屹立していた。この村で、アジア・太平洋戦争による兵士の死者は、三百三十五人にのぼる。たかだか六千人の村である。人口比でいうと約五%、男性のみだと約十%、青年、壮年期のみだといったい何%になるというのだろうか。それだけの死者がこの村から出たのだ。
 史朗は墓地へ下りて、戦死墓を一つひとつ見て回った。墓碑には死に至った土地が刻み込まれている。「満州国」、中華民国、沖縄、レイテ島、シンガポールなどで戦死していた。
 史朗は比較的大きい戦死墓の前で、老婆がへたり込んでいるのに遭遇した。彼女は膝を曲げて、腰を地べたに落としている。背中を丸め、手のひらを合わせて、口をもぐもぐと動かしている。
 史朗はそのようすを、少し離れたところから眺めていた。口を動かすのをやめたところで、彼は老婆の傍に近づいて行った。純白の菊が花立てに挿し込まれ、線香の煙が立ち昇っている。
「ご苦労様、お参りですか」
 史朗は墓地の外から声を掛けた。
「ああ、どなたですりゃ。見かけんああさんじゃなあ」
 老婆は腰を伸ばし、首をねじって史朗を見た。
「ええ、わしはこの村の西地区のもんでなあ。この東地区へはめったにこんからなあ。今日は、この地区の戦死墓を見て回りょうるんじゃ。ちょっと、戦争のことを調べょうるからなあ」
 史朗は、老婆と同じような視線の高さになるように、腰を落とした。
「戦争を? こりゃまたえらいことじゃのう」
 老婆は怪訝そうな顔をした。老婆の顔や手の甲には、褐色のしみが浮き出て貼りついている。
「ああさん、今日はのう、わしの連れ合いの月命日なんじゃ。それでこうやって、墓参りをしょうるんじゃ」
 老婆は濁った眼を史朗に向けた。
「おばあさん、連れ合いは何処へいっとったん?」
 老婆の顔を覗き込んで、史朗は訊いた。
「ルソン島のバレテ峠じゃ。そこで米軍と烈しい戦闘をやってのう」
 振り向いて、老婆は言った。
 老婆の投げた視線の先には、四国山脈の峰々が連なっていた。
「あの山の向こう、台湾から輸送船でルソン島へ送られてのう。バレテ峠の陣地へ遣られたんじゃ」
 遠くを見るような眼をして、老婆は中空を眺めていた。
「じゃがのう、空も海も米軍の支配下にあったんじゃ。陸はブルドーザーが道を切り開いてのう。そのあとを戦車がやってくるんじゃ」
 老婆は顔を紅潮させて、眼をしばたたいた。
 瀬戸の海の沖合いには、貨物船がほとんど泊まっているように見える。沿岸近くの海では、漁船が白い尾を曳いて行き交っていた。牡蠣筏が、何枚も整然と浮かんでいる。美しい光景だった。
「そんで、うちのはのう。ウサギ狩りじゃいうて、夜中に敵の陣地へ斬り込みをさせられたんじゃ。じゃが、その直前に発見されて、機関銃でやられてしもうたんじゃ」
 老婆は墓に向かって、手のひらを合わせた。
 墓の供物台には、赤飯や菓子、ビールや果物が、溢れるばかりに盛られている。
「沢山のお供えもんじゃなあ。ご主人はビールが好きだったんですか」
 史朗は供物台を凝視して言った。
「うちのは、漁師じゃったから、酒が好きでのう。漁から帰ったら、浴びるほど飲みょうたんじゃ。復員した人に聞いたら、ルソン島に上陸してからは、ろくにめしを喰わせてもらえなかったそうじゃ。じゃから、こうして、お供えしょうるんじゃ」
 老婆は供物にそうっと、手を触れて言った。
 史朗は老婆に席をゆずってもらって、墓の前で膝を折った。手のひらを合わせ、深く頭を垂れて、般若心経を唱えた。この仏は三百三十五人のうちの一人だ。この小さな平和な漁村にも、戦争はやってきたのだ。
「ああさん、ありがと。じゃが、この墓には連れ合いの骨はないんじゃ。役場から白木の箱が届けられただけで、お骨は還らなかったんじゃ。じゃから、うちの人の大切にしていた、望遠鏡を納めてやっとんじゃ」
 老婆は眼を赤く染めて、墓石を手のひらでやさしくさすっていた。

「白樺」 石崎明子

白樺   石崎明子
 
 図書室で勉強しようと思ったのには訳がある。韓国人のスーキョンが、ガラス越しにリスを見たと言ったのだ。
 図書室は寮の中庭に面している。奥の方は密林のような有り様だから、リスがいたって不思議ではない。フランス美術史のノートをめくりながら、時折ちらっと庭を見やる。
 もう中心街ではノエルのイルミネーションがにぎやかで、オペラ座の前の広場には回転木馬も姿を見せた。ウィンドウの樅の木は店ごとに趣向を凝らして飾りたてられ、大人も子供もうきうきと街を闊歩する。もちろん、暖かいコート、帽子にマフラーは必需品だ。
 ところが、来週にテストを三つもかかえた私はといえば、昼下がりの図書室で、ロマネスクとゴシックの建築様式の違いについて頭を悩ませていたりするわけだ。そういえば、川向こうの移動遊園地も今日までって言ってたっけ。
 リスは現れない。もしかしたら既に冬眠に入ったのかもしれない。乾いたいい匂いのする枯れ葉をいっぱい敷き詰めて、頬には山ほど木の実をつめこんで、春の緑の新芽の夢を見ながら。
 それはともかく、勉強勉強。フランス美術史は最も好きな授業だが、最もハードな授業でもある。マダムルコントは三十代半ばの優しい声をした教授で、授業はスライドを見ながら行われる。ラスコー洞窟の壁画の頃は、慣れない学生達の耳を気づかって、スローペースだった講義も、二カ月たとうとしているこの頃は猛スピードで進んでいく。マダムの言葉を必死に書きとっている間に、いつのまにか一時間がたっている始末だ。綴りも何もあったものじゃない。ノート一杯に書きちらかされているアルファベットを判読しながら、Jersualem(エルサレム)がJesusalem(エスサレム)となっているのにため息をつく。
 キリストの十二使徒って誰だっけ? と考えていた時、すぐ近くで落ち葉を踏みわける足音がした。顔をあげると、一人のシスターが眼の前をゆっくり横切った。
 シスターマリーテレーズだ。年老いた静かな横顔を紺の頭巾が包んでいる。庭の小道を遠ざかって見えなくなった。何をしているのだろう。もしかして日曜日のシスター達は、朝昼夕の祈りのほかにも、こうやって祈り続けているのだろうか。
 また木立の向こうにちらっと彼女が見えた。日本人のみきさんによると、二十年前知人がこの寮に住んでいた頃には、彼女が毎日猛烈に働いていたそうだ。今では、マリージュヌヴィエーブとマリーアルメールの二人のシスターが寮を取り仕切っていて、マリーテレーズを見ることはあまりない。一生涯尼僧服に身を包み、神に仕え、他人のためにつくし、そうして彼女らの日々は暮れていくのだろうか。カトリックの国フランスに、時々、不思議な気持ちを覚える。その果てしない信仰は、どこから来るのだろう。庭中を歩きまわったあと、彼女の姿は消えた。
 いつになく敬虔な気持ちで残りのノートを見直す。建築技術が高度になるにつれ、徐々に高くなっていく教会の尖塔。より高く、空に突き刺さるほどに、人は神に近づくことを望み続けた。シャルトル大聖堂のステンドグラスは地上で最も美しい青色である。その色を今日出そうと試みるのは、無駄なことなのだ。
 日差しがかげり、鳥の声がしだした。視線をあげ驚いた。様々な種類の小鳥達が、庭中を歩きまわっていた。
 ガラス越しに二メートルのところを、黒いしなやかな姿の野鳥が器用に落葉をひっくりかえしつつ、ぴょんと跳んでは何かをついばんでいる。手前にはスズメほどの大きさの小鳥がやってきて、無心に地面をつつきはじめた。柔らかそうな白い胸のにこ毛と灰色の羽根が、はっきりと見分けられる近さだ。
 こんなにたくさんの野鳥を一度に見たのは、生れてはじめてかも知れない。異なる音程の鳴き声がひっきりなしに、庭のあちらこちらから聞こえる。
 白樺の木立が風にざわめいた。しなやかな白い幹が優しく揺れ動いている。雲の隙間からのぞいた夕日に照らされて、金色のこまかい葉がふるえている。幾枚かの葉がゆるやかならせんを描いて落ちた。金の粒を庭にふりまいているように見えた。
 私はじっとそれを見つめていた。探し求めていた答えを、確かに見つけたような気がしていた。

「失踪」 鬼藤千春

 失踪  鬼藤千春

 西の空が茜色に染まっている。晩秋の落日である。紘一は民商の商工新聞を、班長の家に数部ずつおろして回っていた。車に乗り込もうとした時、携帯が鳴った。
「三沢君、大変じゃ。梅村さんが――。まあいい、話はあとじゃ。すぐ帰ってくれんか」
 事務局長が、早口で喋った。
「あ、あの、事務局長。梅村さんに何かあったんですか」
 おうむ返しに、紘一は訊いた。
「電話では、話せん。とにかく帰ってくれ」
 事務局長は一方的に電話を切った。
 紘一は渋滞した道を、苛々しながら走った。
「おう、三沢君。待ってたんじゃ。梅村さんの行方が分からん。支部長が知らせにきてくれたんじゃ」
 紘一が事務所に着くなり、事務局長は慌てたようすで言った。
「三沢君、これから支部長と一緒に、梅村さんの家に行ってくれんか」
 事務局長は、振り向いて支部長を見た。
 支部長はソファに座って、神妙な顔つきをしていた。彼は電器店を営みながら、支部長を引き受けていた。紘一は支部長を乗せて、慌しく事務所を出た。
 梅村さんは、一カ月ほど前に税務調査を受けた。任意調査であるにもかかわらず、家の事務室に上がりこんで、帳簿類を持ち帰ったのだ。その時、梅村さんはいなくて奥さんだけだった。気が動転した奥さんは、なすすべもなく、立ち竦んでいたという。翌日、梅村さんは支部の仲間と一緒に、税務署へ抗議に行ったが、面会は叶わなかった。
「奥さんの話では、おとといの晩から家に帰っていないそうじゃ。捜索願いは、わしが午後に行って、それからじゃ」
 支部長は助手席で腕を組んで、おもむろに言った。
 梅村さんには、その後過大な追徴税額が提示されたが、それを納める金がなかった。何回か督促状がきたが、電話で何回も待ってくれるように頼んだ。しかし、税務署は容赦しなかった。ついに、売掛金を差し押さえてしまったのだ。
「支部長、売掛金を押さえるというのは、無茶じゃ。従業員の給料や外注費が払えんじゃろう」
 助手席をちらっと一瞥して、紘一は言った。
「そうじゃ。本人も従業員も取引先も、お手上げじゃ」
 支部長は紅く染まった空を、睨みつけていた。
 梅村さんの家に着くと、奥さんが座卓の前に座り、青ざめていた。
「奥さん、何か手がかりになるようなものはありませんか。親戚や友人には連絡を取られましたか」
 紘一は座卓に近づいて言った。
 奥さんは、魂が抜けたように、ぼんやりしていた。虚ろな眼を宙に泳がせている。
「いろんなところに電話をかけてみたんですが、消息は分かりません。主人は今どこで何をしているんでしょうか。心配で眠れません」
 紘一の方に視線を投げて、奥さんは言った。
「そうそう、三沢さん。主人の机の上に書き置きがあるんですよ」
 奥さんは、立ち上がって事務室の方に行った。
 ――許してくれ。売掛金を差し押さえられたんじゃ、どうにもならん。心配せんでもいい。わしはちょっと出かけてくる。
 紘一は、走り書きされた便箋を、食い入るように見つめていた。サインペンで書かれたその字は乱れている。梅村さんの心の有りようが、はっきり示されていた。
「まず、梅村さんを捜し出すことが先決です。それには、奥さんが気をしっかり持つことが必要です。私たちも協力します」
 奥さんを覗き込んで、紘一は言った。
「主人は帰ってくるでしょうか。それが心配でなりません。いくらか金は持って出たようですが、着の身着のままです」
 奥さんは、目頭をハンカチで押さえていた。
「奥さん、近いうちに、売掛金の差し押さえ解除の交渉を、税務署とやりましょう。中央支部としても、全力で取り組みます」
 紘一は膝を前に進めて、声をかけた。
「みなさんにはご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い致します」
 奥さんは、気を取り直したように、声を挙げた。
「奥さん、心配するこたあねえ。わしらがついとるんじゃから、ご主人がおらん間は、奥さんががんばらにゃ」
 支部長が、包み込むように励ました。
 陽がすっかり落ちて、街は闇に溶け込んでいた。紘一は、きっ、とフロントガラス前面の光景を睨んで、心がたぎってくるのを感じていた。

「アンジェ――Angers―― 」  石崎明子

アンジェ――Angers――   石崎明子

土曜日はいつも雨
アンジェの雨は音もなくふる
きこえるのは ただ 木の葉のざわめきだけ
こまかな雨が 立ち並ぶ家々を
石畳の路地を 木々を
しっとりとしめらせていく
ぬくもったへやの中で
横文字の小説にかじりついている私
ときおり外を眺めては
あした天気になあれとためいきをつく
おりしもへやを満たすはショパン
雨のプレリュード
そうだな でも雨はきらいじゃない
こころが静かになるから

日曜日はいつも晴れ
ひだまりに誘われとびだした
フォッシュ通りを右に折れ
公園のベンチでうとうとおしゃべり
安息日の中心街はひとけもなく
お店はみんな閉まっている
平日にまたいらっしゃいね と
飾り窓の小熊がウインクした
知らない道を探検しようと
迷い込んだはジャンヌダルク通り
背の高い楓の並木道に
遅い午後の光が斜めに射し込む
道ゆく人はみな
黄色い落ち葉に埋もれて歩く
うん 私 お日様がすきだな
世界を
より美しく見せてくれるから

天使――Ange(アンジュ)と響きが似る街の
ある週末のお話



 無事にAngers(アンジェ)に着きました。
 寮には、カトリックのシスターが2人います。Angersはきれいで古風なところです。むらさきいろに紅葉している木があちらこちらにあります。冬は零下になるらしいのですが、今のところは暖かい日やら寒い日やらが交互に来ている感じです。
 そして、Angersの土曜日は必ず雨で、日曜日は必ず晴れです。今年はじめからAngersにいる人も「だいたいそう」と、言ってました。土曜日はあちらこちらで市が立つし、お店も開いているし、次の日も休みだし、遊びに行きたいのに、雨が降って寒々しくなって、仕方ないから宿題をして、日曜日はいー天気でお散歩に行くんだけど、カフェ以外は閉まっています。
 ――Angersはそういう街みたいです。

「石」 石崎徹

石   石崎 徹

「じゃ、来月は石だからね」里見が涼しい顔で言った。
 里見というのは三年生で、女で、部長で、まあ、美人のうちかな。だからひっかかったんだ。おれは小説クラブなんか入るつもりはなかった。でも小説は嫌いじゃないから、ま、いいかな、と思っていたら、小説を読むところじゃなくて、書くところだったんだ。
 題を与えるから2000字で書いて来いという。それもアイウエオ順にやるというんだから、めちゃだ。入学早々、「雨」をひとつ書かされた。まだ梅雨も来てないというのに連休つぶして書いてきたら、今度は「石」だってよ。冗談じゃねえや。
 夏休みには30枚書かせて、秋にそれを集めて雑誌を出すのだという。毎年新入生は作文しか書かないから、今年はそれまでに特訓するんだそうだ。三年生といや、受験だろ? いいのかよ、そんなことやってて。秋には交代するらしいけど。最後なのでやけに張り切っている。
 本当はコンピューター関係のクラブに入るつもりだったんだ。ところが初日にもう廊下に呼び出された。
「西尾君ね」
 ちょっと大人っぽい女でどぎまぎした。
「中学校の作文読んだよ。うまいじゃない。うちへ来てよ。小説好きなんでしょ?」
 どう言って断ったらいいのかなと迷っていると、里見がにこっと笑った。その笑顔がめっちゃかわいかったんだ。おれはくらくらっときてしまった。それが運のつきだった。
 クラブは女ばっかりだった。いやなんだよ、こういうの。でもまあ、かわいい子もいるから我慢している。肝心の里見は入部届を書かせてしまうと手の平かえして、つんつんして先輩風を吹かす。「雨」はくそみそにやられた。
 でも「雨」ならね、なんか思いつくじゃん。「石」なんて取り付く島もないよ。何を書けっての。
 おれは帰宅すると親父のパソコンを開いた。スマホなんて持ってないよ。ケイタイだって中学入った時以来の時代モンだ。夏休みにバイトして買うんだ。
 家は一応自宅だ。兄貴と別々に個室を持ってる。ローンはまだ残ってるらしいけど、「地方だからこんな家でも買えたんだ。都会じゃずっと借家暮らしだ」と親父が言うから、どんな会社か全然知らないけど、きっと給料安いんだ。おふくろだってスーパーでレジ打ってるもんね。
 でも、それはいいけど、今年地元の私立大入った兄貴は家から出ていきそうにないし、そしたらいずれおれはホームレスじゃん。
「家買ったから、都会の学校やる金なんてないぞ。おまけに国立行く頭は二人ともないときてる」
 そうなんだよね。地方は家が安く手に入る代わりに、進学先は限られるんだ。
 おっと、もう四枚目だよ。あとがないよ。
「石」諸鉱物の混合物。岩と砂の中間。砂利より大きい。小さい石は小石。
 直径何センチ以上が岩で、何センチ以下は砂利だなんて決まりはないんだな。言葉なんていい加減なもんだ。おれたちの人生なんて案外そんないい加減な言葉の上に乗っかっているんかもしれないな。
「石」堅いもの、永久不滅なものとして、しばしば神としてあがめられる。名前の定義がいい加減なのに堅いもないもんだ。
 待てよ、ウラン鉱石も石だぞ。
 おれはパソコンを閉じて二階の自室に入った。春休みに読んだ本。常石敬一の「原発とプルトニウム」36ページ。マリー・キュリーは8トンの残滓鉱石を運び込んで、四年間かかってあらゆる処理をほどこし、0,1グラムのラジウムを得ることに成功した。その仕事はまさに土方仕事であった。8トンてキロの千倍? つまり8千万分の1ということ? そりゃ土方仕事だよ。放射線による骨髄変質が原因で死亡、66才。
 すべては彼女から始まった。でもそれはひとりの物理学者としての、純粋に知的な好奇心、物質の仕組みを知りたいという情熱以外のものではなかったはずだ。
 原子番号92番のウランが94番のプルトニウムに変わる。中世の錬金術師たちが一度は断念したひとつの原子が他の原子に変わるというマジックに人類は成功し、ものがなぜここにあるか、人間がなぜ存在するかという仕組みの解明に大きく近付いた瞬間だ。
 だが彼女の後継者たちはどこで間違えてあんな魔物を作ってしまったんだろう。E=mc² エネルギーは質量×光速の二乗。一円玉六枚をすべてエネルギーに変換できれば、東京ドーム満杯の水が一瞬で蒸発する。(佐藤勝彦「相対性理論の世界へようこそ」)
 石はほんとうに堅いのか?
 このくらいで勘弁してよ、里見さん。

「桜」 鬼藤千春

 桜   鬼藤千春

 朝礼を終え、祥三は墓石のパンフやチラシを揃えて、営業に出る準備をしているところだった。まだ頭に靄がかかっているようで、身体も倦怠感に包まれていた。そこへ室の空気を震わすような、音質の高い電話のベルが鳴った。
「有り難うございます。姫井石材でございます」
 祥三は受話器をさっと持ち上げて、爽やかな声で答えた。
「あのう、ちょっと相談があるんですが。四十九日までに、お墓はできるでしょうか」
 低く、くぐもった女の人の声だった。
「ええ、石種とかデザインとかによって違うんですが、たいていは間に合わすことができますよ」
 祥三は不謹慎にも、声が弾んでいた。
「それじゃ、ご無理を言いますが、お墓の資料を持ってきていただけますか」
 いくらか明るい声だった。
「はい、承知しました。何時ごろ伺ったらいいでしょうか。あ、そうですか。十時頃ですね。それではこれから出かけます」
 祥三は受話器を置くと、自然に顔がほころんだ。
 こういう話は滅多にないのだ。祥三は、しめた、と思った。
「どうぞ、お上がり下さい」
 五十代だろうか、女の人が祭壇のある部屋へ案内してくれた。
 祥三は祭壇の前に座って、まずローソクに火をつけた。ぼうっとオレンジ色の炎が上がった。ローソクから線香に火を移して、香炉に二本挿した。線香から白い煙が湧き出すように、立ち昇っている。リンをふたつ打ち、合掌をして深く頭を下げた。
「このたびは大変でございました。お悔やみ申しあげます。失礼ですが、ご主人様ですか」
 祭壇から座卓の方に席を移して、祥三は言った。
「ええ、私の連れ合いです。まもなく定年という時に、残念です。でも、これも仕方ありません。この人の寿命だったのでしょう。それで、四十九日までにできますか」
 奥さんは、白いハンカチを右手に持っていた。
 祥三はパンフを出して、座卓の上に広げた。「墓石選びは、まず大きさ、デザイン、石種によって、決めていただくことになります」
 祥三はパンフを指差しながら、丁寧に説明していった。
「あ、そうですか。九寸角の先祖墓ですね。こ、このデザインでよろしいですか。石種はこだわらないんですね。でしたら、中国の黒龍江省で採掘される石をお奨めしますよ。この石は、硬い、吸水性が低い、変質しにくいという、三拍子揃った石ですからね」
 祥三は石見本を出して説明した。
「それでは、これでお願いします。主人を仮埋葬で、土の中に眠らせるわけにはいきません」
 奥さんは、ハンカチで口を押さえた。
 祥三は契約書を書いて、捺印して貰い奥さんの家を後にした。車を道の路肩に停め、祥三は煙草に火をつけて、大きく吸い込んだ。旨かった。契約した後、喫む煙草は格別なのだ。
 祥三は昼食をコンビニで摂って、事務所に帰った。彼はⅤサインをして見せた。自分でも、顔つきがやわらいでいるのが判る。凱旋である。
「星川さん、大変よ。さっき鈴木さんの奥さんから電話があって、キャンセルさせてくれと言ってきたのよ」
 女の事務員が、慌てて言った。
「なに、キャンセル?」
 祥三はあっけにとられて、言葉も出なかった。
「うるう年だから、建ててはいけんいうて、親戚のものが言うそうよ」
「うるう年?」
 来るものがきた、と祥三は思った。
 祥三は折り返し鈴木さんの家に向かった。彼は、うるう年と建墓についての説明を反芻していた。
 江戸時代のことである。もうかれこれ二、三百年も前のことだ。陰暦の時代、うるう年は一年十三カ月だった。だから、同じ年額給金で十三カ月暮らさなければならないので、ときの大名が布令を出し、仏壇や墓石の購入をやめさせたのだ。
 それが迷信となって、今も生きているのだ。祥三はどう説明したところで、どうせ駄目なことは判っていた。
「親戚の反対を押し切って、もし何か不吉なことが起こったら困るので、このたびはやめときます」
 ほとんど、こういう返事が返ってくるのだ。
 祥三は、思わず溜め息をついた。人間の心というものは厄介なものだな、と思った。
 祥三は車のスピードを上げながら、戦前の非合法政党のことが不意に頭をよぎった。まもなく百年が経とうとしている。が、いまも怖いという迷信がつきまとっているのだ。それを払拭するためには、どうしたらいいのだろうか。
 祥三は墓石の契約よりも、自分も所属するその政党のことが、頭から離れなかった。一陣の風が吹いた。木々の枝が揺れている。桜の花びらがひらひらと舞い降りていた。

「宝くじ」 鬼藤千春

 宝くじ   鬼藤千春

 いつもの街がどことなく浮き足立っている。人々は首に巻いたマフラーをなびかして、せかせかと歩いていた。車もやけにクラクションを鳴らして、過ぎ去ってゆく。
 やはり、師走だな、と雄介は思った。なんとなくせわしく、怖いという感じがぬぐえなかった。が、雄介は一人悠然と構えているかというと、決してそうではなかった。彼もまた、師走の空気の中に溶け込んでいたし、自らその空気をつくっている一人でもあった。
「年末ジャンボ一等、四億円。前後賞、一億円」そんな看板が立っていた。雄介はそれを一瞥して車で走り去ったが、まもなくユーターンして戻った。彼は吸い寄せられるように、宝くじ売り場の前に立っていた。
 数人のおじさん、おばさんが並んでいた。どことなく強欲で、厭わしく思われてならなかった。その中に並ぶ自分に雄介は嫌悪した。が、その列から離れようとは思わなかった。
 当たらないことは重々承知の上だ。だってそうだろう。二分の一の確率でも、当たらないことはよくあることだ。ジャンケンがそうだ。雄介はジャンケンによく負けた。忘年会でジャンケンに勝った方が、自転車を貰えるという時も負けた。営業の仕事でテリトリーを選ぶのに、勝った方に優先権が与えられるという時も、負けたのだ。
 それが、宝くじの一等、あるいは前後賞になると途方もないことだ。ドラム缶に米粒をいっぱい詰め込んで、その中から赤く着色されたひと粒を、眼を瞑って掴み出すようなものだ。雄介はそんなことはよく判っているのだ。が、雄介は浅ましい列に並んでいた。自身もその浅ましい人間の一人だった。
 雄介は連番でなくバラ買いで、三十枚求めた。彼は家に帰って、その宝くじのチケットを神棚に祭り、二回柏手を打って頭を下げた。

 彼は当選したときの夢を描くようになった。一等はよしとして、前後賞の一億円の遣い道を考えた。子どもが四人いたから、まず彼らを家に招くのだ。息子が二人、娘が二人いて、それぞれ所帯をもち、四人とも家を出ている。家には雄介と女房の二人だけだ。そして、彼らをリビングの、テーブルの前に座らせるのだ。
「おじいさん、どうしたん。何かあったんか」
 長男の大輔が怪訝そうに訊いた。
 おじいさん? おじいさんとは、どういうことじゃ。雄介の頬の皮膚がピクピクと痙攣を起こした。娘二人はおじいさんと呼ぶことはなかったが、息子二人は恥知らずにもそう呼ぶのだ。孫の視点なのだ。雄介の心は穏やかではない。
「そう慌てるな。そのうち話すのでちょっと待て。せいては事をしそんずる」
 雄介は彼らを見回し、右手を突き出して制した。
「大輔、シャープは不景気で人員削減が烈しいが、下請けの君の会社はどうなんじゃ」
 雄介は顔を覗きこんで言った。
「いま、うちの会社は大変じゃ。リストラの嵐じゃ。五十歳以上がターゲットになっている。退職勧奨が烈しく行なわれてるんじゃ」
 大輔はそう言って、顔を曇らせた。
「シャープは、一兆円以上の内部留保をため込んでいるぞ」
 語気を強めて、雄介は言った。
「おじいさん、うちの会社にはリストラ部屋と呼ばれている室があるんじゃ。勧奨を断ると、君のする仕事はもうない、と言って、その部屋へ送られるんじゃ」
 大輔は身体を乗り出して言った。
「そうか、大変じゃなあ。大輔、他人事じゃねえぞ。そんな気配があったら、わしに相談せえ」
 うーむ、と唸って、雄介は腕を組んだ。
 雄介は、それからおもむろに、宝くじが一億円当たったこと、子ども一人について、一千万円ずつ遣るという話をした。残りは夫婦二人が持ち、旅行三昧をして、自由気ままに暮らすことを語った。

 雄介の今の生活は、年金暮らしで可処分所得が月二十万であった。まさに薄氷を踏む思いで日々を送っている。これで健康を損なったり、不意の出費があったりしたら、たちまち生活はたちゆかなくなるのだ。
 一億円当たったら、雄介は悠々自適の暮らしをするつもりでいる。小説を書く辛さ、苦しさから、もう開放されるぞ、と思っていた。
 雄介は、元旦の新聞が届くのを今かいまか、という思いで待っていた。新聞受けがコトリと鳴ると、彼は足早に駆け出して行った。神棚で手をぽんぽんと打って、チケットを降ろした。
 雄介は、ルーペで新聞を覗き込みながら、一枚一枚丹念に照合していった。三十枚のうち二十枚ははずれであった。雄介は嘆息を洩らした。あと十枚、彼は眼を凝らして、ルーペを覗いた。駄目だった。下一桁が三枚当たっているだけだった。彼は冷めたコーヒーを飲みながら、大きな溜め息をついた。彼は遠くを見るような眼をして、壁に掛かった静物画をぼんやりと見ていた。
「やっぱり、小説を書く暮らしから、抜けられないな、――」
 ふうっと息を吐いて、雄介は呟いた。