筒井康隆「聖痕」  石崎徹

  筒井康隆「聖痕」  石崎徹

 朝日新聞に連載されたこの小説はほぼ毎日読んできた。作者も認めるとおり、さまざまに実験的な作品である。
 会話にカギ括弧もなければ行替えもしない。三人称の地の文に「某が言った」もなく、いきなり「僕は」と書き込まれる。小学校の作文ならまずペケである。それでいて違和感がない。
 作者によれば苦肉の策であったようだ。新聞の活字が大きくなったせいで、以前一日当たり400字詰め三枚であったのが二枚になってしまった。二枚でいかに一日分としての内容を持たせるかということで採用したということである。
 だがその制約が逆に面白い効果をあげていると言ってよい。芸術とはそんなものだろう。およそ制約のない芸術はないわけだから、制約が効果を生みだすということはありうるわけだ。
 見たこともない漢字表現の多用。誰も意味が分からないので、毎日末尾に注がつく。多い日には三分の一くらいが注である。
 加えて枕詞の多用。和歌以外にも枕言葉を使えるのだと初めて知った。これも注で解説する。
 こういうことが可能だったのは新聞小説だからであろう。毎日読む分はわずかだし、すぐ横に注があるから参照しながら読める。単行本にするときにはどうするのだろう。膨大な注が煩わしくて読むに堪えないかもしれない。
 技巧的な実験はそのくらいとして、内容がこれまた実験である。類稀な美貌に生まれた貴夫は、その美しさのゆえに変質者の狙うところとなり、性器を睾丸ごと切り取られてしまう。作品の語るところによると、男の性欲というのは睾丸に由来するのだそうで、男根を失っても睾丸が残っていれば性欲も残り、しかも目的を達する手段がないから、その苦悩は激しいそうである。
 だが、睾丸を失った貴夫には性欲がない。性欲のない人間にどういう生き方が可能か。逆に言えば、男にとって性欲とは何かを、実験的に検証しようとした内容である。
 金持ちの息子だから事件は徹底的に隠蔽される。放尿や入浴を人に見せられないので、あらゆる特別な計らいをする。何も聞かされておらず、また幼くて理解もできない弟、登希夫はこの差別待遇に頭にきて、ひねくれ者の乱暴者になってしまう。ついには祖父を階段から突き落として殺す。
 だが金持ち一家であるからこれも隠蔽する。この弟が大人しくなったり、また本性を現したりとしながら続いていくので、いつ爆発するかという期待感も読ませる要素であるが、ずいぶん大人しくなってきて面白くなくなったなと思ってきたら、最後は一種贖罪的行為で幕を閉じる。罪と罰について考えさせる一件で、同じテーマが最後にもうひとつある。
 貴夫が事故にあったのは幼少時だが、犯人の顔を忘れないようにと、何度も似顔絵を描いて記憶を保ってきたので、最後に犯人と遭遇する。犯人は「ずっと罪の意識に苦しんできました」と言って平身低頭する。ここにも罪と罰のテーマがある。
 いま被害感情に肩入れするあまり、処罰要求の強くなっている世論に対して一石を投じているといえよう。
 性器を失ったことが露見しないよう身を守るために、貴夫は器械体操で体を鍛える。だが怪我をしては逆に露見する恐れがあるので、それもほどほどでやめる。性欲を失った貴夫にはあらゆる負の感情がない。攻撃性もなければ、妬みもない。彼がこだわるのは唯一味覚である。金持ちであるから世界中まわって料理を堪能する。料理本の研究に打ち込む。その料理本がまた半端じゃない。内外の古典的料理本の話が延々と出てくる。この辺は薀蓄話と言うべきだろう。庭を掘り返して野菜畑に変え、材料にこだわり、自分で料理する。進学先は東大農学部食品化学科である。最後には自分でレストランまで作ってしまう。
 その間に日本経済がバブルを迎えまた崩壊していく過程が語られていく。父親の会社も倒産するが、貴夫の先見の明によって、所有株式を売り払っていたので、金は残った。これはつまり金銭欲に狂わず冷静に経済の先行きを読めた効果として扱われている。
 何ごとにも常に冷静沈着で冷めているのだ。
 一方その美貌に変わりはなく、選り取り見取りの美女たちがバラエティに富んで登場してきては貴夫に言い寄ってくる。誰にも靡かない貴夫はホモの噂が立ち、今度は男どもが言いよる。なかに執念深いのがいて秘密が露見しそうになる。この悪役の登場もひとつの読ませどころである。登希夫は兄の身代わりとして、この男の暴力に無抵抗で身をさらすことによって、贖罪するのだが。
 運よく、美貌でありながらセックスを受け付けない女性の登場によって、偽装結婚となり、さらに高齢の両親の生んだ妹を実子と偽ることで世間の目をごまかす。
 まあ、金持ちだから何でもできてしまうわけで、出てくる女性はみな美人だし、都合の良すぎる話ではある。
 この妹がまた美貌の上に高慢で男の子たちの上に君臨してしまうのだが、それもちょっとした挿話である。
 一方レストランには特別室があって、いわば高級娼婦のようないかがわしいことがそこで行われる。これは不能の貴夫に対するアンチテーゼであろう。欲望を理解できない貴夫は何でも許してしまい、反社会的と思われることまで呑み込んでしまうのである。
 最後は犯人との出会いである。これは3・11の被害現場に料理ボランティアとして行った先で起こる。話全体が日本現代史を追いつつ進められている。話を完全なファンタジーにしてしまわないための目配りと言えようか。
 許しを求める犯人に、貴夫は「自分はあなたを恨んではいない。むしろ欲望がないことでいい人生を送っているから感謝している」と述べる。
 さて実験の成果はどうであろう。さっきも書いたように金持ちのよく出来過ぎた話であることに限界を感じざるを得ないが、性欲のない人間という思いつきは、逆転の発想ではある。
 ローマ法王の選出をめぐって、世界中の少なからぬ神父たちが大勢の少年たちに永年加えてきた性的虐待が大問題となってきている。
 男という存在は決して小さくない部分を性欲に支配されて生きている。性欲は男の人生と切り離せない。これは文学の永遠のテーマであろう。
 それを逆転の方法で描いてみせることで、文学としてひとつの役割を果たしたと思うのだが、皆さんはどう読まれたであろうか。
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