書評 中元輝夫「海に墓標を」  鬼藤千春

書評 中元輝夫「海に墓標を」  鬼藤千春

 この本はノンフィクションで、著者が六十六年の歳月をかけて、父、猛の戦死した地(海)を捜し出し、そこを訪ねて慰霊するという物語である。
 父は一九四四年の春、陸軍に召集された。三十六歳の時だった。その年父は、親族の葬儀のために二度帰郷している。二度目の秋が最後の別れとなる。著者が七歳の時だった。
 戦争が終わって二週間あまりが過ぎた、八月三十一日。田んぼで草取りをしていた母のもとに伯母が駆けつけてきた。「猛さんが亡くなった」と告げた。
戦死公報には「比島方面ニテ戦闘ニ於イテ戦死ス」と記され、白木の箱には「炭と石ころ」が入っているだけで遺骨は還らなかった。
 その後、著者は「父はどこで戦い、どこで亡くなったのか。その疑問を解くための長い探索が始まった」のである。著者は郷里に帰って、元兵士を訪ねたら「猛さんはナ、宇品から南方に向けて出たんじゃ」と教えられた。船舶砲兵だったこともわかり、著者は広島市の比治山へ赴く。
「お父さんは船舶砲兵第二連隊に所属されていたらしい。記録によると昭和十九年十二月二十二日、仏印沖で戦死されているようだ」という手がかりを得る。仏印というのは、フランス領インドシナ。今のベトナムである。
 ついに著者は、戦死確認書を手にすることができた。それによると、ベトナム「バタンガン」岬南東八十キロにおいて戦死とある。商船、音羽山丸は、油槽船で航空用ガソリンを積んで、シンガポールを出港した。が、敵潜水艦の魚雷を受け、船体は猛火に包まれ、左舷に傾斜しつつ船尾から沈没した。犠牲となった乗員や兵士たちは、一一九名にのぼった。
 父の死地が判明した時、「行こう、ベトナムへ」と著者は強く心に誓ったのである。
 著者のベトナム慰霊の旅は二回に及ぶ。第一回目は二〇〇一年二月である。しかし、父が戦死した海上での慰霊はできなかった。ようやくの思いで、バタンガン岬近くまでたどり着いたが、船を出すには、海軍の許可が必要だというのである。やむなく浜辺でロウソクと線香に火をつけ、米を供え花束を手向けた。
 第二回目は、二〇一〇年二月である。この時は多くの人の援助を受け、海上での慰霊祭を執り行うことができた。
 やっと来たよ、お父さん。
「おとっつぁん」
 海の底に眠る父にとっての六十六年、父亡き後の戦後を生き続けてきた息子にとっての六十六年であった。「父の最期の地ベトナムへ」(副題)が、ようやく叶った瞬間だった。
 私はこの本を、胸を熱くしながら、目頭を潤ませながら読んだ。亡き父に寄せる著者の想いが、読むものの心を打たずにはおかない。この本の優れたところは、父の慰霊というごく個人的な行為に見えるのだが、しかしこの本の世界は広く深い普遍性を持っている。著者のものの見方が深遠で、未来にまでその眼差しが感じられるからである。視座が広く深いということだ。一人でも多くの方が、この本を手にとって読まれることを望まずにはいられない。
 なお、この本は、二〇一二年度の、自費出版コンクールの「個人誌」部門の最優秀賞に選ばれています。また著者は、まがね文学会の会員であり、日本民主主義文学会の会員でもあります。

 二〇一一年十二月二十二日初版発行 発行所 文芸社 東京都

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