椿山滋 「社会見学」   石崎徹

 椿山滋 「社会見学」    石崎徹

 読みやすい文章で面白く読んだ。すがすがしい作品でもある。ただ物足りなかった。どこに原因があるのか。
 冒頭でテーマと思わせた問題が、あっさり解決してしまうので肩すかしを食った感じがする。だがそれはもともとテーマではなく導入部だったのだ。大半の老人が騙されなかったのに、自分たちはころっと騙されてしまった、しかもどうしてよいか分からず苦悶する自分を前に、若い息子が迅速簡単に解決してしまった。自分の老いを強烈に意識させられ何とかしたいと行動に出る。ここに繋がってくるのだから、冒頭はそれでよかったのだと思う。息子の賢明さもすがすがしさの一要素である。
 話の構成自体はこれでよい。問題は描き方にあるのだ。二点指摘したい。
1、どんな集落か
 読者は人物たちの言動の背景となる場を頭に描きながら読む。ところがこの集落のイメージがわかない。70才を超えてなお苗字ではなく名で呼びあう幼馴染みが近辺に三人いる。集落という言い方から連想するのは農村地帯であるが、農村の住民はみな田畑を持っており、定年後は田畑を耕すことに生きがいを見出している。ここの人物たちはそうではない。ということは農村ではない。商店街でもない。みなサラリーマンの定年者であり、近辺に商店があるふうでもない。住宅地なのだ。それもおそらく親の代から居住者の移動がなかったような古い住宅地だ。いまの大半の日本人にはそのような住宅地というのは大変イメージしにくい。高度成長期を通じて大きな人口移動が起こったからである。かなり特殊な集落であり、であるからにはそれをイメージさせる仕掛けが欲しかった。
 もっともこの作品の良さはその軽さにあるのだから、しつこい描写は逆効果であろう。ちょっとした短い文章で集落のイメージが鮮明になるような何かを加えて欲しかった。それを背景に読めばぐっと臨場感が出てきたはずである。どんな場所で起こった出来事かがわからないので、作品世界がふくらまないのだ。(さらに言えば、そのような緊密な関係にある集落でなぜさくらの存在が可能であったのか、そこが作品中唯一違和感のあるところだ)。
 もし映画にするとすれば、監督は何よりもいちばんに(ロケするにせよセットを使うにせよ)どんな場所にするかということに頭を使うはずだ。小説はそれを文章でやらねばならない。
2、人物の描き分け
 特に目立った言動も葛藤もない場で、特に目立った個性もない人物を描くということは難しいものである。三人出てくるとその描き分けには苦労する。努力した跡は認められる。だが足らない。三人登場すればその三人をいかに描き分けるかに作品の成否がかかってくる。
 民主文学の作家は身近な人物を描くときにはわりとうまい。だがフィクションを創るととたんに紙切り細工の人形になってしまう。
 もともと軽いタッチであるところに良さのある作品なのだから、思い切って独特の個性を三人それぞれに与えるべきだろう。通俗化を恐れるべきではない。小説には通俗的要素もときに必要なのだ。
 フィクションを創るときこそモデルを使うべきだ。頭の中で創る人物像などたかが知れている。現実世界には面白い人物が大勢いる。それを借りてきて描けば生きた人物ができる。
 あえて二点指摘したが、でも全体的には違和感なく面白く読め、読後感もすがすがしかった。良い作品である。
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