仙洞田一彦 「砂の家」を読む   鬼藤千春

仙洞田一彦 「砂の家」を読む   鬼藤千春

 主人公の石水良夫は、定年退職してそろそろ八年になり、妻の和子も二年近く経つ。彼が高校を卒業して東京に出て来たのは、東京オリンピックの年だった。一九六四年である。二人は家を持つという夢をもって、一緒に働き続けて家を建てた。良夫は、家を手に入れたいまは、ささやかではあっても夢の実現者、人生の成功者だ、と思っている。
 良夫には、息子と娘の二人の子どもがいる。息子の満男はもうすぐ四十になるが結婚していない。IT関連の会社に勤めており良夫夫婦と同居している。娘の美和は七年前に結婚して家を出ており、しずくという子どもがいる。
 家族三人の夕食が終わってしばらくして、満男は「俺、会社辞める」と言った。満男の会社では、三十五歳を過ぎたら、管理職でない者はいらないという。会社に出勤したら、「石水君、何か忘れ物か」とか「まだ用事があるのか」と部長が、嫌がらせを言うのだった。また、トイレに立とうとすると、「まとめた私物を持たなくていいのかとか、命じてもいないのに出張ですか」と訊いてくるのだ。「俺には居場所がないんだ」と満男は言う。
 が、良夫は「会社を辞める」というのを聞いて狼狽する。「負けるな。いや、ちょっと待て、初めて聞いたので混乱しているんだ」さらに「働かなくたっていい、会社に居続けてくれ。それがお前のためにもなるんだ」と、惨めな思いで説得しようとする。
 それは、良夫にとっては「この土地、家を孫やその先まで継いでいくんだ」という思いがある。また、美和の夫の信雄もまた、二、三年前に、仕事が合わないと言って、会社を辞めてアルバイト暮らしをしている。そして美和一家が、良夫の夢の象徴ともいうべき家に越してくるというのだった。
 「みんな勝手なことばかり言いやがって。みんな出て行け。ここは俺の家だ」良夫は叫ぶように言った。
 私はこの作品を興味深く読んだ。文学的というか、社会と人間を巧みに掬い取った作品であるという印象をもった。松本清張に「砂の器」という優れた作品があるが、それは「砂の器」がもろく崩れてゆくことを象徴的に表した題名である。
「砂の家」はそれを意識したのかどうか、いずれにしても「夢だった自分の家」が、危うくなっていることを、この作品は描いている。だが、「建築物の家」というよりも、いままで築いてきた主人公の家庭、家族の問題の方がより大きいテーマのように思える。
「家を持つ」というのは、「夢の実現者、人生の成功者」というより、ごく普通の幸せを手に入れた、といった方があたっているように思う。そのごく普通の幸せの家庭、家族が、息子のリストラや娘婿のアルバイト暮らしによって、もろくも崩れようとしていることを描いていると思う。
「砂の家」というより、「砂の家族」という方が的を射ていると思った。
作者は「建築物の家」にこだわりすぎているように思う。そこに違和感を持たざるを得なかった。しかし、救いようのない小説世界だが、今日の社会と人間を反映した、印象深い作品である。
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