「駅」 石崎徹

駅      石崎 徹

 時間がない。あの銀行の角をまがって階段を下りれば、郊外私鉄の地下駅だ。そこから二人は反対方向の電車に乗る。真美は自宅に、岳史は下宿先のアパートに。そして一週間後に卒業式を終えると、岳史は就職先に旅立つ。それまでに会う時間をとれるかどうかわからない。時間がないのだ。岳史は言い出すきっかけを焦っていた。なのに、真美は自分の話題に執着し続ける。
「カコが言ってるのは、最後に一度二人で会いたい、それだけのことなのよ」
 三月の夜風はまだ冷たい。終電に近く、歩道の往来はめっきり減った。商店もあらかた灯りを落としている。さほど広くはない車道を車がスピードを上げてすりぬけていく。疾走する欲望、そんなフレーズが脈絡もなく岳史の脳裏をかすめる。これは詩に使えるかもしれない。疾走する欲望、欲望が疾走する、車は欲望のように疾走する……
 いや、それどころじゃない、時間がないのだ。岳史は歩きながら真美を見る。ときを稼ぐために歩調を落とそうとするのだが、真美はさっさと歩き続ける。コートにマフラー、手袋をしているが、真美はまるで寒さを感じていないような活きいきとした表情で、速足で歩きながら、すばやく唇を動かしていた。
「聞いてるの!」
 真美が岳史をにらんだ。岳史は苦笑いを返す。
「なんで、そんなにわかんないの。少しくらい時間とれるでしょう?」
 サラリーマン風の男が真美を見つめたまま、すれ違っていった。
「興味がないんだ。君こそなんでそんなに熱心なんだ」
「頼まれたからよ。カコは大切な友達だし……」
「どうして君に頼むんだ。今日だって会ったじゃないか。自分で言えばいい」
「だから久保君には何にもわかっていないのよ。いじらしいと思わないの?」
 銀行の角をまがった。いよいよ階段だ。地下駅に続く階段。これを下りてしまえばおしまいだ。真美はしゃべりながら階段を駆け下りる。岳史も追いかけた。
 そのときデジャヴュのように、ある情景が浮かび上がる。あれはいつのことだったろう――駅って、人生みたいだと思わない? 見知らぬどうしがふと出会い、そしてわかりあうまもないうちに、離れ離れになってしまうのよ――あれを言ったのは真美だ。あのとき気にも留めなかった言葉が、なぜ急に切実に思い出されるのか。――
「ぼくは今日、君からそんな話を聞きたくなかったんだよ」
「人の心のわからない人ねえ」
 地下駅にはまだかなりの人がいた。二人は定期を使って改札を抜けた。四年間使ったこの定期とも、もうじきさよならだ。岳史は真美の方角の電光掲示を見る。まだ十二、三分ある。別々のホームへの階段の上で、やっと真美は立ちどまった。
「カコはずっと久保君のこと好きだったのよ。なのにあなたは少しも気づかない。なんでそんなに鈍感なの」
 いきなり岳史は我知らず口走っていた。
「じゃ、君はどうなんだ。君には人の心がわかるのか。ぼくの心がわかるのか。ぼくは今日、君の口からこんな話は聞きたくなかったんだ。ちくしょう、よりによって、こんな……」
 最後の言葉は呑み込んだ。
 沈黙。真美が眼を見開いて岳史を見つめる。深い眼だ。岳史はその眼を見つめ返した。眼がゆらぎ、真美がゆっくりと口を開いた。
「なんの……話をしてるの……」
 二人の脇をすり抜けて人々が駈け下りていく。一人の肩が真美に触れ、真美はよろめいて岳史の腕にすがった。強い力で握ってくる。そのまま、まぢかで岳史を見上げた。言うべきことがあるとすれば、いまだ。だが岳史の口からは無意味な言葉が出る。
「電車が来るよ。ホームまで行こう」
 真美はゆるやかな歩調で階段を下りた。下りながら切れぎれにつぶやく声が岳史の心に沁みこんでくる――でも、こんなことって……だって、わたし……
 人々の列から離れた場所で、真美は押し黙って、かたくなにも見える眼で前方を見つめている。岳史は横目でうかがいながら、その表情を記憶の底にたたみこむ。
 二本のレールが交わることなく闇に吸い込まれ、冷んやりした風が、殺風景なホームを吹き抜ける。やがて電車が音を立ててすべりこみ、着実に停止した。
スポンサーサイト

コメント


管理者のみに表示

トラックバック