「まがね」54号   石崎徹

「まがね」54号   石崎徹

 笹本敦史「わだかまる」
 洗練された文章、筋の運びもうまい。登場人物も、(描写はわずかだが)なんとなく魅力的で、読ませる力のある小説である。楽しませてもらった。
 これだけでも短編のありかたとしては十分だと思うがあえて注文を付ける。
 読後が何となく物足りない。すごいことになりそうなところでぷっつり切られてしまったような。
 最後の2行は読者を混乱させる。これをヒントに解読しなさいと強制されるような趣きがある。だが、読者の読み方は往々にして作者の意図とは無関係である。ぼくはあえてこれを無視して読んだ。ゆえに作者の意図から離れるかもしれないのだが。
 盛り上がって終わってほしいところを、ずるずるとすべってしまったような印象がある。
「姉が殺したのかもしれない」という疑惑の生まれるところに第一の山がある。この疑惑を最大限まで盛り上げて終わる方法があっただろう。
 一例としては主人公と姉の眼がふと合い、そのとき主人公の眼の中に何ごとかを悟った姉が眼をそらした、というような、あるいはほかの何でもよいのだが、ここを山にしてぷっつり切る方法はありえただろう。
 だが、作者は続けて第二の山を設定する。
「知らないのは自分と妻だけで、親戚と町内とはみんな知っていて知らない顔をしている」のかもしれないという新たな疑惑の発生。
 これはこれで非常に恐ろしい情景になる。だがそれを表現するには枚数が少し足らなかった。姉を含めてひとつのたくらみに結託している集団のただなかに、妻と二人異邦人のように孤立しているという情景を描き出すには、かなりの伏線を必要としただろう。
 この第二の山は作者の「風に吹かれて」を連想させる。状況は違うが、情報の欠落というテーマへの作者のこだわりを感じる。自分は何を知っていて何を知らないのか、それさえ定かではないのではないかという問いかけを感じるのである。
 まあ、これを一例として読者にいろいろ考えさせるとすれば、ここで切った作者の意図は実現したということかもしれない。
 気になった点をひとつだけ。
 父親の造形である。「怒鳴り声に近所が迷惑している」「酒場の女への執着が世間に知れ渡っていて、出世を逃した」ような人物が「知性的な人格者としてふるまっていた」? もちろん本人はそのつもりでふるまっていても周囲は認めていなかったということなのだろうが、「知性的な人格者としてのふるまい」という表現はおのずから周囲からの評価を内包せざるを得ないような気がするのだが。特にそのあとの数行がそんな先入見を与えるので、続く段落に来て混乱してしまう。

  長瀬佳代子「沈丁花」
 いつもながら、よい雰囲気を醸しだす、洗練された落ち着いた文体。笹原という人物に興味をひかれたのだが、後半消えてしまって残念。「身辺整理」という言葉に、充分に生きてきた人の余裕が感じられて、うらやましい思いがする。いま気がせいて生きているぼくの身辺は、いよいよ乱れるばかり。でも長瀬さん、もう満足ですか。「谷間の小屋へ」(48号)や「待つ女」(52号)のようなショッキングな作品をまた書いてください。

  妹尾倫良「カワセミ」
 この作家としてはたぶん異色作。面白く読んだ。こんな才能もあったのかと再認識した。ただファンタジーを読むような感じで読んだ。 
 それでもいいと思うのだが、そういう読み方になったのは、作品の現在がいつなのか分からないからだ。征夫と勝香は遅くとも戦中の生まれ、35才のエリカよりはずっと年上だが、まだバリバリ働いていて、製紙工場に戻る話とか出てくるから、45から50才くらい? 
 1980年代後半の話だろうか(代行運転っていつ頃から始まったんだっけ?)。とするとエリカは50年代前半の生まれと考えればよいのか。それならブロンソンも分からないではない。5才年上の兄がいるのだから、エリカの親は20年代の生まれ? その世代の親ならわが子を男女で差別する親もいたのかもしれない。
 というふうに計算していけば、納得できないでもないのだが、やはり現在がいつなのか分かるような表現が欲しかった。
 エリカは少なくとも現代の35才には見えない。もっといっているか、昔の女という感じがする。
 そこでややこしいので、ファンタジーであるとして読めば、作品世界に入りこみやすいのである。そう、宮崎駿の作品を読むようなつもりで読めば、堪能できる。

  田中俊明「滅亡の序曲」
 いつのまにか文章も筋の運びも洗練されており、二年前とは別人のごとくである。日本史への広い知識に裏打ちされていて、違和感がない。
 もっともぼくは戦国時代に無知なので、その点については発言権がない。
 今回小説になっていると感じたのは、氏真兄妹を主役に配した構想の妙だ。氏真と言えば、ぼくが思い出すのは何十年も前大河ドラマで見た、眉を剃って丸い点をつけ、薄化粧に、狩衣烏帽子姿で蹴鞠に興じ、家康(当時元康)を嘲笑っている姿だけである。今回の小説はそのイメージを一変させてくれた。よいところに焦点を当てたと思う。兄妹の会話を通じて当時の政情、武田の内情を明らかにするとともに、兄妹それぞれの心の思い、生き方をも描き出している。その筆使いは見事である。
 作者の理念がよく表れていると思ったのは、30ページの終わりから、「意地を捨てて兵の命を救う」と氏真に言わせているところ。ほんとうにこの思念が天皇制軍隊にあれば、あれほどの犠牲を出さずに済んだのだ。
 わかりにくかったのは、32ページ終わりから、信虎の一件である。特に信虎の心理がわかりにくい。多少説明が欲しかった。
 あと、タイトルは作品のこの長さには大げさすぎる気がする。それと最初のところで、遅すぎた進軍自体を「滅亡の序曲」といったん言っておきながら、最後には勝頼への偏愛を「滅亡の序曲」と言いなおしている。もちろんどちらもそうなのだろうが、「滅亡の序曲」の意味する対象が短い作品中で変わってしまうのはまずいであろう。

  井上 淳「ある婚活の場景」
 短いがたいへん面白い。この人はやはり才能がある。書けない、書けないが口癖だが、書けるじゃないか。こういうものをどんどん書いていけば、いい作家になる。
 男と女のセリフの裏を想像して読んでいくと、なかなか含蓄がある。ユーモアもある。こういうものを目差してください。

  野中秋子「小説が出来ない」
 まだ「まがね」のブログには転載していない(※注)が、個人のブログで公開したぼくの「石」にそっくりの構造で、最後のセリフがそのままなので驚いた。早く公開しておいてよかった。これを読んだ後では公開できなかっただろう。書けない作家が無理に書くとこういう発想になるのかな。
 しかし、これは立派な小説である。まず題名が人を食っていてユーモラスである。随想の調子で始まるのだが、二十代後半にしか見えない五十才のサーファーの出現で俄然小説になる。前半でごちゃごちゃと愚痴っているだけに余計面白い。ヘビーな自分と照らし合わせて自由人が浮かびあがる。
 でもこの壮年サーファー、前向きな人だからたぶん大丈夫だろうけど、厳しい時代に入ってるよ、老後は大丈夫かい?

(※注)2月28日に転載しました。

  桜 高志「認知症の母」
 実際に本人の口から聞くととても面白い話なのに、どうしてこんな文章になってしまうんだろう。つまりは口達者な人は文章に向かず、文章の書ける人は喋れないということなのか。面白い(単に滑稽というだけじゃなく、人生の深みという意味でも面白い)題材なのである。
 これでは芝居とそのト書きである。芝居は人間が演じるからよい。小説には文章しかないのだから、その文章で情景を作りださねばならない。この長さならこれだけ何でもかんでも突っ込むのは無理である。この作者は自分の頭にあることをすべて喋ってしまわねば気が済まない。
 取り上げるのはひとつかふたつでいいのだ。ばあちゃんがそのセリフをしゃべっているときのその場の風景、ばあちゃんの表情、声の調子、身ぶり、手ぶり、芝居を見ている人が盲目の人に説明する気持ちになって、事細かに書いてほしい。そうでなければ読者にはなにも伝わらない。
「さらに信じられないことが」そんなセリフはいらない。信じるか信じないか決めるのは読者であって、作者ではないのだから、作者の判断を差しはさまないでほしい。作者はただ客観的に見たままを書けばよいのである。そのときどんなスタイルで書くか、何を書いて何を書かないかというところに作者の意図はおのずから現れる。
 面白い題材をいっぱい持っているのだから、頑張ってほしい。題材を持つということは書く人間の一番の強みです。

  鬼藤千春「掌編四題」
「駅」
 すでに合評で述べたので、かいつまんで書く。
1. 子供の書き方はとても良い。
2. 言葉の使い方、テニオハを含めて、もう少し丁寧に。
3. 冒頭の時間的位置がその描写に反映されていない。(耕一はこのとき子供への「殴りつけたい」ほどの怒りを「やっとの思いで」抑えているはず)
4. 若い方から首を切るという会社はないだろう。

「匂い」
 この作品は冒頭から非常に良い文章でひきこまれた。ところが後半、がらりと文章が変わってしまう。後半には何もない。前半の明王院の描写で全編貫いてほしかった。このくらい良い文章が書けるのだから、特に短い作品はやはり磨いてほしい。あらすじを発表しても意味ないと思うのだが。あらすじは生きている以上誰しも山のように持っている。それを文学化できるかどうかだと思うんだけど。

「捜し物」
 これはまさにあらすじだが、題材としては面白いものを多く含んでいる。
 この題材の作品化を望む。作者としてはおそらく最も困難な題材なのだろうが。個人的体験として書くのでなく、どう文学化するかという課題である。それはフィクションであるかないかということではなく、文学たり得ているかどうかということだと思う。

「供物」
 これについては言うべきことはない。

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