「黒い絵」  鬼藤千春

 黒い絵   鬼藤千春

 仮設住宅の周りの斜面の雪解けもすすんで、褐色の土が表われるようになった。ふきのとうが、雪を割って鋭い芽を伸ばしている。ようやく北国にも、春の兆しが感じられるようになった。あの日から二年経った。
 瑠美子は、手提げかばん作りの内職に余念がなかった。ポップスの楽曲を聴きながら、懸命に針の手を動かしていた。
「ただいま……」
 か細く弱々しい声を挙げて、麻里が玄関の戸を静かに開けた。
「おかえり。何よ、いつも元気がないわね。もうすぐ小学三年生になるのよ。もっと、ハキハキ言えないの。蚊の鳴くような声しか出せないなんて、しっかりしてよ」
 麻里は玄関に佇んでいた。
「マリッ。さあ、ぐずぐずしないで上がっておいで。おやつを出してあげからね」
 瑠美子は、台所へ立っていった。
 麻里はランドセルを投げ出して、コタツにもぐり込んだ。白熊の縫いぐるみを抱いて、頬を押し付けていた。彼女はいつもこの白熊と一緒だった。夜寝るときも、もちろん手放すことはなかった。
「ほら、マリッ。クッキーだよ。さあ、お上がり」
 麻里の身体を揺すりながら、瑠美子は言った。
「うーん、いまは欲しくない」
 麻里は疲れたようすで、起き上がろうとしなかった。
 ランドセルのほとりに、輪ゴムで留められた画用紙が一枚転んでいた。
「何よ、マリ。これは学校で描いたんだね。見てもいい?」
 丸められた画用紙を、瑠美子は取り上げた。
「いやッ、見ちゃいやッ。やめてよ!」
 麻里は身体を起こして、瑠美子を睨んだ。
「いいでしょ。母さんにみせてよ」
 瑠美子は輪ゴムをはずし、画用紙をコタツの上に広げた。
「もういやッ。母さんのバカ。よしてよ!」
 麻里はもう一度倒れ込むように、白熊の上に身体を投げ出した。彼女は頬を白熊にすり寄せて、嗚咽を洩らしていた。
 瑠美子は、その絵を観てびっくりした。小学二年生が描く絵だろうか。彼女はカンバス一面、真っ赤な画家の絵は観たことがあった。だが、麻里の絵は黒のクレヨンで、白い画用紙を塗り潰していた。
 麻里には二十四色のクレヨンセットを持たせている。赤、青、黄など多色のクレヨンがあるにもかかわらず、黒一色で画用紙は染められていた。瑠美子は狼狽の色を隠せなかった。あの日のことが甦ってきた。
 まず、地の底から、突き上げるような振動がやってきた。そして、しばらく家が揺れた。棚のものやテレビなどが落下して、部屋の中は足の踏み場もないほどに、いろんなものが散乱した。
 麻里は泣き喚いて、瑠美子にしがみついて離れなかった。彼女は麻里を抱き上げて、家の外へ飛び出していった。少しのあいだ二人は、広場にうずくまっていた。そして、瑠美子は放心状態で、しばし立ち尽くしていた。
 そのうち、消防車が高台へ避難するようにスピーカーで呼びかけた。周りの人たちは駆け足で、山の高台へと急いだ。瑠美子も麻里の手を引いて、高台へと向かった。一瞬、夫の英樹のことが頭を過ぎったが、一目散に高台を目指した。
 高台に登ってまもなくだった。海辺の潮が沖の方へずっと引いていった。その直後だった。白波を立てて、潮が盛り上がって押し寄せてきた。それはまるで龍の背中がうねっているようだった。
「たいへんだ。津波だ!」
 誰かが大きな声で叫んだ。
 津波は、船を突き上げ、家々を次から次に呑み込んでいった。瑠美子の家も一瞬にして呑まれていった。
「あッ、家、イエが――」
 瑠美子は叫んだが、声にはならなかった。
 麻里は瑠美子に抱かれて、じっと津波を睨んでいた。津波は海の色ではなかった。褐色を帯びた津波が荒れ狂っていた。高台にも蛇の舌のような波が打ち寄せてきた。麻里は瑠美子にしがみついて、震えていた。
 英樹は水産加工会社に勤めていたが、逃げ遅れて、津波に呑み込まれてしまった。瑠美子は、夫を喪い、家を呑まれて、ただ茫然とするばかりだった。
 瑠美子はコタツの上の絵を観ていたが、眼は涙で滲んで、ぼうっとかすんでいた。だが、黒一色に塗り潰した麻里の心は、はっきりと読みとることができた。
 黒一色に塗り潰された黒い絵は、コタツの上で何かを訴えていた。それは麻里の心の闇だった。
 瑠美子は思わず麻里を強く抱きしめていた。
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