スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

黒田夏子 「abさんご」  石崎徹

黒田夏子「abさんご」 石崎徹

 この作品を数秒ないし数分で放り投げた人も多いようだが、最後まで読んだ人も、そのかなりが、この作品についての語るべき言葉を探しあぐねたのではなかろうか。
 世評通り読みにくい作品である。だが読み終わると確かに何かが残る。簡単には忘れ去ってしまえない印象を心に残す。それは何なのだろうか。
 ぼくは普通感想を書き終わるまで人の批評は読まない。誰の影響も受けない自分自身の感想を書きたいからである。しかし今回は思いあまって選評をはじめ、「民主文学」4月号の岩渕剛による時評、およびインターネットで公開された「早稲田文学新人賞」の蓮実重彦の選評などを読んだ。(朝日新聞の時評はうっかり読み損ねて、ゴミに出してしまった)。
 その中からおぼろげに浮かんできたことがいくつかある。
 小川洋子は、「たとえ語られる意味は平凡でも、言葉の連なり方や音の響きだけで小説は成り立ってしまう」と述べている。そのとおりなのだ。語られているのは極めて平凡なことにすぎないのである。しかし平凡なことを語り口で読ませ強い印象を与える作家は珍しくないし、その人々が(それぞれ個性的ではあっても)ことさら特殊な語り方をしているわけでもないのである。黒田夏子が読者に嫌われると分かっていながら、あえて難解な書き方をしたのには、それなりの理由があるだろう。
 川上弘美は、「ここにある日本語はほんとうに美しいなあと、うっとりしたことでした」と書いたが、選者中ただ一人当作品を切って捨てた山田詠美は、文章についてではなく内容について、「漂うひとりうっとり感」と書いた。また宮本輝も、最終的には作者の才能を認めはしたが、「これでもかというほどの自己陶酔」と書く。
 それも当たっているのである。読者によってはこの「ひとりうっとり」の「自己陶酔」にうんざりする人がいても不思議ではない。ただぼくには、それも作者の計算のうちという気がした。
 奥泉光は、「黒田氏の工夫はただ一つ、小説を読者にゆっくりした速度で読ませることにある」と書いた。好意的な評者にほぼ共通した見解である。
 それが当たらないというのではないけれど、それは意図したことというよりも、結果としてそうなったということではないのか。
 さて何をとっかかりとして具体的に論じるか。「民主文学」の文芸時評で岩渕剛が蓮実重彦を批判したところから始めたい。「文学界」での作者と蓮実氏との対談内容を岩淵氏はとりあげる。
「ある生活のリズム、生活の気配、生活の匂いのようなもの、あるいは生活環境そのものが、戦後あれよあれよと貧しくなっていった。そのことがこの作品に書かれている」
 ぼくは「文学界」を読めていないので、発言の脈絡は分からない。岩渕氏はこれを批判し、「貧しくしたのは〈戦後〉ではなく、戦争に傾斜していった時代の帰結だろう」と書く。
 少しまわり道をするが、岩渕氏にとってこの作品は、「取っつきにくいという印象を与えているようだ。だが、そうした外見を取り払うと」、書かれているのは、「親子の情愛であり」、その「思い入れ」の「強さを感じることのできる作品である」、ということになる。つまり「外見」は取り払うことのできるものであり、内容には共感するということのようである。
 もちろんそういう読み方も可能である。そして内容に共感してもかまわない。だが、小川洋子を引用したときに言ったが、内容そのものは極めて平凡なことにすぎないのである。
 結婚後数年で妻を亡くしたすでに40代になる学者と、その齢の離れた娘がおり、蔵書を戦火から守るために、都会の広々とした家から田舎の小さな家に越してくる、使用人はいたが親子は睦まじく暮らしていた、ところが娘が15歳に達したとき、物事をわきまえない使用人の登場によって、親子関係がズタズタにされてしまう、その娘の心理を描いている。
 ただそれだけではなんていうことのない話である。しかし先に書いたように書き方によっては感動的になる。が、ただ感動させるためだけなら、これほど難解にせずとも可能であろう。したがってこの作品があえて選んだ外見を取り払ってしまっては、作品の意味は失われてしまわないか。
 まわり道をしたが、「文学界」の蓮実発言に戻る。確かに主人公親子の生活の貧困化ははじめ戦争によって訪れる。描かれたような中流家庭にとっては、それはより精神的な貧困化を感じさせるものではあったろう。つまりその意味では太宰治の「斜陽」の小型版ともいえる内容をもっており(山田詠美の「ひとりうっとり感」は落ちぶれていきながら過去に郷愁と愛着を捨てきれない少女の心理について言っている)、そこだけを見るならば、戦後で区切る蓮実発言はおかしい。しかし、この作品に関して、「生活のリズム、生活の気配、生活の匂い」はただそれだけを言っていない。むしろ、60年代以後の高度経済成長の中で失われていった生活様式への、60年以前に少年少女時代を過ごしたものが感じる全体的な喪失感のなかに、中流家庭が戦中、戦後を通じて失っていったものをも含めて言っているのだととれる。蓮実発言の〈戦後〉という区切り方はおおざっぱすぎて誤解を招くとしても、岩渕氏は作品の一番大事な部分を見逃しているようにも思える。
「斜陽」は戦後で終わったが、「abさんご」は現代まで続いているのである。
 この喪失感をどう評価するかということはまた別問題である。年寄りの郷愁にすぎないと言われてしまえばそれきりかもしれないが、それでもどの時代の年寄りもそれぞれ感じることになるだろう喪失感であるとするならば、そこには何らかの普遍性はある。
 ではその喪失感を描きたかったのか?
 そうではあるまい。この作品では内容はたいした意味を持ってはいないのである。このような形式を選んだということに作者の最も強いモチーフがある。
 それは言葉というものへの懐疑ではないのか。a=a、b=b、という、名付けることによって名付けられたものが限定されてしまうこと、そのことによって滑り落ちてしまう諸事情の実相を、名付けられない言葉によって救い出したいという欲望をこの作品に感じる。言葉によって表現され得ることがらなら、人は何も小説など書かなくてもよいのである。人は言葉では伝えきれないものを、物語によって伝えようとして小説を書く。だが、逆説的だが、「abさんご」の場合は、あえて物語によってではなく、「言葉」によってそれを表現してみようとしたように思える。誰もわざと読みにくくして、ゆっくり読んでもらおうなどとは考えないだろう。作者の一生懸命な言語との格闘が、結果として読みにくくさせてしまったのではなかろうか。我々がこの作品から受け取るべきものは、言語へのこの格闘自体なのではないか。
「ひとりうっとり感」という批判について述べる。
 確かにそのようにも読めるし、そこがこの作品の危ういところでもある。
 少女は、使用人に対して階級差ばかりか、人間としての優越感さえ抱いており、それがこの作品の通奏低音として流れている。
 だが、作中いたるところで繰り返される「うかつ」とか、「まぬがれがたいぬかり」とか、「おろかさ」とか、主人公親子を形容する批判的言辞と、作品全体のまどろっこしい表現とが、少女とその父親への批判ともとれる。
 つまりこの作品の形式自体が、作品を作者から切り離し、主人公たちを作者から切り離す作用をするというふうに読めば、回想のなかの少女の「ひとりうっとり感」を、作者は客観的に見ているともいえるのではないか。
 さて、さまざまに論じられうる作品ではあるが、読み返したいという情熱をあまりかきたてないのも事実である。なんといっても初読の読みにくさの記憶が邪魔をする。それがこちらの文学的貧しさなのか、それともこの作品の実験性は認めるとしてもそれ以上には評価できないということなのか、ただちには判断しづらい。(村上龍は「この作品は完成しているので、新人賞にふさわしくない」と言ったが)。
 いまのところ、ぼくが書けるのはこの程度である。
スポンサーサイト

コメント

ご意見ありがとうございます。
読ませていただきました。「外見をとりはらうと」とかいたからといって、「取り払っていい」ということではありません。短絡的な解釈を許容する書き方をしたこちらの責任ではありますが。
蓮實さんは、「戦前」と「戦後」という対比軸をとりあげているので、「高度成長」については蓮實さんは何も言っていません。石崎さんが、高度成長によって失われたものという対比軸をとりあげるのは論としてなりたつと思いますが、それは蓮實さんとは関係ないものですから、私の蓮實批判とならべるのは筋違いだと思います。
痛い指摘です
 読んでいただいてありがとうございました。「文学界」での蓮実発言を確認せずに書いたのはぼくの手落ちでした。独断的感想を承知で書いてきましたが、こういうブログに載せる以上、もう少し慎重にせねばならないかなとは感じていますが、今後もたぶん懲りずに書くでしょう。ご指摘をいただいて考えていきたいと思っていますので、どうかよろしくお願いします。

管理者のみに表示

トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。