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「雪」  鬼藤千春

 雪  鬼藤千春

 三月を迎えたが、北国はまだまだ寒い。西の山に陽が落ちて、急に冷え込んできた。それでも真千子の心は、灯が点ったように温かかった。彼女は台所に立って、夕食の準備に余念がない。
 金曜日の夜には、夫、昭平が毎週やってくるからだ。昭平は福島に一人残って、建設業の仕事をしていた。真千子は、小学五年の亜由美と三年の真希とともに、新潟へ自主避難している。
 新潟の暮らしは、真千子一家にとって耐え難いものだった。福島ではごく普通の生活を営んでいたが、原発事故によって、一家の生活は一変した。
 ある日、亜由美は学校から、泣きながら帰ってきたことがあった。アパートのドアを開けると、玄関に立ち尽くして、瞼を右手の甲でしきりに拭っていた。
「亜由、おかえり。どうしたの? 転んだの」
 真千子は玄関に駆け寄って、声をかけた。
「……」
 亜由美は肩を震わせて、泣いていた。
「そーら、亜由、これを使いなさい」
 花柄模様のハンカチを、真千子は差し出した。
「……」
 亜由美は真千子の手のハンカチを、勢いよく振り払った。ハンカチは玄関に舞い落ちた。
「もう、この子は。どうしたっていうの?」
 真千子は框に膝をついて、亜由美を見上げた。
「福島軍団……」
 亜由美は声を絞り出すように言った。
 不意を衝かれて、真千子は言葉を失ってしまった。亜由美の学校には、福島からの避難者が三家族あった。その生徒たちを指して、子どもたちがからかったに違いない。亜由美は玄関を駆け上がると、ランドセルを放り投げ、コタツのなかにもぐり込んで、いつまでも泣き止まなかった。真千子は深い溜め息をついて、亜由美をじっと見つめていた。
「ただいま」
 昭平が玄関で大きな声を挙げた。
「おかえり」
 真希は小躍りしながら、玄関へ迎えに出た。
 玄関から上がると、真希は昭平に抱きついた。彼の腕の中で、キャッ、キャッと彼女は声を挙げた。
「真希、いい子をしていたか。今日は土産を買ってきたぞ」
 その言葉を聞くと、真希は昭平の腕からするりと降りた。
 昭平の土産は、お料理ごっこのセットだった。にんじん、大根、ジャガイモ、ナスなどの野菜と調理器具一式だった。野菜は何分割かにされ、接合されているのだった。
「姉ちゃん、やろう」
 宿題をしていた亜由美も、教科書とノートを投げ出して、コタツに駆け寄って行った。亜由美は調理器具を揃え、真希は野菜を包装紙から懸命に取り出していた。
 真希は、にんじんや大根を包丁で輪切りにして、亜由美の用意した鍋の中に、投げ入れていた。
「姉ちゃん、今日は肉ジャガよ。あれッ、父ちゃん、肉がないよ」
 真希は頓狂な声を挙げた。
「そうか、肉がないんか。しまったなあ。真希、また買ってきてやるよ。今日は、野菜炒めにしてくれよ」
 昭平は苦笑いを浮かべて言った。
 亜由美は、ガスコンロの上にフライパンを載せて、「さあ、どうぞ」と言った。真希は不服らしく、頬をふくらませて、フライパンに野菜を放り込んだ。亜由美はカチッと火を点けた。彼女はフライパンを上下させ、野菜を巧くひっくり返して、「ほら、一丁上がり」と嬉々とした声を挙げた。
「さあさ、こちらも出来上がりましたよ。亜由、玩具を片付けなさい」
 台所から、真千子の声が飛んできた。
「そら、今日は寒いから水炊きだよ」
 真千子は土鍋をコタツの上のカセットコンロに置いた。土鍋から湯気が立ち昇っている。
「あなた、食べてちょうだい。もう大丈夫よ」
 真千子は昭平に言った。
「寒い時は、これが一番だよ。身体の中から温まるからなあ」
 昭平は箸を取り上げて言った。
 亜由美と真希も先を争って、肉を捜していた。「あったーッ」と真希が声を挙げる。「そら、ここにも」と亜由美が応える。賑やかな食事だった。真千子は、こんな普通の生活がいつ戻ってくるのか、と思いながら野菜や肉を足していた。
「あ、雪だわ。三月だというのに、寒い筈だわ」
 真千子は窓を覗いて言った。
 すると、いきなり真希が大きな声で叫んだ。
「いやだ、いやだ、放射能が降っている。父ちゃん、怖いよう」
 真希は昭平のふところに飛び込んだ。
 雪は音もなく、しんしんと降りつづいていた。
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