「握手」 鬼藤千春

 握手  鬼藤千春

 ゆったりと流れる川の音が響いている。慶三はその音で目覚めた。陽はもう高く昇っているらしく、部屋の中は青く染まっている。
 啓蟄を迎えたというのに、昨夜も寒かった。慶三は身体に新聞紙を巻きつけ、寝袋の中にもぐり込んで寝たが、寒くて何度も目が覚めた。彼は蓑虫が袋から出るように、寝袋を脱ぎ捨てた。が、血圧が高いのか、すぐに立ち上がることができなかった。
 慶三は河川敷にブルーシートを張って、ネグラを作っていた。ここに住むようになったのは昨秋からだ。まもなく半年になる。決して住み心地は悪くなかったが、このままでは駄目だ、という思いがふつふつと、湧いてくるようになった。
 彼はダンボール箱の上のチラシを掴んだ。それを広げて見ると、生活相談会の案内が記されている。慶三はこれからそこへ出かける予定にしていた。相談会場は、「生活と健康を守る会」の事務所になっている。このチラシは、ホームレスの仲間から貰ったものだ。
 こんなところに引っ込んで、川を眺めながら、川の音を聴きながら暮らしてきて、しばらくシャバの空気に触れていない。少し気後れがしないでもない。「生健会」の素姓も分からない。が、落ちるところまで落ちているのだから、もう怖いものは何もない。失うべきものは何もないのだ。
 「生健会」は貧相な建物だった。安アパートのような事務所だった。「いらっしゃい、さあどうぞこちらへ」と言って、真ん中にテーブルを据え付けた、四畳半くらいの部屋に通された。五十代くらいの女性がにっこり笑って名刺を差し出した。慶三と同世代の女性のように思えた。名刺には、三浦紗知子と印字されていた。
「どうなされました? お身体の方は大丈夫ですか。痛むというようなところはないですか」
 三浦はおだやかな声で訊いた。
「うーん、別に悪いところはないんですが、血圧が二百を超えて、朝目覚めても立てないことが、時々あるんです」
 座り心地が悪そうに、慶三はもじもじと答えた。
「そうですか。血圧がねえ、それは大変ですね。ところでどこにお住まいですか」
 三浦は微笑みながら言った。
「……」
 慶三は、即座に答えることができなかった。
「……あ、あのう、河川敷です」
 慶三は俯いたまま、小さな声を出した。
「河川敷? じゃ、路上生活ですか」
 三浦は驚いたように声を挙げた。
「みんなは、ホームレスといいます。もうそれが厭になったんです。それで相談にやってきました」
 慶三は三浦の瞳を見て言った。
「千原さんといいましたね。河川敷で暮らすようになったいきさつを、教えて貰えませんか」
 三浦は真剣な眼差しで、慶三を見た。
「……でも、それは私の恥ですからね。……しかし、それを話さなければ相談になりませんね」
 大きな溜め息を、慶三はついた。
「私は小さな町で電器店をやっていたんです。が、ご存知のように、家電量販店が次から次に街にできて、みんなそちらへ流れるようになったんです。それで店が立ち行かなくなったんです」
 慶三は一息ついて、湯呑みのお茶を飲んだ。
「借金があったものですから、家と店を手放したんです。女房とは争いが絶えず離婚しました。二人の子どもはそれぞれ独立しています。それで私は死に場所を求めて、いろんなところを彷徨いましたが、死に切れずに、今の河川敷に落ち着いたのです」
 慶三は、そこまで話して眼を宙に泳がせた。
「そうですか。それは大変でしたね。千原さん、あなたは血圧が高いようですが、働けますか。働けるようなら、無理のない仕事を捜しましょう。まず、住居を確保することです。五十六歳ですか。多分非正規の働き口しかないと思います。それで賃金が低いようなら、不足分だけ、生活保護費を受けるようにしましょう」
 三浦は、机に両肘をついて身を乗り出してきた。
 慶三は明日、三浦と福祉事務所へ行くことを約束して、相談会場を後にした。彼は死に場所を求め、山や海を彷徨って、二度自殺未遂をしていた。死に切れなかったのだ。血圧は高いけれど、まだ働けないということはない。
「千原さん。人生をやり直すのに、遅いということはないのよ。必ず人生はやり直せるんですよ」
 三浦は、白いふっくらした右手を差し出した。
 慶三も右手をそうっと伸ばした。三浦はぎゅっと握って左手で包んだ。彼女の手は柔らかくて、温かかった。
スポンサーサイト

コメント


管理者のみに表示

トラックバック