「櫂悦子、新船海三郎、三浦健治をめぐって」 石崎徹

 櫂悦子、新船海三郎、三浦健治をめぐって   石崎徹

 櫂悦子の「南東風が吹いた村」が掲載されたのが「民主文学」12年8月号、新船海三郎が「核エネルギーへの認識と3.11後の文学」の中で、同作品に触れたのが同年11月号、そして今月号に三浦健治の「そもそも小説とは何か」が載った。これは新船氏の前掲評論への全面的批判であり、その中で一章を設けて櫂作品にも触れている。
 ぼくはこの三者が有しているような広範な知識はまったく持たないので、この三者を厳密に論じることはできない。ただ一読者として若干の感想があるので、それを述べる。
 櫂さんは、ぼくが読んだ限りでは「謝辞」と「二十一歳の朝」で、登場人物の内側にあまり踏みこまない距離をとった切れ味のいい文体で、独特の世界を描き出し、またそのことがラストのどんでん返しを効果あらしめていた。
 その文体が、「南東風が吹いた村」では困難な格闘を強いられたような印象がある。都会を描くのに適していた文体が、農村を描くにあたっては、ちぐはぐなものとなってしまい、特に前半、彼女特有の歯切れの良さが見られない。だが、後半、良一と吾朗が言い争うあたりから、やっと歯車にオイルがまわりはじめた感じで、放射能被害の当事者たちの苦悩する姿が明瞭に浮かび上がってきて、やはり感動させられた。
 この中で新船氏が問題にしたのが、二点。
1. 天罰
2. 汚染された原乳
 すなわち、ほかならぬ被害者に「天罰」と言わせるべきなのか、また良一は早い段階で汚染に気付いていたはずだから、それを避難者に与えることはしなかったのではないか、という問題である。
 三浦氏は二つとも誤読であると指摘し、「天罰」は経済成長優先の体制への天罰であって、被害者へのそれとはなっていない、また良一が原乳を配った段階では、汚染の可能性が疑われる状況ではなかった、としている。
 作品を読む限り、三浦氏が正しい。新船氏の誤読である。
 ただ読者としての感想を言わせてもらえば、ここで被害者の口から「天罰」という言葉が出てくることには、やはり違和感がある。打撃を受けたのが体制だけであるなら、天罰でいいだろう、だが咎なくして被害を受けた者の口から、天罰という言葉が出てくるだろうか。新船氏の指摘はこの違和感の表明だったと思われる。
 原乳の汚染問題は、作品の時間関係を見れば、やはり新船氏の誤読になる。ところがここに事実としてどうだったのかという問題が新船氏から提起され、三浦氏からは、事実としても櫂さんが正しいだろうとしつつ、「小説を事実で断じてはならない」と言っている。
 この点に関して異論がある。
 小説にはいろんな種類があるだろうと思う。事実から出発しても、事実とは別のところで勝負する小説もある。だがテーマそのものが事実に大きく依拠せざるを得ない小説もある。新船氏自身のあげている例に従えば、川上弘美「神様 2011」は、3.11から出発しながら、熊と人間が連れ立って散歩に行くというまったくの虚構である。これは事実に直接依拠しない形で3.11を描いているのだ。
 ひるがえって「南東風が吹いた村」は、濃厚に事実を背負わざるを得ない作品ではなかろうか。ディテールのリアリティということがいわれる。汚染乳の問題がもし事実と食い違っていたら、それを知る現場の人はやはり違和感を持たざるを得ないのではないか。
 事実がどうだったか知らないぼくはその点に関しては評価を保留するが、もし三浦氏が「いかなる小説も事実によっては断罪されない」とするならば、賛成できない。
 総じて、ここで新船氏が言いたかったのは、櫂悦子が、原発を許してしまったことへの自らの罪悪感を、登場人物たちに負わせてしまった、それは被害者に負わせることではなく、「わたくし」の問題として追及すべきであった、ということなのだろう。それ自体がどうも櫂さんの意図を読み違えている感じなのだが、こういう発言をする新船氏の気持ちもぼくにはわかるような気がするのだ。
 3.11以後、新船氏はずっとこの問題にこだわっている。体制に対する批判的な姿勢は維持してきたつもりだが、原発に対してはそれほど真剣にむきあってこなかった、という反省が新船氏にあり、この立場からすべての作品を読んでいるような節がある。
 そういう意味では、三浦氏が論中触れておられる「科学は客観に向かうが文学は主観に向かう」という言葉がここにも適用されるような趣きがある。等しく評論家といいながら、三浦氏はより学者的にアプローチし、新船氏はより文学者的にアプローチする。論理の筋道は三浦氏の方が通っている。だが、三浦氏の個性はほとんど感じられない。一方、新船氏の論理にはかなり穴がありそうだが、新船氏がいま真剣にひとつの問題と向き合っているということは感じられるのである。
 それは評論家としては危ういことなのかもしれないが、しかし、評論も文学の一ジャンルであると考えれば、誤読を含みながらも、何ごとかを主張したいという著者の強烈なメッセージには、打たれるものがある。
 その点で櫂さんの作品からは離れるが、三浦論考の主要な論点に立ち戻れば、やはりそこにも多少言いたいことがある。
 科学者と詩人についての新船氏の考察には、三浦氏の指摘する穴があるのは認めざるを得ないだろう。新船氏の指摘したのは、被爆詩人と非被爆科学者との対比であって、被爆科学者が行った黙々とした努力は、被爆詩人の作品ほど目立たなかった、一方非被爆科学者の発言は目立ったし、非被爆詩人が被爆詩人ほど敏感だったわけでもない。現に江口渙が大田洋子を揶揄した話を新船氏自身が引用している。文学者江口渙も被爆問題には冷淡だったわけだ。ここまではよい。
 ところが、その上で三浦氏は、新船氏が科学者たちの過去の発言を取り上げるのに対して、パラダイム(知の枠組み)という言葉で、科学者たちを擁護する。もちろんそうだ。あと付けの批判は見苦しい。
 だが、それでも疑問が生じるのである。はたしてパラダイムを免罪符にしてしまうだけでいいのだろうか。過去を検証するのは過去を責めるためではない。未来をまちがわないためである。パラダイムはいつか破られる。それを最初に破るのはひとりの個人である。ひとつの主体である。誰もが常識と思っていることに対して、誰かがそれは違うと最初に言うのだ。過去を検証するのは、パラダイムを信じてはならないと自覚するためである。人々がいかに間違ってきたかを知ろうとするのは、それによって自分が犯そうとする過ちを予防するためである。
 どんな真理も時代にとっての真理にすぎない。時代の真理は新しい真理によって否定される。それを生みだすのは科学者であるかもしれないし、文学者であるかもしれない。
 ただ、文学者が、いつも客観よりも主観を重視する傾向によって、論理を飛び越えたところに直感的に真理をつかみとる、いくばくかの役割を担っているということもいえるのではなかろうか。
 ぼくは新船氏の問題提起のなかに、三浦氏の指摘する弱点を認めつつも、なお、なにがしかの模索を感じるのである。

 ちなみに、科学と小説との違いということで三浦氏が挙げられた五つの命題はたいへん参考になった。「小説」というものへの、いまの段階での非常に的確な定義づけだと言えるだろう。
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