「望遠鏡」 鬼藤千春

 望遠鏡  鬼藤千春

 車から降り立つと、かすかな甘い香りが漂ってきた。史朗が振り向くと、墓地の入り口に金木犀が植わっていた。
 高台にある墓地に歩み寄ると、瀬戸内海が大きく広がっていた。太陽の光線を浴びて、海は蝶が舞っているように輝いている。水平線は空が落ち込んだあたりで、ぼうっと霞んでいた。
 墓地に視線を移して見渡すと、四角錐をした戦死墓が、いくつも屹立していた。この村で、アジア・太平洋戦争による兵士の死者は、三百三十五人にのぼる。たかだか六千人の村である。人口比でいうと約五%、男性のみだと約十%、青年、壮年期のみだといったい何%になるというのだろうか。それだけの死者がこの村から出たのだ。
 史朗は墓地へ下りて、戦死墓を一つひとつ見て回った。墓碑には死に至った土地が刻み込まれている。「満州国」、中華民国、沖縄、レイテ島、シンガポールなどで戦死していた。
 史朗は比較的大きい戦死墓の前で、老婆がへたり込んでいるのに遭遇した。彼女は膝を曲げて、腰を地べたに落としている。背中を丸め、手のひらを合わせて、口をもぐもぐと動かしている。
 史朗はそのようすを、少し離れたところから眺めていた。口を動かすのをやめたところで、彼は老婆の傍に近づいて行った。純白の菊が花立てに挿し込まれ、線香の煙が立ち昇っている。
「ご苦労様、お参りですか」
 史朗は墓地の外から声を掛けた。
「ああ、どなたですりゃ。見かけんああさんじゃなあ」
 老婆は腰を伸ばし、首をねじって史朗を見た。
「ええ、わしはこの村の西地区のもんでなあ。この東地区へはめったにこんからなあ。今日は、この地区の戦死墓を見て回りょうるんじゃ。ちょっと、戦争のことを調べょうるからなあ」
 史朗は、老婆と同じような視線の高さになるように、腰を落とした。
「戦争を? こりゃまたえらいことじゃのう」
 老婆は怪訝そうな顔をした。老婆の顔や手の甲には、褐色のしみが浮き出て貼りついている。
「ああさん、今日はのう、わしの連れ合いの月命日なんじゃ。それでこうやって、墓参りをしょうるんじゃ」
 老婆は濁った眼を史朗に向けた。
「おばあさん、連れ合いは何処へいっとったん?」
 老婆の顔を覗き込んで、史朗は訊いた。
「ルソン島のバレテ峠じゃ。そこで米軍と烈しい戦闘をやってのう」
 振り向いて、老婆は言った。
 老婆の投げた視線の先には、四国山脈の峰々が連なっていた。
「あの山の向こう、台湾から輸送船でルソン島へ送られてのう。バレテ峠の陣地へ遣られたんじゃ」
 遠くを見るような眼をして、老婆は中空を眺めていた。
「じゃがのう、空も海も米軍の支配下にあったんじゃ。陸はブルドーザーが道を切り開いてのう。そのあとを戦車がやってくるんじゃ」
 老婆は顔を紅潮させて、眼をしばたたいた。
 瀬戸の海の沖合いには、貨物船がほとんど泊まっているように見える。沿岸近くの海では、漁船が白い尾を曳いて行き交っていた。牡蠣筏が、何枚も整然と浮かんでいる。美しい光景だった。
「そんで、うちのはのう。ウサギ狩りじゃいうて、夜中に敵の陣地へ斬り込みをさせられたんじゃ。じゃが、その直前に発見されて、機関銃でやられてしもうたんじゃ」
 老婆は墓に向かって、手のひらを合わせた。
 墓の供物台には、赤飯や菓子、ビールや果物が、溢れるばかりに盛られている。
「沢山のお供えもんじゃなあ。ご主人はビールが好きだったんですか」
 史朗は供物台を凝視して言った。
「うちのは、漁師じゃったから、酒が好きでのう。漁から帰ったら、浴びるほど飲みょうたんじゃ。復員した人に聞いたら、ルソン島に上陸してからは、ろくにめしを喰わせてもらえなかったそうじゃ。じゃから、こうして、お供えしょうるんじゃ」
 老婆は供物にそうっと、手を触れて言った。
 史朗は老婆に席をゆずってもらって、墓の前で膝を折った。手のひらを合わせ、深く頭を垂れて、般若心経を唱えた。この仏は三百三十五人のうちの一人だ。この小さな平和な漁村にも、戦争はやってきたのだ。
「ああさん、ありがと。じゃが、この墓には連れ合いの骨はないんじゃ。役場から白木の箱が届けられただけで、お骨は還らなかったんじゃ。じゃから、うちの人の大切にしていた、望遠鏡を納めてやっとんじゃ」
 老婆は眼を赤く染めて、墓石を手のひらでやさしくさすっていた。
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