「失踪」 鬼藤千春

 失踪  鬼藤千春

 西の空が茜色に染まっている。晩秋の落日である。紘一は民商の商工新聞を、班長の家に数部ずつおろして回っていた。車に乗り込もうとした時、携帯が鳴った。
「三沢君、大変じゃ。梅村さんが――。まあいい、話はあとじゃ。すぐ帰ってくれんか」
 事務局長が、早口で喋った。
「あ、あの、事務局長。梅村さんに何かあったんですか」
 おうむ返しに、紘一は訊いた。
「電話では、話せん。とにかく帰ってくれ」
 事務局長は一方的に電話を切った。
 紘一は渋滞した道を、苛々しながら走った。
「おう、三沢君。待ってたんじゃ。梅村さんの行方が分からん。支部長が知らせにきてくれたんじゃ」
 紘一が事務所に着くなり、事務局長は慌てたようすで言った。
「三沢君、これから支部長と一緒に、梅村さんの家に行ってくれんか」
 事務局長は、振り向いて支部長を見た。
 支部長はソファに座って、神妙な顔つきをしていた。彼は電器店を営みながら、支部長を引き受けていた。紘一は支部長を乗せて、慌しく事務所を出た。
 梅村さんは、一カ月ほど前に税務調査を受けた。任意調査であるにもかかわらず、家の事務室に上がりこんで、帳簿類を持ち帰ったのだ。その時、梅村さんはいなくて奥さんだけだった。気が動転した奥さんは、なすすべもなく、立ち竦んでいたという。翌日、梅村さんは支部の仲間と一緒に、税務署へ抗議に行ったが、面会は叶わなかった。
「奥さんの話では、おとといの晩から家に帰っていないそうじゃ。捜索願いは、わしが午後に行って、それからじゃ」
 支部長は助手席で腕を組んで、おもむろに言った。
 梅村さんには、その後過大な追徴税額が提示されたが、それを納める金がなかった。何回か督促状がきたが、電話で何回も待ってくれるように頼んだ。しかし、税務署は容赦しなかった。ついに、売掛金を差し押さえてしまったのだ。
「支部長、売掛金を押さえるというのは、無茶じゃ。従業員の給料や外注費が払えんじゃろう」
 助手席をちらっと一瞥して、紘一は言った。
「そうじゃ。本人も従業員も取引先も、お手上げじゃ」
 支部長は紅く染まった空を、睨みつけていた。
 梅村さんの家に着くと、奥さんが座卓の前に座り、青ざめていた。
「奥さん、何か手がかりになるようなものはありませんか。親戚や友人には連絡を取られましたか」
 紘一は座卓に近づいて言った。
 奥さんは、魂が抜けたように、ぼんやりしていた。虚ろな眼を宙に泳がせている。
「いろんなところに電話をかけてみたんですが、消息は分かりません。主人は今どこで何をしているんでしょうか。心配で眠れません」
 紘一の方に視線を投げて、奥さんは言った。
「そうそう、三沢さん。主人の机の上に書き置きがあるんですよ」
 奥さんは、立ち上がって事務室の方に行った。
 ――許してくれ。売掛金を差し押さえられたんじゃ、どうにもならん。心配せんでもいい。わしはちょっと出かけてくる。
 紘一は、走り書きされた便箋を、食い入るように見つめていた。サインペンで書かれたその字は乱れている。梅村さんの心の有りようが、はっきり示されていた。
「まず、梅村さんを捜し出すことが先決です。それには、奥さんが気をしっかり持つことが必要です。私たちも協力します」
 奥さんを覗き込んで、紘一は言った。
「主人は帰ってくるでしょうか。それが心配でなりません。いくらか金は持って出たようですが、着の身着のままです」
 奥さんは、目頭をハンカチで押さえていた。
「奥さん、近いうちに、売掛金の差し押さえ解除の交渉を、税務署とやりましょう。中央支部としても、全力で取り組みます」
 紘一は膝を前に進めて、声をかけた。
「みなさんにはご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い致します」
 奥さんは、気を取り直したように、声を挙げた。
「奥さん、心配するこたあねえ。わしらがついとるんじゃから、ご主人がおらん間は、奥さんががんばらにゃ」
 支部長が、包み込むように励ました。
 陽がすっかり落ちて、街は闇に溶け込んでいた。紘一は、きっ、とフロントガラス前面の光景を睨んで、心がたぎってくるのを感じていた。
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