「桜」 鬼藤千春

 桜   鬼藤千春

 朝礼を終え、祥三は墓石のパンフやチラシを揃えて、営業に出る準備をしているところだった。まだ頭に靄がかかっているようで、身体も倦怠感に包まれていた。そこへ室の空気を震わすような、音質の高い電話のベルが鳴った。
「有り難うございます。姫井石材でございます」
 祥三は受話器をさっと持ち上げて、爽やかな声で答えた。
「あのう、ちょっと相談があるんですが。四十九日までに、お墓はできるでしょうか」
 低く、くぐもった女の人の声だった。
「ええ、石種とかデザインとかによって違うんですが、たいていは間に合わすことができますよ」
 祥三は不謹慎にも、声が弾んでいた。
「それじゃ、ご無理を言いますが、お墓の資料を持ってきていただけますか」
 いくらか明るい声だった。
「はい、承知しました。何時ごろ伺ったらいいでしょうか。あ、そうですか。十時頃ですね。それではこれから出かけます」
 祥三は受話器を置くと、自然に顔がほころんだ。
 こういう話は滅多にないのだ。祥三は、しめた、と思った。
「どうぞ、お上がり下さい」
 五十代だろうか、女の人が祭壇のある部屋へ案内してくれた。
 祥三は祭壇の前に座って、まずローソクに火をつけた。ぼうっとオレンジ色の炎が上がった。ローソクから線香に火を移して、香炉に二本挿した。線香から白い煙が湧き出すように、立ち昇っている。リンをふたつ打ち、合掌をして深く頭を下げた。
「このたびは大変でございました。お悔やみ申しあげます。失礼ですが、ご主人様ですか」
 祭壇から座卓の方に席を移して、祥三は言った。
「ええ、私の連れ合いです。まもなく定年という時に、残念です。でも、これも仕方ありません。この人の寿命だったのでしょう。それで、四十九日までにできますか」
 奥さんは、白いハンカチを右手に持っていた。
 祥三はパンフを出して、座卓の上に広げた。「墓石選びは、まず大きさ、デザイン、石種によって、決めていただくことになります」
 祥三はパンフを指差しながら、丁寧に説明していった。
「あ、そうですか。九寸角の先祖墓ですね。こ、このデザインでよろしいですか。石種はこだわらないんですね。でしたら、中国の黒龍江省で採掘される石をお奨めしますよ。この石は、硬い、吸水性が低い、変質しにくいという、三拍子揃った石ですからね」
 祥三は石見本を出して説明した。
「それでは、これでお願いします。主人を仮埋葬で、土の中に眠らせるわけにはいきません」
 奥さんは、ハンカチで口を押さえた。
 祥三は契約書を書いて、捺印して貰い奥さんの家を後にした。車を道の路肩に停め、祥三は煙草に火をつけて、大きく吸い込んだ。旨かった。契約した後、喫む煙草は格別なのだ。
 祥三は昼食をコンビニで摂って、事務所に帰った。彼はⅤサインをして見せた。自分でも、顔つきがやわらいでいるのが判る。凱旋である。
「星川さん、大変よ。さっき鈴木さんの奥さんから電話があって、キャンセルさせてくれと言ってきたのよ」
 女の事務員が、慌てて言った。
「なに、キャンセル?」
 祥三はあっけにとられて、言葉も出なかった。
「うるう年だから、建ててはいけんいうて、親戚のものが言うそうよ」
「うるう年?」
 来るものがきた、と祥三は思った。
 祥三は折り返し鈴木さんの家に向かった。彼は、うるう年と建墓についての説明を反芻していた。
 江戸時代のことである。もうかれこれ二、三百年も前のことだ。陰暦の時代、うるう年は一年十三カ月だった。だから、同じ年額給金で十三カ月暮らさなければならないので、ときの大名が布令を出し、仏壇や墓石の購入をやめさせたのだ。
 それが迷信となって、今も生きているのだ。祥三はどう説明したところで、どうせ駄目なことは判っていた。
「親戚の反対を押し切って、もし何か不吉なことが起こったら困るので、このたびはやめときます」
 ほとんど、こういう返事が返ってくるのだ。
 祥三は、思わず溜め息をついた。人間の心というものは厄介なものだな、と思った。
 祥三は車のスピードを上げながら、戦前の非合法政党のことが不意に頭をよぎった。まもなく百年が経とうとしている。が、いまも怖いという迷信がつきまとっているのだ。それを払拭するためには、どうしたらいいのだろうか。
 祥三は墓石の契約よりも、自分も所属するその政党のことが、頭から離れなかった。一陣の風が吹いた。木々の枝が揺れている。桜の花びらがひらひらと舞い降りていた。
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コメント

墓石屋
 たいへん興味をそそられて読んでいったのですが、最後でがっかりしました。共産党が支持されないのを迷信のせいにするのは、作者の個人的見解です。個人的見解を表明する場合、それを読者に納得させる仕掛けが必要でしょう。ただ断定したのでは、違和感だけが残ります。ぼくの個人的見解を断定的に言わせてもらえば、迷信のせいにしている間は、共産党は駄目です。
 墓石屋のことをもっと書いてください。そこには宝が眠っています。安易に政治や社会と結びつけないで書いてください。
普遍性
「迷信」という普遍性のあるテーマをもっと追求すれば良いと思います。それを読んで、政党のことを連想するか、他のことを連想するかは読者にまかせれば良いことです。

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