「こつなぎ物語」感想 石崎徹

野里征彦「こつなぎ物語」感想    石崎 徹

「民主文学」誌、本年1月号から第二部がスタートしたが、とりあえず去年一年間にわたって連載された第一部について感想を述べる。
 一言で言えば大変ひきこまれた。実にさまざまなテーマが詰まった作品である。
 最初のうち、耳慣れない東北弁が読みづらかった。でも読み進むうち、だんだん慣れてきて、むしろそのリズムが心地よくなってきた。思うに、方言と思って読むのがよくない。「東北語」という独自の言語だと思って読むと、そこに独特の味わいが生まれる。
 あと、山の生活を非常によく知っている人の文章である。山の生活の描写が豊かで、読者を自然にその世界へいざなっていく。
 物語の背景となっている事件については、戒能通孝著「小繋事件」(岩波新書1964年 絶版)に詳しい。岩手県の一山村で、山の入会権をめぐって、50年間三代にわたって争われた事件である。民事裁判二件(46年 職権調停)、刑事裁判二件(盗伐で農民側が告訴され、66年、最高裁有罪)をふくみつつ展開され、さまざまな教訓を残した、壮大なドラマである。第一部は第一次民事訴訟で敗北したところで終わっている。
 さまざまなエピソードがつづられるが、実はかなり細かいエピソードまで、戒能本にすでに記述のあるものが多い。ただ、戒能本では簡潔な経過の記述に終わっているところを、野里作品では肉付けして面白く読める物語として創りあげている。この物語化において、「東北語」の使用と、山の生活の細密な描写とが力を発揮している。
 登場人物は百人を超える。著名人を除いては仮名で書いているが、本名を少し変えただけのものが多い。戒能本と照らし合わせるとだいたい本名がわかる仕組みになっている。が、もちろん仮名にした部分にはフィクションをふんだんに使っているし、ただ名前を借りただけと思えるものも多い。
 遺憾なのは、ときたま著者が名前を間違えていることである。百人も出てきたのでは無理のないところもあるが、仮名を使ったことでよけいに混乱した面もある。
 山岡弁次郎は、本名山本善次郎で、いかにも小説的な人物だが、第一部では小悪人として登場し、これから展開される第二部の中で主役級に躍り出て(実は第二部をまだ読んでいないので実際にそうなっているかは分からないのだが、事件の経過としてはそうなるだろう)、最後にまた逆転する波乱の人物である。ところがこの家系の名が最初本名の山本で出てきて、途中で仮名の山岡に変わる。そういうものを他にもかなり見る。これは筆者が登場人物の名簿を作ったから分かったことで、これを単行本として出版するさいには、そのへんを綿密に調べて統一した方がいいだろう。親子関係についても若干の混乱が見られた。三代にわたる物語なので関係系譜を作ろうとしたさいにそのことが困難を招いた。
 この作品に含まれる多くのテーマについては、他の人がそれぞれ触れるであろうから、ここでは最も注目した入会権の問題をとりあげるにとどめる。
 当時の東北の用語例では、入会とは二村以上の共同使用を言うので小繋山は小繋村の村山であって入会ではないとする解釈もあるが、争われたのは広い意味、一般的な意味での入会権である。
 すなわち先祖代々代価なしで使用してきた土地には、使用者に使用権があるという概念だ。これは所有者を明確にする法律がなく、その必要もなかった時代からの慣習によるものである。
 近代国家の国家権力が、この慣習を破壊するものとして現れる。法を理解できない住民に勝手に法を押し付け、山の使用権を奪ってしまう。だが住民は山なしには生活が成り立たないのである。法律の条文にしか目がいかない法律家たちには(彼らの国家権力や資本家との癒着は横に置くとしても)、住民の要求はまったく理解できないものとなる。
「真実を理解するためには現場に直接立ち会わねばならない」
 それがこの事件からわれわれが得ることのできる、どんな問題にも共通する最大の教訓であろう。
 この点を特に重要だと思うのは、(人々は突飛だと思うかもしれないが)、尖閣諸島をはじめとして、日本列島周辺のいたるところで緊急の課題となってきているところの領有権問題をめぐって、法律論だけに世論が集中している現状への違和感からだ。
 所有、領有とは、国家権力が勝手に作りだした、いわばフィクションに近いものだと言ってしまえば言い過ぎだろうか。だがそこにおける住民の権利ははたして正当に評価されているだろうか。漁民たちの歴史の現場から、これらの問題を見直してほしい。
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