「母」 鬼藤千春

 母   鬼藤千春

 母が逝って、まもなく十二年になる。花冷えのする早春だった。母は九十歳で終焉を迎えた。母の生年は一九一一(明治四十四)年である。平塚らいてう、らが「青鞜」を創刊した年だ。「元始女性は太陽であった」と高らかに謳いあげたのが、この「青鞜」だった。
 太平洋戦争で日本が敗北に終わる、一九四五(昭和二十)年まで、母の生きた時代は、戦争という「冬の時代」であった。この間、夫は三回に渉って徴兵されている。母は銃後にあって、どのような生活を強いられたのか、おおよその見当がつかない筈はない。
 私は戦後生まれだが、一九六〇年代に入るまで、わが家の経済は窮乏の底にあった。それを凌ぐために、畑一枚売らざるを得なかった。板塀は傾き、雨漏りのするような家だった。母は乏しい物品を、隠すように風呂敷に包み込んで、質屋通いをしていた。質屋の当主は実兄であったが、無下に断られて帰ることも一再ならずあった。
 母は働き者だった。というより、働かなければ家族六人喰って、生きてゆけなかったのだ。夜を日に継いで、働いていた。私が目覚めているうちに、母が床に就くというようなことは決してなかった。
 夜、私が眠りに就こうとするとき、母は決まって内職をしていた。その仕事はときどきで変わっていた。バンコック帽の機織りをしたり、麦稈真田を編んだり、紙製のストロー巻きをしていた。
 朝、私が目覚めると、母の、俎板をトントンと叩く音が、いつも聞こえていた。また、裏山にある畑から、ジャガイモや南瓜などを穫り入れて、帰ってくることも少なからずあった。
 母は躾けに滅法厳しかった。国民学校で代用教員をしていたからだろうか。いや、それは母の生来のものだったようだ。私は井戸のほとりにある太い松の木に、たびたび縛り付けられた。
「もう何度言わせりゃ分かるんじゃ。よう反省してみい」
 母は狂ったような形相をして叫んでいた。
 庭掃除や七輪の火を熾す仕事を忘れて、外で遊んでいたためである。私も強情で決して涙をこぼすことはなかったが、近所の人が助けに来てくれた。
「夏ちゃん、もうええ加減許してやったらどうなん」
 が、母はそれでも、綱をほどこうとはしなかった。
 私が東小学校の仲間数人と、西小学校へ乗り込んでゆき、大喧嘩をしたことがあった。それは町内へ知れ渡ることになった。すると、母は学校までやってきて、クラスメートのいる前で、私をねじ伏せ、引き摺り回したことがある。母は子どもの躾けには、みさかいがなかった。
 夫は婿養子だった。いくらかそれが関係しているかも知れなかったが、母は家長のように振る舞っていた。父は寡黙であったから、それは尚更であった。
 父のささやかな愉しみである飲酒についても、毎日のように不平や不満を並べ立てていた。それでわが家は諍いが絶えなかった。近所にも聞こえるように父をなじるのだった。
「毎日毎日、飲まんという日がないんじゃから、ええ加減にしとかにゃおえまあが――」
 母は口を尖らせ髪を振り乱して、言い放つのだった。
 私はそんな母が厭だった。烈しい憎しみの感情が、私の中で芽生えていった。ささやかな父の愉しみ、私は自分が喰わなくても、父に酒を飲まして遣りたかった。それは、私だけでなく、ふたりの兄や弟もそうだったようだ。
 私は工業高校を卒業して、市役所へ勤めることになった。春入所して、半年ほど経った頃から、私は組合の書記局へ出入りするようになった。まもなく、組合の役員に推されてそれを引き受けた。春だった。春闘である。市役所は人事院勧告によって、賃金が決められる仕組みになっていたが、他の組合と歩調を合わせていた。
 春闘の集会で使うゼッケンをつくることになった。私は母に頼んだ。ゼッケンの写真を見せて、朝までに作ってくれと言った。
「組合? お前はそんなとこに首を突っ込んどるんか。上のもんに睨まれりゃせんのか。わしゃ、知らん。そんなものは、よう作らん」
 母は私を睨んで、鋭い声で拒否した。
 私は諦めて、床に就いた。母はやはり起きて内職をしていた。バンコック帽の機織りの、ギィー、ギィーッ、バッタンという音が、ひとつのリズムを刻んでいた。
 チッ、チチチ、チーッという小鳥の鳴き声で、私は目覚めた。おもむろに起き出して、私はカーテンを引き放った。金色の光が射し込んで、部屋を染めた。
 枕元を見ると、白い布が畳んで置かれていた。手に取って広げて見ると、それはゼッケンだった。
 台所の方を振り向くと、母はいつものように、平然と俎板を叩いていた。
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