「小説のある暮らし」 鬼藤千春

小説のある暮らし     鬼藤千春

 私の友人に俳人がいる。その彼は次のように言っている。
「合歓の会では、一日一句を提唱している。実行できている人は皆無に近い。一日一句が習慣になれば、感性が磨かれ、ときには十句できたりもするだろう」
 五、七、五という十七文字の短詩型文学であっても、毎日一句詠むということは、相当難しいということだ。
 私たち創作を志している人たちは、どうだろうか。もちろん仕事に携わっている人もいるし、仕事の第一線から退いている人もいる。仕事をしながら書くという営為は、なおさら難しいといわなければならない。が、それを考慮に入れたうえで、私たちも一日一句に対して、一日一枚を提唱したいと思う。それは私自身が、仕事に就いていたときに、書いておけばよかった、という痛切な思いに駆られているからである。
 しかし、書くという営為はなぜこうも難しいのだろうか。
「わからないものを、書くからこそ、創作というのであり、作家は書くという実行で、考えにしっかりした形をあたえる」
 小林秀雄はこのように書いている。
「詩人の作詩法に、詩が書けないときは、何時間でも壁を見つめる」
 ある詩人の言葉である。
「今でも原稿用紙の一行目は怖い。書くことは苦しい。うれしいのは、ほんの一瞬」
 こう語るのは、竹西寛子である。
 このように、プロの方たちでさえ、書くことの苦しさを語っている。私などの素人はなおさらである。書こうと思い立つと、「寝ても覚めても」そのことを思いつづけるのだが、一向にイメージが浮かび上がってこないことがある。苦しい時間を刻むことになるのだ。
「小説は現実にあった事だけ書くのでなく、表現することだ。それは突然分かるものではない。小説は芸術で創造物だ。それを書くには沢山読むことだ。辛いのになぜ書くのか。仲間が得られるから書くのだ。努力すれば必ず目指す所に行ける」
 ある作家の言葉である。
「地味な活動だが、コツコツ勉強しないと文章はうまくならない」
 これは、ある同人誌の主宰者の言葉だ。
 おそらく創作という営為は、登山にもたとえられるような気がしてならない。文学という芸術の山は、高く険しい。いい加減な準備でその山に登ろうとすると、無慈悲に拒絶されるのだ。が、三合目、五合目、胸突き八丁の難所を越えれば、頂が待っているのだ。頂に立ったときの爽快感、達成感、そのために、私たちは辛いのに、書くという営為がやめられないのだ。
 まがね文学会は、先月の二十日にホームページ(ブログ)を開設した。まだ、一カ月も経っていない。今までは毎日のように、更新をつづけてきたが、これからはそうはいかないかも知れない。が、それが週一回、週二回になったとしても、その意義がうすれるということはない。
 私たちは、このブログとは別に、八カ月ごとに発行している、文芸誌「まがね」を持っている。これは三十年以上も継続している、試され済みの文芸誌である。書く人々はその時々で替わってきたけれど、次つぎに新しい書き手が誕生してきたのだ。それを引き継いで今も「まがね」は健在である。
 「まがね」とブログ、私たちは発表の場をふたつ手に入れたのだ。この舞台をベースにして、私たちはいい作品を発表していきたいと願っている。いずれも、発表の場であるとともに、修練の場でもある。一日一句、一日一枚を胸に刻んで、書いてゆきたいものだ。
「小説が書けると、芸術を通して社会と関わり、人生を豊かに生きることができます。なんと素晴らしいことでしょう。すぐれた作品が書ければ、この素晴らしさは何倍にも輝きます」
 キーワードは、「自分らしさ」、「夢中になる」、
「気がつく」です。こう語っているのは、作家の風見梢太郎である。
「柳行李いっぱい書いて一人前だ」
 ある作家の言葉だ。
 が、いっぱい書いたからといって、いい作品が書けるとは限らない。それほど小説を書くということは、容易でないということだ。
 だが、私たちは、苦しいけれども、魅力的な「小説のある暮らし」を日々の生活の中に、取り込んでゆきたいと思っている。
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