「父」 鬼藤千春

父   鬼藤千春

 父が他界してかれこれ十五、六年になる。九十二年の生涯だった。父の生年は一九〇四(明治三十七)年である。日露戦争開始の年に生を受けたのだ。その年の九月には、与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が『明星』に発表されている。
 太平洋戦争の終結をみる一九四五(昭和二十)年まで、父の生きた時代は、まさに戦争につぐ戦争の時代だった。いつどこへ赴いたかは聞いてないが、父はこの間三回に渉って徴兵されている。
 父は大工だった。戦前と戦後の十年くらいは、日本家屋の棟梁として働いていた。が、この期間はまともに大工の仕事があったようには思えない。私は一九四七(昭和二十二)年生まれだが、幼少年期と思春期は、わが家の経済は貧窮の底にあった。
 タンスやその他の家具、自転車なども差し押さえられた。主食はほとんど麦飯であった。若しくは芋粥だった。長兄は小、中学校と首席であったが、高校へ上げて貰うことはできなかった。風呂もなく私は首のあたりに垢をつけて、学校に通ったものである。友達からそれを指摘されて、よく囃し立てられたものだ。
 昭和三十年代になると、都会では鉄筋コンクリートづくりの建築物が、建てられるようになった。それで父は日本家屋の棟梁をやめて、型枠大工となって岡山市へと働きに出ていた。それで長兄も次兄も、父について働きに出るようになった。
 父は極端に寡黙な人であった。父が六十を超えて第一線を退くまで、ほとんど私は話したことがない。どんなに悪戯をしようが、友達と喧嘩をしようが、いつも鷹揚に構えていた。それはまったく母と対照的であった。父は婿養子であったが、寡黙なのはそれが原因ではなく、生来のものだった。
 父はこのうえなく、酒が好きだった。しかし、酒を飲んで酩酊するということは、ほとんどなかった。毎日二、三合の酒を、舐めるように飲むのだ。夕食の座卓の前に座っている時間は、たいてい二時間前後であった。飲んでも父は喋らなかった。ただ、頬をゆるめて、微笑を洩らしているだけだった。
「もう、いい加減にせにゃ。子どもの修学旅行へいく金がないというのに、何を考えとんじゃろうか」
 母が台所から口を出す。
「……」
 父はただ黙っているだけだ。
「酒ばっかり飲んで、少しは家計のことを考えてくれにゃ。税金を納めるために、畑を手放さにゃならんいうのに、もう酒飲みは嫌いじゃ」
 母の愚痴は果てしなく続くのだった。
「……」
 が、父も限界点があるようで、時折り座卓をひっくり返すことがあった。
「……」
 父は怒号を挙げるわけでもなく、平然と振る舞っていた。
 茶碗や皿や徳利が、座敷に乱れ飛んだ。母は狂ったような声を挙げて、闇に包まれた外へ出てゆくのだ。出て行ったら母はしばらく家に帰らなかった。消防団の捜索は一度や二度ではない。
 だが、父は慌てるようすは微塵もなく、悠然と酒を飲んでいた。私たち子どもは、いたたまれず席を立って、他の部屋へ逃げてゆくのだ。弟は押入れに潜り込んで、声を押し殺して泣いていた。貧しさと諍いと、出口のない暗闇の中に、わが家は佇んでいるようだった。
 しかしそんな父であったが、村人の噂によると、戦前父は警察に連れて行かれたことがあるとのことだ。東地区の漁師と寄合いを持って、「戦旗」やマルクスの研究会をしていたらしい。治安維持法違反ということだ。
 家にはそれらしき書籍は何もなかった。私は訊くこともできず、じっと見守っているだけだった。が、父は時折り仕事から帰ると、夜、酒も飲まずに出かけることがあった。酒以外、煙草も賭けごともしない父であったので、それはひとつの謎だった。
 私が高校で社研部に入って、部落問題やベトナム問題に首を突っ込むようになっても、父は何も言わなかった。ほとんど、無視をするような態度を崩さなかった。
「浩平、なにゅうしょんなら。社研部? そんなもんはやめとけ。社会に出ても、後ろ指をさされるだけじゃ。絶対に許さんけえのう」
 母は金切り声を挙げた。
「父ちゃんをみてみい。むかし、警察に引っ張られたんぞ。もう一度、そんなことをしたら、出ていって貰う約束なんじゃ」
 母の鋭い眼が光っていた。
 ある日、父が縁側に座っていた。私はそうっと近づいて父の横に座った。二人ともしばらく黙ったままだった。
 遠くを見るような眼をして、父はおもむろに言った。
「浩平、自分の、思うように、生きりゃ、ええんぞ」
 一字一句噛みしめるように、父は言った。
 浩平は、初めて父の声を聞いたように思った。その言葉は、浩平の胸を打たずにはおかなかった。
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コメント

いい話です
 いい話ですが、もう少し軽く書けませんか。どうも重苦しい雰囲気が漂うのです。特に重く書かねばならない内容とは思えませんが。

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