「大間からのレポートを読む」 鬼藤千春

三浦協子―大間からのレポート―を読む    鬼藤千春

 私は「民主文学」を、一ページ残さず読むようにしているが、このレポートは比較的早く読んだ。(二〇一三年三月号)
 大間――私が知っているのは、大間まぐろである。それは、まぐろの一本釣りがたびたびテレビで放映されたためである。私はいま生まれ育った、故郷の漁村に住んでいるので、漁業には興味があるのだ。私は農耕型よりも狩猟型(この場合漁業)の人間だ。それは生まれ育った気候風土が、私をそういう風に育てた。
 わが村も、水島臨海工業地帯が建設されるようになったとき、財界・大企業が補償金を支給して、漁民を黙らしたのだ。廃液の垂れ流しによって、漁場は一時死滅情況に陥った。いくらか元に戻ってきているが、衰退傾向は続いている。財界・大企業が何か為そうとするとき、補償金という名の金で地元民の声を封じるのだ。
 いま私は、日本地図を開いて「大間」を捜している。が、捜すほどのこともなかった。そこは下北半島の先端、本州最北端の町だった。ここに、電源開発大間原子力発電所が建設されようとしている。レポートによれば、二〇一二年十月一日に、建設工事が再開された。ウィキペディアによれば、二〇一五年に稼動予定とある。
 レポートはこう記している。「大間原発の工事を続けるのかどうかが、未来永劫この国が原発に依存するエネルギー政策を選択するということにNO! を言えるかどうかの分かれ道だ」
 まさにその通りである。「きれいな空気ときれいな水ときれいな海があれば、人間はみな平和に暮らしていける」と、熊谷あさ子さんは語っている。これはあさ子さんの実感であるとともに、漁村に住む私の痛切な実感でもある。
 このレポートのテーマを著者はどこにおいているか。それは、文字通り「下北と核・辺地差別」である。著者はここに問題意識をもち、焦点を当てて考察しているのだ。
「辺地の自治体は、真っ当にはやっていけないのである。人口六千人の町民税だけで、都市と同じ程度の住民サービスの維持ができるわけがない」
「実際の原発・核燃マネーは、多く、病院の維持や消防車の購入、保育士や看護師の人件費、アワビの育苗等に充てられて市民生活のために使われている」
「政府は辺地に配慮しない。税金の再配分を政治がやらなければ、辺地の生活なんて立ちゆかないに決まっているのである」
 外部の人から見れば、豪華な庁舎や不相応なホールを作ったりして、いいことをしているな、と思わされている傾向がある。だが、決してそうではないことを、著者は鋭く指摘している。
 そして、このレポートで眼を見張るのは、地元住民、とりわけ漁民への懐柔策である。「昆布の集荷、五十キロ離れたむつ総合病院への送迎、結婚式のビデオ撮影、全国の原発への(良いところしか見せない)視察旅行等で、至れり尽くせり」なのだ。この記述はとてもリアルである。こうして彼らは、恥も外聞もなく、みずからの目的のために、醜い工作を弄するのだ。
 このレポートを読んで、私は原発開発をめぐる動向等に、眼を開かされたような思いでいる。この著者の「我らは主権者」も読んでいるが、優れたものだった。ますますの活躍を期待するとともに、また「深夜の果て」のような創作を読んでみたい、という思いに駆られている。
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コメント

同感です
 三浦さんのルポにはぼくも感銘を受けました。簡明にして的確、見るべきものを見、聴くべきことを聴き、そして言うべきことを言っている。非常に優れたルポだと思います。
 地方交付税がいま標的の一つになってますよね。地方と都市との対立の根は深く複雑です。都市もまた、いま(見えるところの繁栄とは裏腹に、見えないところでは)おそらく地方以上に疲弊しているでしょうから。

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