「雨」 笹本敦史

雨  笹本敦史

 コンビナートは灰色の雨に覆われていた。煙突から空の中ほどに吐き出される煙は雲が描くグラデーションに溶けている。
 夜勤を終えた一団が通用門から出てくる。せめて晴れていてくれれば、生体リズムを侵食するような労働からの開放感を得ることができるかも知れない。しかしもう何日も雨が降り続いている。駐車場までのわずかな距離だが、傘をさしていても霧のような雨が体にまとわりつき、服が重く湿ってくる。車に乗りこめば、空調が湿気を払ってくれるだろう。そんな期待が足を急かせる。
「兄ちゃん。これからデートか?」
 太田のオヤジが後から声を掛けてきた。三十過ぎて「兄ちゃん」でもねえだろ、と亮一は思うが、もう六十に近いオヤジからすればそんなものなのかも知れない。そう言えば、オヤジには亮一と同い年の息子がいるらしい。息子は仕事もせずにブラブラしている。だからオレはいつまでも働かんとしょうがない。オヤジはそう言っていた。
「いや、帰って寝ます。疲れたんで」
「何を言ってやがる。オレがお前ぐらいの頃は夜勤明けでもぶっ倒れるまで遊んだもんだ」
 実は彼女に振られたんです。そう言えばオヤジは同情してくれるだろうか。顔にも態度にも表さないけれど、実はとても落ち込んでいる。オレの心は今日のこの天気みたいなんだ。
 車のエンジン音が近づいて来る。かなり飛ばしている音だ。構内は二十キロ制限で、会社が抜き打ちで速度取締りを行なっている。つかまれば訓告では済まない。ねちっこい責任追及の末、二十キロ以上オーバーしていれば軽くて減給、下手をすれば退職勧奨が待っている。それでも時々首を賭けたギャンブルに挑むやつがいる。またそんなやつが現れたのだろう。
「兄ちゃん、逃げろ」
 オヤジが叫びながら亮一の腕を取った。傘が手から落ち、地面で跳ねる。振り向くと黒いセドリックが何人もの人を跳ね飛ばしながら猛烈なスピードで走っていた。事故だ。運転ミスか車の不具合が原因で起きた事故だ。頭の一部がそう思い込もうとしている。
「早くしろ。こっちだ」
 オヤジに腕を引っ張られているうちにようやく事態を飲み込んだ。慌てて全速力で走り始めるとオヤジはようやく手を離し並んで走る。
 セドリックが迫ってきているのがわかる。エンジン音に加えてタイヤが路面を踏みつける音までもがしだいに大きく聞こえてくる。
「兄ちゃん左へ行け」
 オヤジは突然右に曲がった。その意図はすぐにわかった。二手に分かれればどちらかが助かる。しかも左手には逃げ込むことができそうな倉庫が並んでいる。セドリックがオヤジの走る方向に曲がったのがわかる。亮一は倉庫の前で足を緩め、振り返る。セドリックがオヤジに迫っていた。
「やめろー」
 亮一が叫んだ瞬間、セドリックが弾けとんだ。大型トラックが前方から突っ込んだのだった。セドリックは激しくスピンして止まった。
 亮一はボンネットが潰れたセドリックを横目にオヤジの方へ走った。大型トラックは巨大な肉食動物のように低い唸り声を響かせている。
 オヤジは膝に手をついて、肩で息をしていた。
「オヤジさん」
 亮一が走り寄ると、オヤジは、大丈夫だというように小さく右手を上げた。
 セドリックの方から怒号が響いた。亮一が目を向けると、数人の男が取り囲んでいた。一人が運転席のドアをこじ開けた。ドアが開いて小柄な男が引きずり出された。地面に転がされた男の頭を一人が蹴り上げた。仰向けに倒れた男の横腹を数人が次々に蹴った。
「あんなことしたら死にますよ」
 亮一がオヤジに言った。
「死ぬかも知れんな」
 オヤジが諦めたように応えた。まだ息が荒い。
「どうして、こんなことが……」
 亮一はそう言ったが、自分が何を問うているのかわからなかった。
「雨のせいだろう」
 オヤジが言った。それが正しいような気がして、亮一は頷いた。
 雨は風景を灰色に染め続けていた。
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コメント

うまい
 笹本さんはやはりうまい。出来事しか書いてないのが不満だが、2000字というのは情景をいかに違和感なく目に浮かぶように読者に届けるかというところに的を絞るしかないのだろうと思う。もちろんマツダの事件を心に浮かべて読むのでわかるというところもあります。
 ただ、違和感といえば「通用門」です。企業の門と勘違いします。でもこれはまだ企業の構内ですよね。一つの企業内に工場はたくさんあって、それぞれ「通用口」はありますが、それはやはり「口」ではないか。「門」というと企業からの出入り口という感じになります。
 小説だから、どこのコンビナートでもいいわけですが、参考までに水島の例をみると、いわゆるコンビナート企業はみな構内に駐車場を持っていますが、水島の中心街に向かい合う三菱は構外に駐車場を作りました。戦前からの企業なので敷地に余裕がないのです。構内も駐車場も三菱以外の車は入れないので、派遣の諸君は自転車で通っています。
 これは構内に駐車場のある企業のようですね。しかも「通用門」が複数にはなっていないので、かなり小さな企業かなという感じがします。(それにしてはスピードを出せる道路があるというのが奇妙だが)。それがあるので、よけい「門」を工場からの出口ではなく、企業からの出口として読んでしまい、途中で混乱するのです。
「雨のせい」というセリフが気に入りました。「太陽のせいで引金を引いた」というムルソーのセリフを思わせます。
確かに通用口です。
灰色の雨に覆われるコンビナートを見ていて妄想した物語ですが、何しろコンビナートで働いたことがないので、ディテールにはまったく自信がありません。コンビナートの見取り図なんてWEBには公開されてないですし(セキュリティーの問題でしょうか)。
というわけで、通用口の間違いです。
今の世相を切り取った掌編
夜勤で疲れきっている亮一、職についていないオヤジさんの息子、訳も分からずセドリックで暴走してくる小柄な男が登場しているように、今の世相を切り取った掌編ですね。
 行く先の見えない中、雨が何日も降り続く情景と重なって生き方を考えさせられます。破滅の選択もあります。でも、作者は、それは避けなければならないと、静かに訴えています。
 ただ、欲をいえば、亮一が失恋をしたことはどうでもいいこと、掌編だからです、亮一の寝食や家族のことに触れた方がよかったと思いました。
櫂さん コメントありがとうございました。
ほめていただき恐縮です。
30歳過ぎの独身男子にとっては恋愛は何より重要なことなのではと思うのですが、確かにこの掌編の中では無駄な部分かも知れません。

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