「民主文学13年3月号」 石崎徹

「民主文学13年3月号」 石崎徹

たなかもとじ「少年」
 佳い作品である。だが、そう感じるのは終わりまで読んでからである。少年がどこからか、いきなり出現する場面で、あれ?とは思うが、まさか「民主文学」の作家がそんな技巧は凝らすまいという思いこみから、少年の語る美談への違和感が、ついてまわるのだ。
 そのあと少年の死を暗示する二箇所(15ページ上段末行、21ページ上段6行目)で、さらに、あれ? あれ?と思い、少年がふと消えてしまうところまできて、これはひょっとすると、と思いはじめる。最後に(結末はあえて書かないが)どんでん返しが待っている。
 死は常に理不尽だが、親にとって子の死ほど納得できないものはないであろう。なんとかして子の死を受け入れたいという思いにあふれた、痛ましい作品である。
 遺骨、遺体と対面する二度の場面の圧倒的なリアリティ(丹念な取材と文章力なくては書けなかっただろう)に対して、甘すぎるかに見えた少年の物語が、見事にはまりこむ。その非現実感は計算されたものだったのである。
 惜しむらくは、人物に個性が不足している。でもこの長さでは無理だったかもしれない。

橘あおい「スタートライン」
 ぼく自身が書いてきたこと、書こうとしていることへの反面教師のような気がしながら読んだ。病院現場には複雑な困難がある。作者はそれを書きたい。ぼくもぼく自身の現場を書きたい。でも、「どうせ読者にはわからないんだから、そんなに詳しく書かなくてもいい」と言われてしまう。だが、ぼくが書きたいのは「書かなくていい」と言われているほかならぬそのことなのだから、「書かなくていい」と言われれば書くことはなくなってしまう。ストーリーはある。ストーリーがないと読者がついてこれないから、一応ストーリーは作る。そのストーリーだってどうでもいいものではないが、ほんとうはそれよりも現場の複雑な困難さをそのまま受け取ってもらいたいのだ。そういう一生懸命さを感じつつ、伝わりきらないもどかしさを持って読んだ。
 困難な現場で生きていくためにはどこかで割り切る必要があるだろう。罪悪感をかかえつつ割り切る。小説的にはそういう主人公のほうが効果的だと思うが、割り切れないところにこの作家のよさがあるのかもしれない。

芝田敏之「種火」
 40年前の話だが、たいへん面白い小説である。文体が簡明で心地よくスピード感があって、軽快によどみなく読める。小説は面白ければよいとは思わないが、面白いものがひとつもなければ、「民主文学」は読者を失うだろう。随所で微笑が漏れた。読者を楽しませることは小説の役割のひとつであろうと信じる。
 試験の結果がどうなったのか知りたくなるが、それはどうでもよいのである。試験会場では多少の嘘はついても、最終的に「自分らしくありたい」と決意したことが心地よいのである。もっとも、失業時代の現代では通用しないかもしれないが。

工藤 威「閉室」
 平板で、リズムのない、筋も通らない文章が、現在も過去も区別なく、のっぺらぼうに続いていく、まことに読みづらい一作。何か意味があってこんな文体を使うのだろうか。
 ふだん誰も意識しないトイレ掃除の大変さが、なるほど、この文体から浮かび上がってくるようにも思える。平板さや、リズムのなさは、その作業の単調さを強調するためと取れなくもない。だが文章に筋が通ってないのは何のためなんだろう。意味があるようには思えないのだが。仕事のつらさを読者に味わわせようとしているのだろうか。
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コメント

拙作「種火」の批評ありがとうございます
このように受け取っていただければ至福でございます。この批評を励みに、これからも努力いたします。ありがとうございました。充実したホームページですね。また来ます。

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