「民主文学13年3月号」 鬼藤千春

希望は語られなければならない   鬼藤千春

 「民主文学」三月号の創作四編を読んだ。それらの作品に触れてみたい。

 たなかもとじ「少年」
 この作品は、「東日本大震災」を題材としている。津波で命を喪った息子への鎮魂歌である。おそらく取材と虚構で構築された作品に違いないが、まず綿密な描写に圧倒される。とくに、遺体安置所での息子の遺体の情況を克明に描いていて、その筆力には感心させられた。ここまで描き切るのは相当難しい。そして、重いのだ。しかし、少年の登場によって、その重さから救われる想いがする。
 この作品で、作者は「希望」を語ろうとする。それを少年に仮託しているのだ。この少年は幻影だ。編集後記で「手法的な挑戦がある」と記されているが、このことを指しているに違いない。息子の死はむごたらしく、哀しいけれど、少年の語る息子の生き方を知って、両親は初めてその死を受けとめられるようになるのだ。
 「ぼく、先生になりたかったんです。高山先生みたいな先生に」、これはこの作品の「希望」だ。だが、「希望」を描くということは、難しいことだ。この作者は、それでも慎ましく「希望」を語っているのだが、この少年の言葉は大地に根を下ろしていない。リアリティーがないのである。この作品が重い題材であるにも拘わらず、軽くなっているのは、そのためである。

 橘あおい「スタートライン」
 この作品の文章は流れるような文体である。したがって、一気に読める作品になっている。それはなぜか。それはこの作品のモチーフ、テーマが明確であるからに他ならない。文章、文体だけが独立して存在することはあり得ない。
 この作品は看護学校の女生徒の成長物語である。爽やかで清々しい作品で、好感がもてる。この小説の優れたところは、テーマに沿ってストーリーが収斂してゆくところだ。ムダ、ムラ、ムリというのは、ビジネス社会でよく使われる言葉だが、この作品にはそれがない。その構成力には眼を見張るものがある。
 だが、この作品はどこか教育実践記録のような趣があって、もうひとつ、読者を惹きつけてやまない、という風になっていない。「まりえ」に仮託して「希望」を語ろうとするのだが、その成長物語はいかにも軽いものになっている。「希望」を書くことの難しさがここにもある。

 芝田敏之「種火」
 この小説も「希望」を語っている。主人公は教員採用試験の一次試験にパスし、二次試験(面接)を受けた。二次試験の結果は二週間後である。それまでに「聞き合わせ」があったり、興信所の調査があったりするかも分からない、と友人から指摘される。そこで、主人公は共産党のポスターと共産党市会議員の後援会連絡所の看板を取り外す。しかし、五日が過ぎた時点で主人公はまた元に戻すのだ。
 ――これでいいのだ。どんなときでも自分らしくありたい。――と主人公は思うのだ。作者は、ここで主人公に仮託して「希望」を語ろうとしたのである。しかし、この物語の設定は妥当であっただろうか。果たして読者は、主人公のその行為に共感を寄せるだろうか。そこにムリがありはしないか。
 主人公と北川先生との交流、北川先生と主人公の教育に対する考え方は、読者を納得させ共感させるものがある。が、この小説の設定には疑問をいだかざるを得ない。優れた作品だが、設定を誤ったために惜しまれて仕方がない。果たして「希望」を語り得ているだろうか。

 工藤 威「閉室」
 この小説は私がもっとも好きな作品である。とくに、作者は「希望」を語ろうとしていないが、しかし、読者はこの作品世界に納得し共感を寄せることになるのだ。「希望」ではない「希望」を読者は受け取るのだ。
 まず、この作品は描写に優れている。細部まで丁寧に描き切っている。それに読者は感心させられる。主人公は、清掃会社の清掃員である。印刷工場のトイレの清掃を担当している。
 ある時、トイレの中に落書きが描かれていた。ドア一面に性行為のなまめかしい姿態が、太い赤のマジックで描かれていたのだ。男と女の生殖器は黒黒と生生しく描かれている。
 これを描いたのは、二十二歳の青年だった。
「あの大震災で東北の製紙会社も被害にあい、仕事が激減して退職勧告をさせられたらしいんだ、その腹いせだったらしい」、ここには、「希望」もなく閉塞感だけが描かれているように思える。
 が、――ヤロー、俺だって生身の人間だ! 人並に対応しろ!―― 性交の図と共に、この言葉が書きつけられていたのだ。ここに「希望」があるとは思えない。だが、この作品の奥底に作者の「希望」が隠されているのだ。だから、読者の共感を得るのだ。

 見てきたように、この四編は、「希望」を語ろうとしている。しかし、「希望」を語ることが如何に難しいことか、それを如実に物語っている。「希望」を書こうとすると、リアリティーを失う危険と隣り合わせなのだ。もろ刃の剣だ。それを充分認識して取り掛からなければならない。だが、「それでもなお、希望は語られなければならない」
 映画の例で恐縮だが、小津安二郎の「東京物語」、山田洋次の「東京家族」は、一方で子どもたちの疎外感を描いているが、一方で「希望」を切々と語って成功している。「胸を熱くせずして観られない」作品なのだ。我々はもっともっと、「希望」を語ることを研究してゆかなければならないだろう。時代と社会が閉塞感に包まれているからこそ、「希望」は語られなければならないのだ。
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コメント

感想
「少年」だけ読みました。力作だとは思ったのだが、これほどリアルな描写がどうして心に迫ってこないのかをよく考えてみなければ、と思っていたところでした。どうして不全感が残ったのか、鬼藤さんの解説を読んで納得しました。
先を越されました
 鬼藤さん、先を越されました。ぼくも感想を書くつもりでいましたが、実はまだ読めていないのです。だから読んで感想を書くまであなたの感想は読まないことにします。
拙作「種火」の批評ありがとうございます
厳しい現実の中でも「希望」を語ろうといつも考えています。この作品ではどうだったか。よく考えてみます。ありがとうございました。充実したホームページですね。また来ます。

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