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石崎 徹「柿の木のある窓辺で」(まがね58号)  植田与志雄

石崎 徹「柿の木のある窓辺で」(まがね58号)  植田与志雄

 詩など、普段は読むこともないのでこういうのを読んでもさっぱりわけが分からないんですが、「たぶん」と「もちろん」に興味を引かれました。
 ここに惹かれたのは技術者根性かもしれません。不確実と確実、両端が並んでいるところに興味が……。
 近くのものに、つまり生活に興味のない男、何を探しているのか、あるいは何かを探しているのかどうかもあやふやな男、だからすべてが「たぶん」なのだろう。
 女は近くのもの本位、つまり生活本位、愛するに足る生活があるのだろうけれど、生活なんだからあやふやさはなくて、生活に根を持つ愛なのだから「もちろん」というほど確かなものなのだろう。
 窓辺のテーブルでの食事、たわわな実をつけた柿の木、すべての好ましいものが手の届く近いところにある、山も空も近くにある。
 好ましいものが近くにあることを実感しているのは女なんだろう、男は女の視線を通してこれらを見て、好ましいものが近くにあることを女に寄り添うことで察しているのだろう。
 だから自分の感覚ではなく、女の実感に同意して、そうだねと言う。だから最後に先ず女が生活を愛していることが確認されて、次にそれに男が同意しつつも、やはり自分は何かを探し続けている、何を探しているのかもあやふやなまま……たぶん。
 男と女は異なる軌道を辿っているけれど、この詩のように一瞬だけ交わることがある。交わるけれど、それは一瞬でたがいに同化することはない。そこがいいんですよね!!
 最後にこのことを確認するために初めの順序を逆転させて二行が繰り返される。
 交わるけれど同化しない、のは自治会活動での人間観察からも感じるのです。
 ドミソは互いに自分の音は確かに持っていることで和音を形成する。各個が同化せずに自己を保つことでハーモニーが生まれる。
 同化を求めず交差を求める、交差の瞬間に何かが光る。
 民主主義は間違えると同化を求めるけれど、要注意。

 詩はどう解釈しても自由とのことなので、こんなこと考えたという報告です。
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