「民主文学(2010年10月~)感想」 石崎徹

「民主文学」感想  石崎徹

「民主文学」掲載作への感想は、インターネット上の各種ブログで散見するが、それのみを系統的に掲載するものは見当たらない。このページでそれをやってみたい。
 誌上での限られた評者の批評のみで終わらせるのではなく、一読者としての個人的感想を表明してみたいと思う。そこから議論が巻き起こってくれればうれしい。
 月ごとにやっていきたいと思うが、最初なので、いままで読んだなかで印象に残った作家を取り上げる。2010年の10月から読みはじめたので、それ以後と、および「現代短編小説選」掲載作とが対象となる。
 最初に断わっておくが、すでに記憶力が減退しているので、取り上げ方はかなり恣意的になる。恣意的、独断的で、読み間違い、記憶違いもあるだろう。そこはコメントで指摘をいただきたい。
 なお、いわゆる文章達者な私小説的小説は、読んだときはうまいなあと感銘を受けて読むが、時間が経ってみると意外と記憶に残っていない。今回そういうものは除いたので、あしからず。
 渥美二郎「世界は今日もラブ&ピース」(10年11月号)
 困難で、せわしない状況にありながら、あくまで明るくぶっとばしていく、そのエネルギーは爽快である。しかもこの作家は能天気なのではない。物事がよくわかっているのだ。ホームページで公開された「ステイケイション」も読んだ。民主文学の生みだした異才である。
 ただし、いつも同じ調子なので、ちょっと飽きてくるのも事実である。今後が注目される作家であろう。
 櫂悦子「二十一歳の朝」(13年1月号)
 去年12月号で拙作「盗難」を誉められて、ますます好きになったが、じつは「現代短編小説選」で「謝辞」を読んだ時から注目していた。そのあと「南東風が吹いた村」(12年8月号)はややピンとこなかったが、今回作は期待に応えている。
「謝辞」と今回作の構成は似ている。職場の労働実態、矛盾をはらんだ人間関係が抑制された筆致で淡々とつづられ、ラストに来て溜め込んだエネルギーを吐き出すようにしてどんでん返しを打つのである。そこには非常に複雑な心理模様があるのだが、作者はそれを一切説明しない。読者の想像力にゆだねる。 
 ここらが日本近代文学伝統の自然主義的私小説の、もったいぶった心理描写と鮮明に切れている。この作者は小説というものを心得ている。
 須藤みゆき「義父のかばん」(12年10月号)
「黒ネコちゃんの贈り物」(11年9月号)は、庄司薫の「赤頭巾ちゃん」シリーズを髣髴とさせる筆致で、しかも下手な物真似には終わらず、作者のものとしてこなれていた。
 面白い作家が生まれたと思っていたら、「新月前夜」(12年2月号)はちょっとがっかりさせた。ミステリー仕立ての面白いアイディアなのだが、設定に無理があった。
 ところが今回作で、またまたびっくりさせられた。なんとも濃密な純文学仕立ての文体で、奇妙に味わい深い。
 これはとてつもなく器用な作家である。書くたびに文体が違う。それが作家として得か損かは分からないが、注目すべき作家である。
 細野ひとふみ「パニック」(11年3月号)「ドリフト!」(12年10月号)
 この人はまだ若いが農村労働を描いて見事な作品世界を作りだしている。
 大浦ふみ子「佐世保へ」(11年8月号)
 この作品はジッドの「狭き門」を連想させた。お互い思いを抱きながらお互いの誤解から食い違う男女、しかも、作者は誤解だと書かないのに読者はなんとなく分かって、はらはらさせられる。心憎い作品である。
 仙洞田一彦「チャラにしてくれ」(12年1月号)「昇竜」(13年1月号)
 風見梢太郎「森林汚染」(13年1月号)
 この三作品は、現代の不安定労働青年を書こうとして苦闘している。脇役を見事に書きながら、肝心の主人公の造形に失敗している。二人が書いているのはまだ「不安定労働青年」というレッテルであって、彼らも個性なのだということを忘れている。
 松本喜久夫「オーストリア王の帽子」(12年3月号)
 いま、信念を曲げない人間は教員にはなれないという現実を、ずばりと書いている。衝撃的である。
 笹本敦史「瓦解」(11年7月号)
 斬新な手法で、ロストジェネレーションの、追いつめられていく心理に迫っている。あっと言わせる結末に導いていく伏線の見事さ。もっと注目してほしい作品である。
             (石崎 徹
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