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渥美二郎「空の巣の日々」(「民主文学」15年3月号)

 ひさしぶりの渥美二郎である。そしてもとのままのジローワールドである。何年か空いたので、つぶれそうだった両親の料理屋はもうつぶれただろう、死にそうだったばあさんはもう死んだだろうと思ったら、どっこい、店もばあさんもまだ生きている。心身障害の兄も健在、12年前に離婚した元妻ともそのままである。
 ただ娘のモモは大学へ入って横浜へ行ってしまった。去られた家を世間では「空の巣」と言うらしく、寂しいだろうと同情されるが、本人はちっとも寂しくない。勤め先の高校と、自分の住まいと、両親たちの家とを巡り歩く生活に変化はない。ただ、一人で好きなことをできる時間は増えた。
 モモはいないが、それ以外はいままでと変わらぬ日常を変わらず描くだけの小説である。特別なことは何もない。にもかかわらず読まされる。それは文体の故なのだ。
 たいへんな日常を軽く書いてみせる文体に、かつて拒否反応を示した読者がいたが、今回の文体はそういう読者も受け入れやすいのではないか。独特のジロー文体が消えたわけではないが、日本文学を読み慣れてきた人たちにいくぶん妥協したようなところが見える。そしてそれがぼくにも成熟して見える。この作家に注目したのはその独特の文体のせいだが、同じ文体が続けば飽きも来る。成熟していくのが必然なのだろう。
 変わらないのは、作者と描かれていることとの間の距離感である。そこにほどよい空気の質量感があり、それが我々を共鳴させる。この作者は日常を描きながらそれ以上のものを描いている。それはつまりこの距離感なのだ。
 そしてラストは多少読者サービス。網膜剥離の手術をした元妻に、必要と思われる最小限の手助けをした主人公と元妻とは、おたがい相変わらず辛辣な言葉を投げあいながらも、最後は静かに手をとりあい、微妙な、いい空気が流れる。なかなか泣かせる終わりかただ。
 一点だけ、ちょっと読みとれなかった。ぼくの誤読かも知れないが、この手術の日は土曜日と思われるのに、「あしたは学校でしょ」という元妻のセリフが出てくる。あしたは日曜日ではないのか。

(「石崎徹の小説」から転載)
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