「雨」 石崎徹

雨   石崎徹

「一切がはっきりしたのだ」
 後ろ手に喫茶店のドアを閉めながら、智子はつぶやいてみる。
 なるほど、いつのまにか雨が降り出していて、傘がないから軒下から出られないということが、はっきりした。うかつだった。奥のテーブルにいたので、気づかなかったのだ。でも、軒下沿いに歩いていって、地下通路に逃げ込めばいい。電車に乗ってしまえば何とかなる。それにしても、もうちょっと様子を見よう。少し強すぎる。午さがり、空は明るいし、そんなにしつこい雨雲とも思えない。
 もうひとつ決定的にはっきりしてしまったように思えることについては、智子は考えたくなかった。
 梅雨の中休みという天気予報を信じたのもうかつだったかもしれないが、傘がいらないという可能性に賭けたのは、天気予報を信じたからだけじゃない。でもそのことについてもいまは考えたくなかった。
「いいさ、おかげでモームを読み終えたもん」とつぶやいてみる。
 明日の授業は何とか乗り切れるだろう。一時間に十ページもぶっとばす授業に、いちいち辞書を引いて予習していたのではとても追いつかない。翻訳本に頼るようになってから、ずいぶん楽になった。ただ、南洋の連日の豪雨の、うっとうしい情景がだらだらと続いていくこの本は、翻訳でさえ、この数日読みづらかったのだ。
 だが、今日、やはり気の進まぬままに奥のテーブルで途中から読みはじめてみると、いつか次第にひきこまれていき、やがて没頭し、すべてをいっとき忘れた。
「そうだ、忘れたままでいよう」と智子はつぶやく。それからまた、「一切がはっきりしたのだ」とつぶやき反してみる。今度はモームだけを念頭において……
 それはいま読み終えた物語の最後の文章なのだが、言葉に反して一切は少しもはっきりしていない。牧師と娼婦との間に一晩のうちになにがあったのか、モームは語ろうとせずに、ただ、一切がはっきりした、と書いて筆を置くのだ。牧師が欲望に負けたのか。そう取るのが自然のように思われる。でも、心から悔い改めたふりをしていた娼婦がどたんばになって本性をさらけ出し、からかわれていたことに気づいた牧師が自己嫌悪と絶望で自殺したのだと取ることだって出来るのだ。あれだけ自らの心身を痛めつけてまで女の更生に打ち込み、そのことに気ちがいじみたほどの使命感を燃やしていた彼なら、そういうことだってありうるだろう。だが、どちらがモームの意図だったのかわからない。
 智子は軒下にたたずんで雨をよけながら、しばらく考えた。
 それからいきなり、次の商店の軒めざして駆け出した。
「わかるもんか。きっとわかんないのが人生なんだ。モームはそれを言いたかったのかもしれない」
 洋品店の軒下に駆け込みながら智子はつぶやく。雨は一層激しくなったようだ。空が暗さを増している。智子はバッグからハンカチを取り出して手と顔とブラウスをぬぐった。
「まいったな。タクシーを捕まえるには距離が短すぎるよ」
 それからだんだん腹が立ってきた。よく考えると、あのいかにも物わかりのよさそうな医者に腹が立ってくるのだ。四十歳、常に理性的で、皮肉屋で、でも思いやりがあって、親切で、人を傷つけるような言動をなるべく控え(ときどき皮肉を言うが)、中庸を守り、頼まれたことはやってやるが、それ以上には踏み込もうとしない、この人物と比べると、あの気ちがい牧師と自堕落娼婦の方がよっぽど人間的ではないか。
 その医者の顔がだんだん若返り、頭がふさふさし、ハンサムになる。智子は頭をふってその顔を振り払った。
 もう空は真っ暗で、雨は南洋の雨のように叩きつけて来る。軒下では間に合わず、ブラウスもスカートもずぶ濡れだ。いきなり稲妻が光り、直後に雷鳴が轟いた。
「そうなんだ、あの医者なんだ、善人づらしたろくでなしなんだ」
 陰鬱な怒りが身内に充満してくる。すでに全身が濡れ、髪の毛からしずくが滴っていた。
 ふと顔をあげた。約束に大幅に遅れた青年は、それでもにこやかに笑って、智子に傘をさしかけていた。
 智子は激しく悪態をつきながらも、その表情はいましがたとはまったく違っていた。
 雨は小降りになっていた。
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