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小山田浩子「穴」 石崎徹(「石崎徹の小説」から転載)

小山田浩子「穴」 石崎徹

 遅まきながら、芥川賞受賞作である。前回はたいへん読みにくかったが、今回は読みやすく面白く読んだ。
 文学的な濃い味わいを感じさせてくれる文章ではない。素っ気ないと言えるほど簡潔な日常語である。それでも読みはじめたら止まらないのは、内容の面白さもさることながら、文章が見かけ以上に練られているからだろう。
 内容は、共働きの非正規労働者からひょんなことで専業主婦になった若い女性の妄想記である。
 妄想の内容自体は誰でも思いつきそうなことでことさらのオリジナリティがあるわけではない。だが優れているのはそこに現実感を持たせる描写の緻密さである。眼の前にあるものを描写するさえ難しいのに、この作者はどこにもないものを白紙の上に筆一本で作りだす。これはけっこう忍耐力を要する仕事である。
 この描写することへの努力が、そこらにある携帯小説と文学とを峻別する。携帯小説は描写の努力を惜しんでしまうのだ。
 描写が的確なので、妄想部分に違和感がない。とってつけたようなところがなく、現実生活の部分と見事に調和している。
「私」の口述というスタイルだが、私小説的スタイルとは全然違う。会話が多いが、「私」はほとんど受け応えするだけで、しゃべるのは会話相手である。そしてすべてのセリフが一応カギ括弧に入ってはいるが、行あけされない。それは地の文に溶け込み、「私」の口述の一部と化す。
 最初にしゃべるのは、「私」がいままで非正規として働き、いま退職しようとしている職場の同僚である。同じく非正規であるこの独身女性は、その身分に伴う愚痴を長々と語る。一見この愚痴はその後に展開されることがらと関係ないように見える。そこに語られるのは非正規についての既知の事実に過ぎないが、この女性が当事者らしい切実感をもって微細に語るとき、それはやはり読者に「無視するな」と訴えてくる。
 作品はこの後まったく別のテーマに移っていき、このテーマ自体は放置されるが、それはただ並置されたのではない。人生を複合的にとらえるためには欠くことのできない一部なのだ。
 まだ読んでいないが「工場」という作品でデビューしたこの作者にはそういうまなざしがあるにちがいない。
 そこから退職、引越しとなり、物語の舞台に移動する。夫が転勤となり、そこは夫の実家に近い。実家の隣に実家の持ち家があり、いまは空き家である。そこに住むなら家賃は要らないという。後になって「私」は述懐する。「私」の非正規としての収入は、結局狭苦しいアパートの家賃と、共働きに伴う出費とで相殺されてしまうだけの額に過ぎなかったのだ、と。ここでは労働への懐疑が持ち出される。
 そういうわけで生活に困らないのと、なにぶん田舎のことで、車がなければ移動手段がない。一台しかない車は(駐車スペースも一台分しかない)、夫が通勤に使う。ので、仕事が見つからない。そもそも働く動機を見いだせないので本気で探す気にもなれない。そこで専業主婦の誕生である。
 これは作者の仕掛けである。現代社会は一昔前とは違う。専業主婦という存在を生みだすためにはこれだけの仕掛けが必要なのだ。
 実家の義父はまだ働いていて、休日もゴルフ三昧で家にいない。まったく存在感がない。義母もまだ勤めている。どういう仕事なのかはわからない。その上に義父の実父がいる。すでに耄碌している。したがってここでの主役は義母である。
 引越しのその日から、「私」は「私」が「嫁」という存在になったことにいやおうなく気付かされる。後になって義祖父の死に際し、見も知らぬ村のお年寄りが大勢集まってくる場面まで、日本社会の伝統的共同体という「私」にとってどこか居心地の悪いものに突如つつまれてしまったことの感触がここで物語のムードを決定する。しかも義母は働いており、「私」は無職である。夫は日付の変わるころしか帰ってこない。「私」にはその存在を正当化してくれるものがない。
 二カ月があっという間に過ぎ去り、その間何をしたのかさっぱり分からない。生活がリズムを失い、それとともに意味を失ったのだ。労働が人間にとって持つ意味が暗示される。
 こうして専業主婦は妄想の世界に落ちていく。
 ここまでの会話の主体は義母と隣家の主婦である。この隣家の主婦は初めて穴に落ちた「私」を救い出してくれる。だが、不可解な人物である。夫は帰宅が遅いし、食事中もケイタイに何かを打ち込み続けるような人間で、妻を決して無視はしないが、積極的にかかわってもこない。これも存在感の薄い人物だ。
 そしているはずのなかった義兄が現れる。ここからの主役は義兄である。18歳から20年間ひきこもっていた義兄(本当はすでにいないのかもしれない)は、このあと一人でしゃべりまくる。彼によると家族制度というのは馬鹿げた制度である。ただ自分の遺伝子を伝えるためだけに人が一生懸命働かねばならないということが彼には理解できない。そのくせ、弟(「私」の夫)が結婚したということにほっとしている。やはり自分に関係する遺伝子を残したいのかもしれない。彼にも矛盾がある。
 そしてラスト、義祖父は死に、それとともに彼とよく似ていた義兄もその存在を消してしまう。彼が寝起きしていたという裏の物置小屋には人が出入りしたような形跡がない。義兄にまつわりついていた降って湧いたような子供たちはいまではどこにもいない。もともと高齢化の進むこの土地に子供なんていないのだ。穴があったはずの場所のひとつはコンクリートで覆われている。
 そして「私」は村のコンビニに就職し、買い求めた自転車の荷台にはその制服が入っている。
 そして「私」の顔は、いまや義母の顔にそっくりである。その義母の顔は似るはずのない義祖母の顔にそっくりだったのだ。
 こうして人は生きていく。不条理な社会、そもそも存在自体が不条理な人間、共同体、家族、遺伝子、労働、あらゆるものへの違和感を払拭できないままに、だが、人は生きていく。
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