「鐘」 鬼藤千春

鐘       鬼藤千春

 長い夜だった。源さんのことが頭をよぎって、圭介はしばしば目覚めた。
「源さんのとこへ行くのはやめとけよ。愛想を尽かして女房は逃げたんじゃから――。もうどうしようもねえ男じゃ」
 九条の会の仲間が圭介にいった。圭介は源さんの生きざまを仲間から何回も聞いていた。それで、いつも気にかかっていたのだ。
 ――源さんは、いま八十二歳である。はたちの時、レッドパージに遭ったのだ。彼は国鉄の車掌をしながら、労働組合の青年部長をしていた。一九五〇年の秋、終業の間際だった。いきなり助役に駅の応接室に呼び出された。助役は彼を認めると、おもむろにソファから立ち上がって、口を歪めて話したのだ。
「君は職務の適格性を欠くので、明日から出勤しなくてよろしい」
 助役が源さんを凝視していった。
 それだけ告げると、助役はさっさと駅長室へ引き上げていった。源さんは助役のあとを追いながら叫んだ。――なぜだ、なぜなんだ!。助役は駅長室へ駆け込んで、ドアのロックをしてしまった。
 その日助役に呼ばれたのは三人だった。源さんたちは翌朝、労働組合の仲間の支援をえて抗議に行ったが、数人の警官が駅長室の前に立ちはだかっていた。
 ――助役を出せ! 口々に叫んだが、警官に威嚇されて引き下がざるを得なかった。結局、源さんは国鉄を解雇され、独身寮も追い出されたのだった。
 九月だというのに、残暑は厳しかった。圭介はパンとコーヒーの簡単な朝食を摂りながら、源さんを訪ねてみよう、と急に思いたった。
 圭介は家を出て、源さんの、その後について想いを馳せていた。彼は独身寮を追い出された後、職場を転々として挙句の果てに、半農半漁のこの村へ帰ってきた。そして、親戚の漁船に乗せて貰って、六十五になるまで魚を追いかけてきたのだ。
 圭介はいささか緊張して、玄関の前に立った。
「おはようございます」
 中からは、何も聞こえてこなかった。異様な静寂が立ち込めていた。
「ごめん下さい!」
 圭介は心持高く強い声で呼びかけた。
「なんじゃ、やかましいのう」
 源さんの鋭い声が飛んできた。
 圭介はゆっくり引き戸を引いた。源さんは座卓の脇に一升瓶を据えて、湯呑み茶碗で酒を飲んでいた。部屋の中は、新聞や雑誌、カップラーメンやビールの空缶が、足の踏み場もないほどに散らかっていた。
「わりゃ、誰なら」
 赤く濁った眼が鋭く睨んだ。
「わたしは、片桐というもんです。ちょっとお願いに上がりました」
「わしゃ、忙しいんじゃ、なんの用なら」
 源さんは、湯呑みを傾けて一気に酒を飲み干した。
「あのう、九条の会で、平和の鐘を打つお知らせに来たんです」
「平和? 九条の会? なんならそりゃ、わしにゃ、関係ねえ」
「九月九日九時九分に、円城院の寺の鐘を打つんです。ぜひお越し下さい」
 源さんに、チラシを渡しながら言った。
「鐘? そんなものを打って、平和になるんか。あめえのう。GHQじゃ」
「GHQ? なんですか?」
 圭介は源さんの顔を覗き込んだ。
「GHQにやられたんじゃ。わしの人生はそれで狂ってしもうたんじゃ」
 源さんは、遠くを見るような眼をして言った。
「源次郎さん、GHQのパージ、そして朝鮮戦争でしたね」
「そうじゃ。そのためにわしらは……」
 源さんは、チラシを拾い上げてじっと見ていた。
「じゃが、わしのような飲んだくれのとこへようきたのう」
 源さんの瞳にいくらか光が射してきた。
「源次郎さん、パージも戦争のためで……。いま、九条が危ないんです。自衛隊が他国へ出てゆけるようにしようという、もくろみが……」
「そうか、九条がのう。なんにも知らなんだのう。まあ、あてにはならんが、行けるようなら円城院へ覗こうかのう」
 源さんは、一升瓶のキャップをきつく締め付けながら言った。
 行けたら行くというのは、たいてい断り文句なのだ。圭介は半信半疑で帰路についた。
 九月九日がやってきた。圭介はこの行事に参加するのは初めてのことだった。彼は今春、市役所を定年になって故郷へ帰って来たばかりなのだ。
 鐘楼は円城院の西の丘にある。七、八人の人が鐘楼の前に集まっていた。談笑している時、ふと圭介が下に眼をやると、石階段を上ってくる人に気づいた。左手で手すりを掴み、右手に杖を持っていた。
 源さんだった。圭介は迎えに行って、左手を支えながら鐘楼まで案内した。まもなく九時九分である。代表者がその時間に合わせて鐘をひとつ打った。一人ひとりその後に続いた。最後に源さんが残った。彼はしばし躊躇していたが、合掌しておもむろに綱を手にし、二、三回撞木を振って、釣鐘を勢いよく打ち鳴らした。
 鐘は青く澄んだ秋空に鳴り響いた。
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コメント

鬼藤さんらしい
 鬼藤さんらしい作品です。レッドパージがそれぞれの部署で具体的にどういう形でなされたのか、全く知らないのですが、これだけではちょっとリアリティを感じにくい。直接書くのでなく、伝聞の形にしたほうがかえってよかったのじゃないですか。文章は明快で経過がよくわかります。ただ経過だけ読まされているようで、もうひとつ引きずり込まれる感じになりません。社会性を持っていることは大いに評価します。

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