物語と思想(揺れる海) 石崎徹

物語と思想(揺れる海) 石崎徹

「民主文学」9月号の新船海三郎による文芸時評は、大江健三郎と多和田葉子の最新作に触れたのち、8月号の3作品を評している。能島龍三、草薙秀一のそれぞれの作品についても多少読み方の差異を感じないではなかったが、いま両作品を読み直す余裕がないので、最も強く違和感を持った青木陽子「揺れる海」評についてのみ若干感じたことを述べる。
 今回新船氏の批評に抱いた違和感を確認したいと思って、「揺れる海」と、新船氏が短く触れている「紫陽花」(12年2月号)とを読み返してみた。
 結論から言うと違和感は解消されなかった。
 新船海三郎は、3.11後、民主文学の中では筆者が特に注目している評論家である。
 それは氏が、今回の原発事故について、推進派の責任を問うだけではなく、それを阻止し得なかった「我々」のがわについても問うてみようという姿勢を顕著に示したからだ。
 それは国会において既存の原発の危険性を鋭く追及し、各地の原発建設に反対運動を展開してきたにもかかわらず、核兵器と原発との間になお一線を引いて、将来の原子力の平和利用を否定しきれないとも取れる曖昧さを残していた共産党と、その影響を多少なり受けていた「我々」について、その精神構造にまでさかのぼって考えてみようとするものに思えた。
 そこまで引き延ばして受け取ったのは新船氏の意図から外れていたかもしれないが、ともあれ、「我々」の問題として考えようとする姿勢は一貫している。
 それは9月号の文芸時評でも以下のように表現される。
〈水上勉が……(原発を)受け入れていく住民の心底にある……そういう価値観から抜け出すことを呼びかけたのは三十年近く前のことであった〉
〈伊丹万作が今次の戦争を「騙されていた」という人は、次もまた騙されるにちがいない、もっと賢明になろうと説いたのは……敗戦翌年であった〉
 つまり押しつけて来る側、騙しに来る側を批判するだけでは足らない、それを受け入れてしまう、あるいは騙されてしまう「我々」の側の問題をもっと考えてみようとするのだ。
 それは以下のようにも表現される。
〈国策を操る悪い「奴ら」がいて、庶民はいつも騙され、人生を翻弄されるが、それでも健気に一生懸命生きている……(とするのは)、一つの(作られた)構図である〉
 だが話がここまで行くと、疑念が生じてこざるを得ない。上記は〈一つの作られた構図〉というよりも現実そのものなのではないか。
 新船氏はこれに続いて以下のように述べる。
〈しかし、3.11大震災と福島原発事故に直面して、その「一生懸命」が何を結果したのかを知ったこの国の多くの人々は、自分たちのその生き方を深く自省したのではなかったろうか〉
 それは事実そのとおりにちがいない。フクシマはすべての日本人の心に深い衝撃を与え、その考え方に大なり小なり影響を及ぼした。
 だが、新船氏が〈構図〉と呼んだ現実は、それで解消されてしまうような単純なものではないだろう。
 相変わらず庶民は騙され、翻弄され、それでも健気に生きていく。
 新船氏も一応はそれを認めている。それが作中人物の感慨であるなら構わないという意味のことを述べたのち、〈気にかかるのは、作者もこれに同意していることである〉と注を加えている。
 新船氏の評中、最も理解に苦しむところがここなのだ。
 ぼくはひとりの読者として、「紫陽花」と「揺れる海」とを二度ずつ読んだが、新船氏のような読み方は決してできなかった。
 両作品で描かれたのは庶民であり、それでも賢明な庶民なので、二度騙されたことを〈深く自省〉している。だが、一般的に言えば、庶民はこれからも百度でも千度でも騙されていくだろう。それが現実である。だからと言って「彼ら」を軽蔑することはできない。「彼ら」は〈健気に一生懸命〉生きている。あるいはそれはむしろ「我々」かも知れない。
 もし、我々は騙されたのだから悪くないのだ、悪いのは「奴ら」だ、という態度を我々がとるなら、我々は何度でも騙されることになるだろう。だが、青木陽子が両作品で描いたのは、騙されたことを〈深く自省〉した庶民なのである。
 騙されたのだから反省しなくてよいと思うのと、騙されたことを反省するのとでは180度違ってくる。そこを見ていけば、青木陽子の立っている地点は新船海三郎のそれとそんなには違わないはずだ。
 ただおそらく新船氏が不満に思うのは、騙されたことに対して、「なぜ騙されたのか、どこに問題があったのか、どうすればそれを避けられるのか」といういわば自己の知の確立という点に関する内省が不足しているというところなのだろう。
 だがそれはまた別のテーマである。ここに描いたのは知識人の物語ではない。庶民の物語なのだ。そしてそれは充分に描かれたとぼくは思う。
 物語は物語である。もちろんそこには作者の思想が反映されるが、それは物語のなかに含意されるものであって、直接的に表明されるわけではない。
 ここでは庶民の物語を書くことが作者の意図であり、関心であった。それが新船氏自身の関心事(テーマ)に迫っていなかったとしても、作者を責めるのは当たらないのではないか。
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