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3.11と文学  石崎徹

3.11と文学  石崎徹

 7月1日付の朝日俳壇で、俳人片山由美子が、宇多喜代子の話を引用している。再録する。
「子供のころ、空襲で一瞬にして命を失った人を目撃した記憶が脳裏に刻みつけられ、その恐怖から逃れるのにどれほど時間がかかったか。近年ようやく、戦争を俳句に詠めるのではないかと思い始めている」
 この話に続けて片山は3.11について次のように言う。
「尋常ではない体験や苦しみは人を沈黙させる」「語らないという意思を貫いている人もいれば、語れないという人もいるだろう」「それをすぐに俳句にしようとした人と、とても言葉にはならないと思った人がいる」「沈黙している人は伝えたいことがないわけではない」「いまはまだ言葉にできない思いを抱えている人がたくさんいる」「言葉以上に重い沈黙がある」
 片山さんのこの言葉は、充分な重みで胸に落ちた。
「民主文学」の文芸評論家新船海三郎は、「民主文学」内外の小説に3.11の反映が充分ではないことに不満を表明し続けている。新船氏の気持ちはよく分かる。書き手だって気にしているのだ。
 一般に短詩系の世界、詩、短歌、俳句の方が小説よりも社会問題や政治に敏感であるように思える。川柳はその典型だが、これはその性格上当然だろう。
 小説では、社会や政治を直接的に扱うのは、いわゆる直木賞傾向の作家の方に目立つ。純文学と大衆文学という分け方は好きでないし、適切でもないと思っているが、「文学」にこだわりを持つ作家ほど、直接的な表現がしにくくなる傾向はある。
 短詩系では、いま感じたことをすぐ表現することになりやすいだろう。小説の書き手にもいろいろな人がいるだろうが、小説の場合には一つのテーマを何十年間も心の内で温め続けることがごく普通のことである。
 書き手だって社会や政治のことを考えているし、その考えを小説以外の場で表明することはできる。だが、その人の書く小説が社会や政治について語るとは限らない。この微妙な差異は言葉ではなかなか表現しづらい。しかしそれゆえ人はそれを小説で表現しようとするのではなかろうか。

 この間ぼくはごく短い小説を何篇か書いた。このブログ上で発表しただけなのでほとんど読まれていないが、そのうちの何篇かは意識したわけではないのに、ひとりでに3.11を扱うことになった。
「石」は高校生のコミカルなおしゃべりがいつのまにか原発の話になった。
「駅 バージョン2」はモロに、放射能汚染された地球から逃げ出す話である。日本列島が放射能汚染されたら、一億の日本人を受け入れてくれる国はいったいあるのか、ということを書きたかった。
「鐘」は、3.11という重い事実がなお他人事でしかありえず、きょうの自分一個の問題のほうがより比重を占めてしまう人の心を書いた。
「雨」は直接的には無関係な小説だが、常に結局傍観者でしかない者への批判が、個人的な問題の解決によって解消されてしまうことへの皮肉を込めたつもりである。

 気軽に短いものを書けば、ひとりでにいま現在の関心事が文章になる。だが、まとまったものを書くときにはそうはいかないのだ。
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