ウェスカーからどこかへ  石崎徹

ウェスカーからどこかへ  石崎徹

 ウェスカーに少し触れる。ただし話がそこからどこへ転がっていくかは分からない。
 永年忘れていたこの劇作家の名が、稲沢潤子と村上春樹のおかげで最近ちょくちょく頭を横切っていく。
 アーノルド・ウェスカー、1933年、ユダヤ系ハンガリー人を父としてロンドンの貧民街に生まれた。高等教育を受けることなく職を転々として、60年ころ、「調理場」を含む3部作でデビュー。68年には来日して、日本でもブームとなった。ぼくが読んだのはそのあとだ。74年までに晶文社が作品集を四冊、演劇論を一冊出している。そのすべてを読んだが、残念ながら、すでに記憶はかなり薄れている。
 舞台はひとつだけ見た。「根っこ」だった。この劇は無知な娘ビーティが最後に自分の意見を持つようになるというのがポイントなのだが、その意見というのがいかにも公式見解で少しも自分の意見らしくないのが不満だった。舞台ではどう処理するかと思ったが、素人劇団だったこともあって、かんばしくなかった。
 しかし、部分的に不満はあったが、作品は全体として当時のぼくを大変引きつけた。イギリス共産党員としてのたたかいと挫折の記録という感じで読んだのが、当時のぼくの心境にフィットしたのだろう。
 読み直していないのでわからないが、いまから思えば、少しセンチメンタルで、子供っぽいところがあったかもしれない。
 モームが、ウェスカーを指して「教育のないものに文学は書けない」と言ったのを読んで、その前からモームはあまり好きじゃなかったのが、いよいよ嫌いになった。(最近「雨」をふくむ三篇ほどを読み直して認識を新たにしたが)。
 ところで、本題に入る。ウェスカーの描き出したいろんな場面がいまでも頭をよぎるが、最近しばしば鮮明によみがえってくるセリフがある。
「かれら自身の黄金の都市」のなかでアンディがケートに語る。彼はメーデーのデモに参加したが、デモは元気がなく、指導者の演説もただだらだらと続いていくだけ。そのとき、〈突然、聴衆の中から、一人の若者が叫んだ、「われわれのいのちをふるい立たせてくれ!」〉(小田島雄志訳)。
「われわれのいのちをふるい立たせてくれ!」
 このセリフを書きたくてウェスカーを長々と引いた。いかに正しい言葉も、聞く者の心に届かねば意味がない。
 で、ウェスカーについてはこれで終わり。このセリフはもちろんぼくらの文学を反省させるが、いまはそれを言いたいわけではない。
 吉良よし子である。
 彼女の言葉はいのちをふるい立たせてくれると言いたいのだ。
 だが、一方で、それが老いつつある男の身勝手な思い込みだという自覚もある。
 ぼくは高校時代にシラーの「群盗」を読んだ後、「オルレアンの少女」に手を出しかけて結局読まずにしまった。
 リュック・ベッソンとミラ・ジョボヴィッチの「ジャンヌ・ダルク」はビデオで何回も見た。
 牢獄での神との対話が、闘いに至る経過や戦闘場面、また裁判や、権力関係等々と同じ比重で描かれているのを面白く思ったが、のちに57年の英米合作のジャンヌ・ダルクをテレビで見たら、似た構造で、原作がバーナード・ショウであるのを知った。
 それはともかく、ベッソンの映画で、歴戦の将軍たちが作戦会議をしているうちに、田舎娘のジャンヌが「フォロー・ミー」と叫んで馬を駈けらせ、それを兵たちが追い、将軍たちが苦笑いしながら会議をほっぽり出してあわてて追っていく、この場面は何度見ても痛快だった。まさしく兵たちの「いのちをふるい立たせ」たのだ。
 ところがカタログを読むと、あるパリジェンヌが、「ふん、男の勝手な夢想が作りだしたジャンヌね」とつぶやいたという。
 してやられた感じである。
 以前ラジオで、ある女性が(誰だか知らない)「三四郎」の里見美禰子と「ドラえもん」の静ちゃんを取り上げて、全く同じセリフを吐くのを聞いていたからだ。
 里見美禰子、静ちゃん、ジャンヌ・ダルク、それぞれタイプは違うが、いずれも男が夢想する女性だと、当の女性から指摘されれば、こちらは男の身なので、ぐうも出ない。
 逆にぼくら男が少女漫画にどうしても馴染めない理由はいろいろあるが、そのひとつは、いかにも女性が夢想しそうな男ばかりが出てくるという点なのだから、彼女たちの言うことも分かるのだ。
 話がとんでもないところにそれてきた感じだが、最初からこれを書きたかったのかもしれない。
 女性の書く男が男から見れば「ふん」という感じなのと同様、男の書く女性は、女性から見ると阿呆らしくてついていけないという感じなのかもしれない。
 とりあえず、これが結論。(吉良よし子は一瞬出てきてどこかに消えてしまったが、現実にはそうならないことを祈る)。
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