能島龍三「生きる」(民主文学8月号)  石崎徹

 能島龍三「生きる」(民主文学8月号)  石崎徹

 労働を描いた作品を読むのは好きだ。電源車リース会社の25歳の労働者の話である。
 九州での女性アイドルグループのライブ照明の準備中に、若い労働者が墜落して死に、その直後、何事もなかったようにライブが実施される場面の描写には臨場感があった。
 また首都高で過労から居眠り運転に陥り事故の間際まで行く場面にもスリルがあった。
 ただ気になるのは、労働が何となく肯定的な扱いを受けていないように思えること。
 もちろん現代の労働が非人間的な重大な問題を抱えているのは事実である。しかし労働者は一生懸命働いており、不満や批判を持ちながらも、それなりの誇りを持っている。でなければ生きていけない。それを否定的に描かれることには抵抗がある。
 この労働の背中に張り付くようにして最初から最後までちらつくのが福祉労働である。 
 たまたま主人公がもともとそれを目指しながら諸般の事情で挫折したという設定だが、作中ではおのずから設定以上の意味を持ってしまう。二つの労働が対比されているような気がして、目障りでならないのだ。
 だが、全体としては結構読みごたえがあった。労働のいろんな場面を力を込めて丁寧に書いているのがよい。作者の経験とは思えないので、取材と空想力によって書いたのだろう。
 元同級生の女性と、民青と思われる活動家集団の登場は、かなり通俗的だが、それなりに読ませる。
 さまざまな問題を主人公のなかで錯綜させて結論を出さずに終わったのもよい。小説に膨らみを持たせている。
 全体としてはよく書けているのだが、部分部分の描写を見ていくと、かなり疑問がある。
 創価学会としか考えられない集会の場面を垣間見た主人公がこれを不気味がるところ。むろん主人公が何をどう感じようと勝手だが、垣間見ただけで創価学会を否定しているような趣きがある。
 それと対比するような形で民青の集会が語られることには、ご都合主義的なパターン化を感じる。どちらもナイーブな青年の初体験による印象という形なので、青年の心象風景としてはよいのだが、こういう描写にはもう少し現実に即した慎重さが求められるだろう。共産党の集会を垣間見て不気味だと書く作家だっているはずだ。垣間見ただけで書いてはならない物事があるのではなかろうか。
 元同級生の女性との六年ぶりの出会いによる会話が、とんとん拍子に作者の求める方向に向かってしまうのは、読んでいて作為が感じられ、現実感を失わせてしまう。上着を肩にかけていてスポーツ自転車を走らせることができるのだろうかという心配もした。
 あと、気になったのは時制の問題である。
 特に第1節は短い節だが、文章が成立していない。
「被災地の空が夕焼けに染まってきた」と書き出される。凡庸な書き出しだが、それはまあ良いとして、明らかに現在進行形の書き出しである。その書き出しに沿って物語は進んでいく。読者も現在のことだと思って附いていく。ところが節の終わりに来て、いきなり「翌日の早朝のことだった」と、翌日の話になる。現在進行形だと思っていたら、突然「翌日」という未来が過去として登場する。(ことだった)。現在と思っていたのは過去の過去、つまり大過去になるわけである。これはちょっとひどすぎる。読者に忍耐力がなかったら、ここから先は読む気になれない。第2節に入ると、さらにその翌日で、結局1節は挿話に過ぎなかったことになる。全体に時制の扱いがおかしい。
 もう一点。死に対する主人公の向かい合い方。非常にセンシティヴである。それはよいのだが、強調され過ぎるのが不自然である。
 死は人間の心の片隅に常にある。折に触れてそれが突出してくる。それと折り合いをつけながら人は生きている。ところがこの青年は死に呑み込まれてしまったように見える。少し異常な事態なのだ。しかしその異常さと物語とは必ずしも噛み合っていない。ストーリー全体に対してこの異常さは過剰なのだ。
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