入江秀子「まっすぐ顔を上げて」 石崎徹

 入江秀子「まっすぐ顔を上げて」(民主文学7月号) 石崎徹

 こういう作品を読むと、つくづく小説とは定義できないものだと思う。冤罪事件の再審裁判をめぐる、当事者と支援者たちとを淡々と描写している。それが経過報告ではなく、登場人物たちの描写に重点を置いているので、なにがしか小説的な感慨がある。人間たちに触れたという読後感がある。
 ただ事件の詳細を語らないので、もどかしい。ほんとうに冤罪なのかどうかを読者は判断できないからだ。
 内容的には小説というよりもルポだ。たぶん現実をそのまま書いている。かなり密接な支援者である主人公には、「事件のことを書いたノンフィクション」がある。これはきっと作者自身であり、作者の書いたノンフィクションなのだろう。それがあるので、作者としてはこの作品では事件の詳細な説明は省いて、もっぱら人間的要素に焦点を絞ったのだろう。そしてこの小説で興味を引かれた読者が事件のことを知りたいと思うように促している。その目的は達せられたともいえる。それにしてももどかしさが残るのだが。
 技術的な側面からいうと、構成に少し難がある。事件は1979年に起こり、1980年には刑が確定して1990年まで服役、1995年再審請求、2002年、地裁での再審開始決定、2004年、高裁による棄却、そして2013年、第二次再審請求の地裁決定が出るのを待っている。
 小説はこの2013年を始めと終わりに持ってきて、間に2004年を挟んでいる。主筋は2004年にある。ただその2004年のなかでそれ以前のことも語られるので、過去を語り終わって帰ってきた地点が2004年なのか2013年なのか、読者に混乱を与える。
 時間を行きつ戻りつするのは小説の常道である。その行き来には常に小説的企みがある。それが多少読者を混乱させても仕方ないときもある。しかし、この作品の場合、あえてこういう構成にせねばならなかった必然性は薄いのではないか。
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