もりたともまつ「六十七年目の潮路」を読む  鬼藤千春

もりたともまつ「六十七年目の潮路」を読む  鬼藤千春

 これは作者と等身大の主人公、森知次の壱岐・対馬の三日間の旅と終戦前後の朝鮮半島での暮らしと引き揚げにまつわる話である。ほとんど事実に基づいた話だけれど、随想でなく小説として成立している。
 この作品を語る場合、文体・文章に触れないわけにはいかない。品位の高い作品に仕上がっているのは、文体・文章が優れているからである。比喩や形容詞をほとんど遣わなくて、対象を的確に表現することに成功している。この作者は、よほど文章の修練を積んできたか、あるいはもともと文才を備えていたか、いずれにしても格調高い文章にかわりはない。
 この作品が格調高いのは、文体・文章のみに依存しているからではない。それは、しっかりとした歴史認識に立脚しているからである。この歴史認識が曖昧で、ぶれるようならこうした作品は書けない。歴史や過去に盲目で、目をふさぐようなら、この作品は成立していなかっただろう。
 歴史や過去に盲目であるならば、現代をしっかりと認識できないのは当然である。さらに、過去・現代を認識できなければ、未来への展望も決して拓かれないだろう。この作品には表立って、未来が語られているわけではない。が、にもかかわらず、作者の視座には未来が内包されているのである。つまり、作者と主人公、知次の歴史認識の座標軸がゆるぎなく屹立しているのである。
 この作品では、父や母のこと、京城での暮らしのこと、そして引き揚げのことが回想として描かれているが、過不足なく表現されている。そして、忘れてはならないのは、妻加代の存在である。しかし、加代はすでにこの世にはいない。鬼籍の人である。が、折々に知次の脳裏に浮かんでくる。あたかも一緒に旅をしているようである。今でも加代を慈しむ知次の愛情に胸を打たれる。
 また、壱岐・対馬の旅のようすも単なる紀行文に終わっていない。旅のようすに歴史をからませながら、物語を創りあげているのである。このようにこの作品は、文体・文章、歴史認識、旅のようす、回想、加代の問題などを、これ以上でもこれ以下でもない、という風に事実を吟味し、分析し、再構成された優れた小説といえるだろう。
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