髙林正夫「爪」を読む  鬼藤千春

 髙林正夫「爪」を読む  鬼藤千春

 意味深長な題名で、興味深く読むことができた。が、「爪」とか「指」というのは、独自性がありそうで、意外にありふれた題名でもある。
 この作品では、ふたつの「爪」を象徴的に描いている。健の「爪」だけでもよかったように思うけれど、主人公、秋本の生き方とも関わっている「爪」なので、ふたつの「爪」でなくてはならなかったのだろう。
 これは、途中まで読む限り、教育実践発表会で報告すれば、優秀賞を受賞してもおかしくないような作品だ。つまり、終盤まで、「教育実践記録」のような作品なのである。
 健は小頭症で、寝たきりである。日常生活上のことはすべて介助を必要とする。食事、排泄、移動、衣服の着替え、入浴などの介助が必要で、知的にも重度な障害がある子どもである。
 その健が、笑ったり手足を動かしたりするとはとても思えない情況なのである。が、秋本の心を込めた接し方や指導によって、健が「ふふふっ ふふふっ」と笑うようになったのである。秋本の懸命な創意工夫と実践によって、健の潜在能力が引き出されたのだ。
 母親はどうだろうか。訪問指導に入って約3カ月の間、母親は愛想もなく無言のまま、煙草を左手と中指に挟んで吸っているのみである。挨拶しても何の反応もない。どうしようもない母親である。
 健の「爪」を切るようにお願いしていたが、一向に切るようすがなかった。ところが、しばらくして健の「爪」は切られていた。母親の心が少し動いたのである。また、健が笑うようすを見て、母親も笑ったのだ。画期的な変化である。
 この、健と母親の変化は爽やかで感動的である。これで一編の小説になりえたように思うけれど、何かもの足りない。優れた「教育実践記録」的なのである。つまり、典型的な予定調和である。
 しかし、作者はこの物語をそこで終わらせるようなことをしなかった。秋本が、ビニールプールを家の外に出して、その中で健を遊ばせよう、と提案した時だった。
 「いやです、それだけは」
 と、母親は断った。もう一度秋本は勧めた。
 「いやです、それだけは。絶対にいやです」
 母親はさらに険しい表情をあらわにした。
 この時、私はこの物語が優れた「教育実践記録」から、優れた小説の世界を獲得したと思った。作者は読者を裏切り、予定調和を打ち毀したのである。そんなに容易に問題は解決されないことを提示し、母親の心の底には鉛のように重いわだかまりがあり、今後もこの困難に真向かうことを秋本に求めているのである。
 秋本はストレスやもどかしい思いにとらわれたりしたら、右手の親指に左手の親指の「爪」を当てる癖がある。しかし、秋本は、母親のその言葉を聞いても「爪」を突き立てることがなかった。そこに、この物語が失望に落ちてゆくことなく、希望という余韻を残して結末を迎えるのである。そこに秋本の前向きな生き方が示されているのだ。
 小説にとって、すべて予定調和が悪いというわけではない。それを心得た上で、予定調和をしりぞけたこの物語は、作品世界を広く深いものにしたのである。
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