梅崎萌子「桜の木のあるところ」を読む  鬼藤千春

梅崎萌子「桜の木のあるところ」を読む  鬼藤千春

 この作品を通して、作者は「どんな文学的問題を解決」しようとしたのだろうか。いや、問題を解決するだけが文学ではないのだから、「どんな文学的問題を提起」しようとしたのだろうか。
 ある評論家は、「題名と書き出しと結末」が決まれば、30枚くらいの短編はそんなに難しくなく書けるだろう、と言っている。それに従えば、この作品は以上の三つのことが構想され、決められていたように思う。
 書き出しは、義母キエの遺影と白布に包まれた骨箱が静かに祀られ、和室に秋の日ざしが差し込むようすが描写されている。そしてキエを埋葬する墓地がないことが語られている。
 結末は、キエを埋葬するために美都子の家族が墓地の前で、石材店の人が来るのを待っているようすが描写されている。
 題名は、生前キエが「桜の木のあるところ」に帰りたい、という想いを抱いていたということから決められたのだろう。
 このように、この作品は「題名と書き出しと結末」が決められ、書き始められたに違いない。だから、書き出しと結末は印象深い描写となっている。作者のその構想は決して間違いではなかったように思う。
 だが、この作品は「どんな文学的問題を提起」しようとしたのか、それが不明瞭なのである。読者にそれが伝わってこないだけでなく、作者にもそれが曖昧模糊としていたのではないだろうか。
 それがもっとも象徴的に表われているのが、登場人物の多さである。回想の人物を含めて17人前後にも及ぶのである。私も30枚前後の短編で5人の人物を登場させた作品があるが、それでも多いと言われたことがある。5人くらいなら許されると思うけれど、17人というのは短編の限度を超えている。
 それは「どんな文学的問題を提起」しようとしたのか、が曖昧なためにテーマに沿って、無駄な人物やエピソードが整理されなかったために他ならない。
 義母キエの人物像、生き方、人生を描くのか、「骨の行方」を描くのか、それがきちんと定まっていないのである。この作品の中では、キエの人間像が折々に小出しにされている。が、そうではなくて、作者が正面からキエと対峙して、キエの人間像を浮き彫りにする必要があったのではないだろうか。それが残念でならない、そういう作品である。
スポンサーサイト

コメント


管理者のみに表示

トラックバック