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妹尾倫良「四十年目の夏」を読む  鬼藤千春

 秀作・妹尾倫良「四十年目の夏」を読む  鬼藤千春
    1986年3月「まがね」第15号

 被爆40周年を迎えたこの夏、広島で被爆した100人近いジャーナリストの「不戦」の碑が建立された。その機会に、被爆したジャーナリスト関係者と家族の消息を調査し、聞き書きなどして平和の尊さを世に伝える企画がなされた。
 「私」は津山に被爆者の家族がいるというのを聞いて、そこを訪ねた。そして、広島の原爆に遭った家族に会い、その様子を聞かせてもらったのである。その人は、主人を原爆で喪った未亡人で、気持ちよくその模様を話してくれた。
 主人は津山新聞(のち岡山新聞に吸収合併される)の記者をしていた。20年の5月に広島へ赴任することになった。8月になって広島が大変なことになったということが伝わってきた。主人から速達がきたのは終戦の翌日16日だった。その手紙は代筆でした。「広島の戦災にて重傷致し、国民学校講堂に伏床中なれど、板の上にそのままでフトンもなく困りはてておられる」というものだった。
 そして、姉の婿が広島へ行ってくれたんです。顔と腰以外は全身火傷で床に寝かされており、歩くこともできなかった。姉婿は担架を都合して、津山まで連れて帰ってくれた。主人はすぐに入院しました。「背中がむずむずする、見てくれ」と主人は言いました。見ると蛆がわいていました。生きとる人間に蛆ですよ。
 「手に針が立っとる。カミソリが立っとる、取ってくれ」と主人は言うんです。ひりひりして痛かったんでしょうな。そんなことがあって、やがて主人は亡くなってしまいました。8月24日、年齢は34歳でした。
 私は30歳で未亡人になったんです。考えてみれば、結婚生活は7年間でした。それからはとにかく働くばかりでした。5人も子がおれば、私が頑張る以外道がないでしょう。行商、失対事業、寮の管理人、とにかくよう働きました。生活保護も末っ子の奈津ちゃんが中学に入ってから、初めてもらえることになったんです。子どもが幼い時は、生活も苦しかったし、何度一緒に死のうと思ったか知れません。話が終わったのは2時近かった。朝の9時からの聞き書きだった。
 最後に奥さんは言った。
 「今はええです。戦争はもういやですな」

 これは、1986年度の「民主文学」支部誌・同人誌推薦作に入選した作品である。「まがね文学会」としては、三宅陽介の「山男と弥ァやん」の優秀作につぐ、2人目の受賞である。
 奥さんの話が被爆の情況、残された家族の生活の在りようをリアルに伝えている作品である。妹尾倫良の作家活動のひとつの一里塚であるとともに、それ以後の作家としての歩みの起点ともなったものである。
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