「駅」 井上淳

駅          井上 淳

 真夏の日差しがホームを真上から照らしていた。田舎の駅なので、電車はたまにしかこない。市街地に向かう次の電車がくるまでに、まだ三十分以上間があるので、人はほとんどいなかった。
 裕美子は、随分長い時間このホームで独り固まったようにベンチに座っていた。全身から汗が吹き出て、好きだった制服のカッターシャツを湿らせた。この制服を着るのも今日が最後かと思うと、裕美子は無性に悲しくなって、しきりにハンカチで顔をぬぐった。
 こんなはずじゃなかった――。今日は私にとって、ただの面倒な一日だったはずなのに。

裕美子は今朝、一年余り通っていた高校に行って、退学届を提出して来た。理由は、「家庭の事情」とだけ言った。先生は驚いて、考え直すように何度も言ってくれたが、裕美子はそうしようとは思わなかった。もうすべてが決まったことだった。
学校の校舎の隅の方から、美しいトランペットの音色が聞こえた。裕美子は思わず廊下で立ち止まったが、すぐに全てを振り払うように校門を目掛けて駆け出した。

「学歴なんて」と思う。学歴なんて価値のない人間の自慢話に過ぎない。早くいい仕事を見つけて、一日も早く家を出よう。気持ちが高ぶると、むしろ誇らしくさえあった。ついきのうまでは。

裕美子の家族は、裕美子が生まれる前からずっと兼業農家の父の実家で暮らしている。父は収入の少ない仕事を転々としていて、母はずっとパート勤めをしていたが、家計は苦しかった。父は小柄で極端に口数が少なく、反対に母はすこぶる気の強い性格で、夫婦仲は悪かった。喧嘩が始まると幼かった裕美子と裕美子より二つ下の妹は、いつも怯えて泣いていた。しばらくすると、どちらか、大抵は父が、ぷいっと出て行った。父がいなくなると、母は裕美子達に優しくしてくれた。何日かすると、必ず父は家に戻って来てくれた。裕美子にとっては、こんな父も母もかけがえのないものだった。
大きくなると、裕美子は学校にいる時間が好きだった。しっかりものの裕美子は、頑張り屋でもあり、勉強ができた。体も級友達より大きく、運動もできた。明るい性格で友達も多かった。中学に入ると、迷わず憧れだった吹奏楽部に入って、上級生になると部長を務めた。卒業したら看護師になりたいと思い、高校は衛生看護科に進んだ。高校に入っても吹奏楽を続けたくて、短時間のアルバイトをしながら忙しい毎日を懸命に過ごした。一ヵ月前、突然、母から父との離婚を告げられるまでは――。
 
 どれくらいの時間、この場にうずくまっていただろうか。ふと、かすかに、ざわめき声を捕らえた。胸の高まりを抑えて頭をもたげると、同じ高校の制服を着た生徒達が大勢、反対側のホームの階段を、声を上げながら駆け上がってくるのが見えた。まさか、今頃は県のコンクールに向けての本番練習だったはずじゃ・・・・・・。裕美子は訳も分からず震えた。だんだんと足音が近づいてくる。やっぱり!吹奏楽部のメンバーだ。
 裕美子は泣き顔を繕う余裕もなく、弱々しく立ち上がって、深く頭を下げた。
大好きだった先輩が、
「中里」
と力強い声で呼んだ。うんと懐かしいような気がした。裕美子は涙をこらえて、
「はい」
と答えた。みんなが緊張した表情で裕美子を見つめている。
「学校やめるんか」
「はい」
 仲の良かった何人かが、顔を歪めてすすり上げた。理由は言わなくてもみんな分かっていた。それが自分達の力ではどうしようもないことであることも。
先輩も言葉に詰まった様子だったが、やがて飛び切りの笑顔になって、
「がんばってな」
と、言った。みんなが一斉に、
「裕美子、元気でね」
「中里先輩、ありがとうございました」
と、口々に叫んだ。
いきなり一人が校歌を歌い出した。しかし、その声はすでにしゃくり上がっていて、歌にならなかった。裕美子は笑顔で何か言おうと頬の筋肉に力を入れたが、その瞬間、こらえきれなくなって、その場に泣き崩れた。

裕美子は一人、バイト先に向かう電車に夢見心地で揺られていた。
これが私の卒業式。決して忘れない。これから歩む道に苦労は多いだろうけど、絶対に幸せになるから。
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コメント

若々しい
若々しくて好感が持てます。期待しています。

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