2013年08月の記事 (1/1)

仙洞田一彦「ヒルズ」  石崎徹

仙洞田一彦「ヒルズ」  石崎徹

 仙洞田さん、これはいけないよ、全国誌に載せる作品じゃない。
 それでも最初の何ページかは、仙洞田さんらしい軽快でユーモラスな文体で、これは面白くなりそうだぞ、と愉しみながら読んでいたんだ。ところがどこまで行っても意味のない会話がだらだらと続いていくので途中で飽きてしまった。
 内容は何もない。笑劇としたらキャラの設定を間違えてるよ。金持ちがひとつも金持ちらしくない。そこらへんのゴミ捨て場から何億円か拾ってきた人間かなという感じだ。だからこの人物はどこかで逆転するのだろうと期待したらしまいまで何もなくて終わってしまった。おかげでせっかくばあさんがミニスカートに真っ赤な口紅で出てきても、読者には何の効果もない。もう一人の人物も、貧しいとはいえそこそこの生活をしてきた70才、その年齢になれば怖いものなどないだろうに力関係を読む、と言いながら口を開けば結構相手をからかっている。もちろんそれでいいのだが、委縮する、緊張するというト書きとのバランスがとれていない。この男一人で結構相手をやりこめているんだから、ばあさんが出てくる必要はなかったね。最初から最後まで金持ちの旗色が悪すぎて一方的な話で落ちがないんだよ。
 仙洞田さん、どうしちゃったの。もう少しあなたらしい作品を読みたい。
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映画「少年H」  笹本敦史

映画「少年H」  笹本敦史

 古沢良太は「探偵はBARにいる 2」で反原発運動を揶揄する脚本を書いた。もちろん、運動を批判するのは自由だし、それについては見解の相違だと思うだけである。(例えば、クリント・イーストウッドの政治的立場にはまったく同意できないが、彼の作品には好きなものがいくつもある。そういうものなのだ)。しかし「探偵はBARにいる 2」がやったのは「批判」ではなく「揶揄」である。オリジナル作品ではないとは言え、それは許すことはできない。

 そういうわけで、古沢良太が脚本を書いた映画「少年H」を見るかどうかについては迷いがあった。
 原作は97年の発表当時に読んでいる。記憶に基づいて書かれたものであり、後付けの視点が入っていると感じられる部分もないわけではない。しかし、戦時の生活を体験した者として、どうしても書き留めておかなければならないという強い動機が、平明な文章に感じられた作品だった。

 結論から言えば、映画もすばらしかった。ハードカバーで上下刊という長い小説を2時間強の映画に仕上げた脚本は職人技と言えるだろう。原作を修正している部分も違和感はない。しいて言えば、Hの自殺未遂の場面はカットしても良かったのではないかと思う。あの場面は原作でも、唐突な印象を受けるところだ。
 映画的には空襲やその後の焼け跡のシーンに圧倒された。日本映画ではスケール感を出そうとして失敗する作品が多いように感じるが、さすが降旗康雄演出というところだろうか。
 観客は70代と思われる人がめだったのだが、体験として戦争を語れる世代が少なくなっているという現実を考えさせられた。

藤野可織「爪と目」  笹本敦史

藤野可織「爪と目」  笹本敦史

第149回芥川賞受賞作
 ストーリーも比較的シンプルで、最近の芥川賞作品としては読みやすい。
 不倫相手の妻がベランダに締め出された状態で亡くなっているのが発見され、その後妻に迎えられた主人公(あなた)。先妻の子ども(わたし)はよく躾けられていて、新生活にも大きな問題はないが、爪を噛む癖があり、マンションのベランダに近づくことを極度に恐れている。ある日、突発的な事態によって、主人公は娘をベランダに締め出してしまう、という物語。

二人称という語り口がわかりにくいとか、二人称なのに神の視点になっているところに違和感があるといった感想も聞くが、一人の観念の下に書かれていると思えば、すんなり読める。
 登場人物はみんな冷めている。例外は後に主人公の不倫相手になる古本屋の男ぐらいだろう。
しかし、冷めているということは何も感じないということとイコールではない。ただ感情を押し殺しているだけかも知れないし、押し殺していると本人も気がついていないのかも知れない。押し殺しているものはいつか異常な強さを持って暴発する可能性がある。そんな怖さを感じる。
 ただ、感じるのはそれだけなのである。もちろん読者によって感じ取るものは違うし、それに価値を見出すかどうかも違う。選評も、いつものこととは言え、割れている。それにしても、どれだけの読者がこの作品を気に入るのだろうか。疑問を感じる。

物語と思想(揺れる海) 石崎徹

物語と思想(揺れる海) 石崎徹

「民主文学」9月号の新船海三郎による文芸時評は、大江健三郎と多和田葉子の最新作に触れたのち、8月号の3作品を評している。能島龍三、草薙秀一のそれぞれの作品についても多少読み方の差異を感じないではなかったが、いま両作品を読み直す余裕がないので、最も強く違和感を持った青木陽子「揺れる海」評についてのみ若干感じたことを述べる。
 今回新船氏の批評に抱いた違和感を確認したいと思って、「揺れる海」と、新船氏が短く触れている「紫陽花」(12年2月号)とを読み返してみた。
 結論から言うと違和感は解消されなかった。
 新船海三郎は、3.11後、民主文学の中では筆者が特に注目している評論家である。
 それは氏が、今回の原発事故について、推進派の責任を問うだけではなく、それを阻止し得なかった「我々」のがわについても問うてみようという姿勢を顕著に示したからだ。
 それは国会において既存の原発の危険性を鋭く追及し、各地の原発建設に反対運動を展開してきたにもかかわらず、核兵器と原発との間になお一線を引いて、将来の原子力の平和利用を否定しきれないとも取れる曖昧さを残していた共産党と、その影響を多少なり受けていた「我々」について、その精神構造にまでさかのぼって考えてみようとするものに思えた。
 そこまで引き延ばして受け取ったのは新船氏の意図から外れていたかもしれないが、ともあれ、「我々」の問題として考えようとする姿勢は一貫している。
 それは9月号の文芸時評でも以下のように表現される。
〈水上勉が……(原発を)受け入れていく住民の心底にある……そういう価値観から抜け出すことを呼びかけたのは三十年近く前のことであった〉
〈伊丹万作が今次の戦争を「騙されていた」という人は、次もまた騙されるにちがいない、もっと賢明になろうと説いたのは……敗戦翌年であった〉
 つまり押しつけて来る側、騙しに来る側を批判するだけでは足らない、それを受け入れてしまう、あるいは騙されてしまう「我々」の側の問題をもっと考えてみようとするのだ。
 それは以下のようにも表現される。
〈国策を操る悪い「奴ら」がいて、庶民はいつも騙され、人生を翻弄されるが、それでも健気に一生懸命生きている……(とするのは)、一つの(作られた)構図である〉
 だが話がここまで行くと、疑念が生じてこざるを得ない。上記は〈一つの作られた構図〉というよりも現実そのものなのではないか。
 新船氏はこれに続いて以下のように述べる。
〈しかし、3.11大震災と福島原発事故に直面して、その「一生懸命」が何を結果したのかを知ったこの国の多くの人々は、自分たちのその生き方を深く自省したのではなかったろうか〉
 それは事実そのとおりにちがいない。フクシマはすべての日本人の心に深い衝撃を与え、その考え方に大なり小なり影響を及ぼした。
 だが、新船氏が〈構図〉と呼んだ現実は、それで解消されてしまうような単純なものではないだろう。
 相変わらず庶民は騙され、翻弄され、それでも健気に生きていく。
 新船氏も一応はそれを認めている。それが作中人物の感慨であるなら構わないという意味のことを述べたのち、〈気にかかるのは、作者もこれに同意していることである〉と注を加えている。
 新船氏の評中、最も理解に苦しむところがここなのだ。
 ぼくはひとりの読者として、「紫陽花」と「揺れる海」とを二度ずつ読んだが、新船氏のような読み方は決してできなかった。
 両作品で描かれたのは庶民であり、それでも賢明な庶民なので、二度騙されたことを〈深く自省〉している。だが、一般的に言えば、庶民はこれからも百度でも千度でも騙されていくだろう。それが現実である。だからと言って「彼ら」を軽蔑することはできない。「彼ら」は〈健気に一生懸命〉生きている。あるいはそれはむしろ「我々」かも知れない。
 もし、我々は騙されたのだから悪くないのだ、悪いのは「奴ら」だ、という態度を我々がとるなら、我々は何度でも騙されることになるだろう。だが、青木陽子が両作品で描いたのは、騙されたことを〈深く自省〉した庶民なのである。
 騙されたのだから反省しなくてよいと思うのと、騙されたことを反省するのとでは180度違ってくる。そこを見ていけば、青木陽子の立っている地点は新船海三郎のそれとそんなには違わないはずだ。
 ただおそらく新船氏が不満に思うのは、騙されたことに対して、「なぜ騙されたのか、どこに問題があったのか、どうすればそれを避けられるのか」といういわば自己の知の確立という点に関する内省が不足しているというところなのだろう。
 だがそれはまた別のテーマである。ここに描いたのは知識人の物語ではない。庶民の物語なのだ。そしてそれは充分に描かれたとぼくは思う。
 物語は物語である。もちろんそこには作者の思想が反映されるが、それは物語のなかに含意されるものであって、直接的に表明されるわけではない。
 ここでは庶民の物語を書くことが作者の意図であり、関心であった。それが新船氏自身の関心事(テーマ)に迫っていなかったとしても、作者を責めるのは当たらないのではないか。

映画「風立ちぬ」 笹本敦史

映画「風立ちぬ」  笹本敦史

 零戦を設計した堀越二郎と小説「風立ちぬ」の作家、堀辰雄をモデルに作られた物語。期待し過ぎたせいかも知れないが、物足りなかった。

 堀越が設計し、戦局の悪化とともに悲劇の戦闘機となった零戦の開発物語は、堀越自身による記録として出版されている(角川文庫)。世界最高の飛行機を作るという夢と技術者としてのプライドにあふれた物語はとても魅力的である。敗戦後に書かれたということを割り引く必要はあるかも知れないが、堀越は国際情勢を冷静に見る合理主義者で、太平洋戦争には初めから悲観的であったようだ。

 しかし、堀越の物語がいくら魅力的でも、戦闘機開発物語だけで作品にするという割り切りはジブリとしてはできない。そこで堀越と同時代の堀辰雄を結びつけたのだろうと思える。

 堀自身の体験を基にした小説「風立ちぬ」も名作である。ただ今となっては、恋人を難病で失うという物語は映画やテレビドラマから近年のケータイ小説まで散々使い古されている。これも映画化で独自性を出すのは難しい。

 結局、二つを結びつける試みはどちらも中途半端になってしまったという印象を受ける。

 堀越をモデルとした初めの展開は引きつけられる。しかし山のホテルで菜穂子と出会う(菜穂子が子どものころに会っているので再会ではある)、堀辰雄をモデルにした物語が始まると途端につまらなくなる。そして堀越の物語も深められないままに終わってしまうのである。

「舌打ち」 笹本敦史

舌打ち   笹本敦史

 無くて七癖、あって四十八癖などと言うではないか。誰にでも癖はある。爪を噛んだり、鼻を触ったり、髪をかき上げたり、貧乏揺すりしたり、しゃべり出す前に咳払いしたり、「えー」とか「あー」とか「あのー」とか言ったり、いろいろあるだろう。それぞれの癖にたいした意味はないんだ。
 俺の舌打ちだってそうだ。俺の場合、何かに不満があるとか、気にいらないことがあったとか、そんなわけではない。単なるクセだ。
「お前、何やってるんだ。商談中に舌打ちはまずいだろ」
 新入社員だった頃、先輩にそう怒鳴られたことがある。それから俺は精一杯努力して、商談中に舌打ちをしないように気をつけた。そのせいか、俺は、常に自分を律しているストイックな人間と見られるようになった。顧客からの評判も上がり、営業成績は常にトップクラスだった。
 そして同期中トップで管理職になった。取引先より部下と対することが多くなった俺は舌打ちをするようになった。部下を威圧するつもりでやっているのではない。単なる癖だ。無くて七癖、あって四十八癖などと言うではないか……、あっ、これはさっきも言ったな。
 とにかく、俺は部下たちから恐れられる管理職になった。短期間に人間の力を発揮させるのなら恐怖支配が最も効果的だ。俺は多くを語らず、何かにつけて舌打ちした。その態度が部下たちを恐れさせるらしく、彼らは猛烈に働いた。所長に働きかけて、かつて俺の舌打ちを注意した先輩を僻地の営業所に飛ばしたことも、彼らの恐怖心を煽ったようだ。
 俺のチームの営業成績は営業所内のトップになった。その功績を認められた俺は他の営業所の所長に抜擢された。短期間に人間の力を発揮させるのなら恐怖支配が最も効果的だ……、あっ、これはさっきも言ったな。
 俺は所長席にふんぞり返り、しかめっ面をし、時に舌打ちするだけでよかった。中間管理職たちは恐怖に駆られ、部下を脅した。脅された部下たちはあらゆる手段を使って成績を上げた。時には法律に触れるようなこともあったかも知れないが、それが露呈することもなく、俺は本社の幹部になった。異例の出世だった。さらにその後、役員が病気を理由に辞任するなどの偶然もあって、俺は役員になった。

 気がついたら舌打ちしていた。
「被害を受けられたみなさまにお詫び……」
 社長が言いかけた言葉を飲み込んだ。社長が不思議なものを見るように俺に目を向けた。その目がしだいに恐怖を表すものに変わった。
「今、舌打ちされませんでしたか?」
 一人が紳士的に尋ねた。
「いや、確かに見た。絶対舌打ちだ」
 別の一人が大声で言うと、記者会見場は怒号に包まれた。