2013年04月の記事 (1/1)

青木資二「ステップ」  石崎徹

 青木資二「ステップ」  石崎徹

 残念ながらこの作品には最後まで入りこめなかった。これでは小説ではなく作文であろう。
 漫画的なパワハラに終始する女性校長、もちろんどこにでもいる。それに対して、40才の早苗は、20年近くも小学校教員を務めてきながら、内向的な性格でいっさい反抗できずに泣きべそをかくだけである。もちろんそういう女性だっているだろう。その設定自体に文句をつけようとは思わない。問題はこれをどういう絵に描くかである。
 客観的にこの図を頭に思い描いたら、喜劇にしかならないに決まっている。校長も滑稽だし、被害女性も、本人には気の毒だが、外から眺めれば滑稽である。問題をどう扱うにしろ、漫画的な事態はまず漫画的に描写するしかないではないか。見たままを書こうとすればそうなるはずだ。それがリアリズムというものだろう。
 ところが作者は実に暗鬱な一本調子に終始するのである。悲劇にしてしまうのだ。もちろん被害者本人にとっては悲劇である。だが作者が完全にそれによりそう、どころか早苗になりきって書いていくのでは読者はおいていかれる。
 普通の読者ではとてもこの作品に入りこむことはできない。よほど作者によりそってあげる読者だけだろう。
 ここでも田島作品と同じ指摘をせねばならない。作者が三人称主人公と一体化しては小説ではない。作文なのだ。
 これはパターン小説(類型小説)の典型である。どの人物も類型を出ていない。生きた人間は一人もいない。
 校長のパワハラの原因をわからないでいながら(わからないなら分からないままでいいのだ)根拠もなく競争社会のせいとこじつけても説得力はまるでない。
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新人賞に決定 笹本敦史 (鬼藤千春)

新人賞に決定 笹本敦史

 しんぶん「赤旗」の文化通信欄に次の記事が掲載されています。
 第十回民主文学新人賞(日本民主主義文学会主催)は、新人賞は笹本敦史さん「ユニオン!」、佳作は永澤滉さん「霧の中の工場」、望月笑子さん「無機質な腐敗」に決定しました。

 各賞に決定された方々に、お祝いを申し上げます。特に笹本敦史は、日本民主主義文学会岡山支部(まがね文学会)の支部員であり、事務局長を担当していますので、その喜びも一入です。
 笹本敦史は一九六二年生まれで、誕生日を迎えれば五十一歳です。
 彼がまがね文学会に入会し、「まがね」に登場したのは、〇九年九月の第四十九号です。「スウィート・ジェーン」という作品を引っさげて、彗星の如く私たちの前にあらわれました。この作品は多くの方々から賞賛を浴びました。
 次の作品は「まがね」第五十号の「声を聞かせて」でした。この作品は一〇年度の「支部誌・同人誌推薦作」に入選しました。
「まがね」第五十一号には「瓦解」を発表し、「民主文学」一一年七月号に転載されました。
「まがね」第五十二号には「風に吹かれて」という異色の作品を発表し、話題になりました。
「まがね」第五十三号には「反抗期」を発表し、中学生の心情をよく捉えた作品として、評価されました。
「まがね」第五十四号には「わだかまる」を発表し、ミステリアスの手法で、家、家族を追究した作品として好評を得ました。

 このように、笹本敦史は「まがね」に初登場してから、水準の高い創作を発表してきました。いずれ、何かの賞を受賞するに違いない、と期待されていました。
 新人賞の決定の報を聞いて、支部では喜びに沸いています。三宅陽介は、ケアハウスに入居していて、支部の例会に出られません。そこで、七月にそのケアハウスに出かけていって、「民主文学」新人賞作品の合評会を開くことを決めました。
 また、祝う会の計画も持ち上がっています。各支部員はこの報に刺激を受け、創造と普及という、文学活動への意欲が高まっています。

              鬼藤千春


田島一 「二つの城」   石崎徹

 田島 一 「二つの城」   石崎徹

 田島一の短編は民主文学誌上でいくつか読んできているが(「時の航路」は読んでいない)、あまり納得できるものではなかった。
 今回作も、前半は首をひねりながら読んだ。「なんでこれが小説なの? どうしてルポにしないの?」と思わされた。というのは、三人称で書かれているのだが、叙述の全体が色濃く主観に染まっていて、それが主人公越智の主観なのか作者田島の主観なのか判然としない。
 何故一人称で書かないのか。一人称でルポにしてもよいし、一人称小説でもよい。ルポには著者の主観が入って当然だろうし、一方、一人称小説の場合、その主観は登場人物の主観であって作者のそれではないことがはっきりしている。
 だが三人称小説の地の文に主観が入ると、それがあたかも客観であるかのごとく読者に強要される不快感がある。
 三人称小説の地の文は、ルポの地の文とも一人称小説の地の文とも明らかに違う。そこは客観の場所なのだ。もちろん客観の場所にカギ括弧なしで登場人物の主観が書かれることはある。だがその場合、それが登場人物の主観であることは読者に明瞭に示されているべきだろう。
 たぶん作者と考え方の一致している読者にはそういう違和感はないのだろう。彼ら双方にとってそこにあるのは客観だけだとしか認識できないわけだから。だが作品が不特定多数を読者対象とするなら、客観と主観の問題はもっと考えてみる必要がある。
 ここまでは前半の感想である。
 だが後半、居酒屋でのクロダイさんの独演あたりから、にわかに小説らしくなり、引き込まれる。ここに書かれたクロダイさんの主観は、越智の主観とも違うし、もちろん作者の主観とも違う。
 それ以前に五味や佐伯の生活や思念が書かれてはいる。だがそこでは越智は観察者である。
 クロダイさんはそれを許さない。彼は越智の存在そのものに切り込んでくる。ここには葛藤がある。
 だから小説が生きる。観念を離れた生きた現実となる。
 クロダイさんの主張は主観ではあっても単なる観念ではない。経験に裏打ちされた実感がそこにはあり、それが作品を、紙の上に書かれた文字から生きた現実世界にする。
 そしてここまできて、そこまでに書かれた一切が生きてくるのである。
 日本社会の変化、労働運動の衰退、過去自分たちが闘ってきた労働運動といま闘われている派遣切り問題との決定的な違い、五味や佐伯がいかにとてつもなく大変な状況で闘っているか、3.11は人々の眼をそらさせてしまったのではないか、日本社会の危機は以前も以後も変わりなくあり、そこにはもっと何か異なる闘い方が求められているのではないか。そういったすべての問題を作品は訴えかけてくる。
 ぼくは今回田島一という作家を見直した。この作家は書斎に籠もることなく闘いの場に出ていってその場でものを考えている。
 前半部分に関する感想はあくまで個人的なものである。単にぼくの個人的好みなのかもしれない。読者も様々であれば、作者も様々だ。これが同人雑誌であれば、ぼくもそこまで書かない。ただ不特定読者に対してこれでいいのかという問題提起である

仙洞田一彦「砂の家」  石崎徹

仙洞田一彦「砂の家」  石崎徹

 文章は違和感なく読める。さすがだ。だが読み終わってみると何もない。それでどうしたの? という感じ。
 彼の作品はかなり読んだ気がするが、はじめのうち昔の労働運動に関するものが多かったと思う。昔のことでありながら現代に通じるものを感じさせてくれて、ものを見る角度が確かだと思えた。
 最近は現代を扱おうとしているようである。その意図はよいのだが、てこずっているように見える。
 ここでもパターン小説(類型小説)であると言わねばならない。ありきたりのことをありきたりに書いているだけである。これは文学ではない。ジャーナリズムだ。
 文学というからには紙切れでないもの、生きた世界が欲しい。生きた世界とは何か。それは一人一人が個性を持っている世界だ。新聞から切り抜いてきたような経歴書はいらない。仙洞田一彦でなければ創れないような人物像を創ってほしいのだ。
 文章のうまさだけで言うなら新聞記者の方がずっとうまい。彼らは文章のプロだ。だが、彼らには生きた世界を創りだすことはできない。そこがジャーナリズムと文学との違いだと思うのだけれど。

仙洞田一彦 「砂の家」を読む   鬼藤千春

仙洞田一彦 「砂の家」を読む   鬼藤千春

 主人公の石水良夫は、定年退職してそろそろ八年になり、妻の和子も二年近く経つ。彼が高校を卒業して東京に出て来たのは、東京オリンピックの年だった。一九六四年である。二人は家を持つという夢をもって、一緒に働き続けて家を建てた。良夫は、家を手に入れたいまは、ささやかではあっても夢の実現者、人生の成功者だ、と思っている。
 良夫には、息子と娘の二人の子どもがいる。息子の満男はもうすぐ四十になるが結婚していない。IT関連の会社に勤めており良夫夫婦と同居している。娘の美和は七年前に結婚して家を出ており、しずくという子どもがいる。
 家族三人の夕食が終わってしばらくして、満男は「俺、会社辞める」と言った。満男の会社では、三十五歳を過ぎたら、管理職でない者はいらないという。会社に出勤したら、「石水君、何か忘れ物か」とか「まだ用事があるのか」と部長が、嫌がらせを言うのだった。また、トイレに立とうとすると、「まとめた私物を持たなくていいのかとか、命じてもいないのに出張ですか」と訊いてくるのだ。「俺には居場所がないんだ」と満男は言う。
 が、良夫は「会社を辞める」というのを聞いて狼狽する。「負けるな。いや、ちょっと待て、初めて聞いたので混乱しているんだ」さらに「働かなくたっていい、会社に居続けてくれ。それがお前のためにもなるんだ」と、惨めな思いで説得しようとする。
 それは、良夫にとっては「この土地、家を孫やその先まで継いでいくんだ」という思いがある。また、美和の夫の信雄もまた、二、三年前に、仕事が合わないと言って、会社を辞めてアルバイト暮らしをしている。そして美和一家が、良夫の夢の象徴ともいうべき家に越してくるというのだった。
 「みんな勝手なことばかり言いやがって。みんな出て行け。ここは俺の家だ」良夫は叫ぶように言った。
 私はこの作品を興味深く読んだ。文学的というか、社会と人間を巧みに掬い取った作品であるという印象をもった。松本清張に「砂の器」という優れた作品があるが、それは「砂の器」がもろく崩れてゆくことを象徴的に表した題名である。
「砂の家」はそれを意識したのかどうか、いずれにしても「夢だった自分の家」が、危うくなっていることを、この作品は描いている。だが、「建築物の家」というよりも、いままで築いてきた主人公の家庭、家族の問題の方がより大きいテーマのように思える。
「家を持つ」というのは、「夢の実現者、人生の成功者」というより、ごく普通の幸せを手に入れた、といった方があたっているように思う。そのごく普通の幸せの家庭、家族が、息子のリストラや娘婿のアルバイト暮らしによって、もろくも崩れようとしていることを描いていると思う。
「砂の家」というより、「砂の家族」という方が的を射ていると思った。
作者は「建築物の家」にこだわりすぎているように思う。そこに違和感を持たざるを得なかった。しかし、救いようのない小説世界だが、今日の社会と人間を反映した、印象深い作品である。

見てから読むか? 笹本敦史

見てから読むか?  映画「舟を編む」感想   笹本敦史

「読んでから見るか。見てから読むか」は30年余り前、文庫と映画をセットで宣伝して成功した角川のキャッチコピーだが、原作を先に読んで、それが気に入った作品だった場合、映画を見た時の満足感は低いような気がする。また、先に映画を見てしまうと、原作を読んだ時に映像の印象が強く、小説として純粋に楽しめないことが多いと思う。(「泥の川」のような例外もあるが)
最近では「まほろ駅前多田便利軒」がそうだった。
 三浦しをんの原作は直木賞受賞作、映画はキネマ旬報ベストテン4位、と共に評価の高い作品である。映画はおもしろかったのだが、先に映画を見てしまったために原作は展開がわかってしまい楽しめなかった。それだけ原作に忠実に映画が作られているということでもあるのだが、やはり見てから読むのは考えものなのかも知れない。

 そこで映画「舟を編む」である。原作はやはり三浦しをんの本屋大賞受賞作。原作は読まずに見た。
 言葉に対する特殊な感性ゆえに、人とのコミュニケーションに問題を抱える馬締光也(松田龍平)が、ベテラン編集者が定年退職した辞書編集部へ異動になる。
完成までに十数年かかるという新しい辞書の編纂は出版社にとってはお荷物でもあり、出版中止の噂が流れる。先輩編集者の西岡が既成事実を作って辞書編集部を継続させることに成功するが、人員削減を求められた西岡は自ら編集部を去る。期せずして責任者になってしまった馬締は監修者の松本、契約社員の佐々木らと辞書編纂に取り組む、というのが主軸のストーリーである。そこに馬締と大家の孫、香具矢(宮崎あおい)の恋というサイドストーリーが絡む。

 辞書編纂という地味な仕事を退屈させないストーリーに仕上げた力は見事と言って良い。常に用例採集(言葉集め)のためのメモを持ち歩き、辞書に掲載する見出し語を選定し、語釈(言葉の解釈)をめぐって議論を交わす。なにしろ見出し語24万という広辞苑や大辞林なみの辞書であり、気が遠くなるような作業には違いないのだが、それをとても魅力的に見せてくれる。
 今の時代、紙の辞書が新たに編纂されるということはないのかも知れない。しかし、電子版になろうが、旧版の改訂だろうが、基本的には同じような情熱を持って、同じような作業が行なわれるのだろう。

松田龍平が「まほろ駅前多田便利軒」とはまったく違う主人公を演じていておもしろい。宮崎あおいはさすが。板前としての立ち姿も美しいが、香具矢が馬締に手紙の真意を問いただすシーンは独擅場と言っていい。いい加減なようで、実は気のいい先輩西岡をオダギリジョーが好演している。

 さて、映画を見た後で、原作を読もうかどうか、思案しているところである。

「春うらら」  妹尾倫良

春うらら
              妹尾倫良


薬局で四週間分を受取る

帰る道すがら 金を請求されず

支払いもしなかった と気付く



急ぎ引返し 窓口に立てば

先客のつり銭が 引取手なく

思案顔



笹本敦史 「わだかまる」を読む  鬼藤千春

 「わだかまる」 (笹本敦史 まがね54号)を読む   鬼藤千春

 父を殺したのは母なのか、姉なのか。それとも事故だったのか? その真相は定かではない。だから「わだかまる」という題名になっている。「わだかまる」を辞書でひけば、「不満・不信などの感情が心の中にたまって、さっぱりとしない」とある。
 この物語の発端は母からの電話である。
「お父さんが死んだよ」母の声だった。
「死んだんだよ。階段から落ちて」
「どうして階段から……」と私。
「私が殺したんだよ」と母。
 こうして物語は始まる。
 父は高校で倫理社会などを教える教師だった。地域では知性的な人格者として振舞っていた。が、彼は「若いころ飲み屋の女と浮気したり、酒を飲んでの暴言、暴力。そして兄が自殺した原因が父にあると言っていたこと」などの性向があった。特に母に対しては、「殴る、蹴る、髪の毛を引っ張って引きずるなど常軌を逸した暴力が何度も繰り返された」
 母は認知症を患っている。「たまには徘徊しているところを町内の人が保護したりしたことはあった」
 母は「自分が階段から突き落とした」というけれど、隣の陽子は、私の姉の景子が実家に帰っているときに「父の死」が起きたと言った。が、陽子は「あっ、そうか。景子ちゃんの車が来てたのは前の日か」と言い直した。このあたりも、判然としない。
 父の暴力は死の直前まで続いていたようだ。「亡くなった人の悪口を言うのは心苦しいんだけど、お父さんの怒鳴り声がしょっちゅう聞こえて、その方が迷惑だったの。あれじゃ奥さんがかわいそうだってみんな言ってたぐらいよ。景子ちゃんもそれを心配して来てたんじゃないかなあ」と陽子さんは囁いた。
「姉が来てた時はどうでした? 事故の前の日とか」私は訊いた。
「聞こえてたわ。景子ちゃんでも抑えきれないんでしょうね」
 陽子さんの言葉である。
 この物語で作者は何を語ろうとしたのだろうか。
 「私が生まれ育った家」を語りたかったのではないのだろうか。
 「天井裏に大きな蛇がいる」という母。その頃から母の精神は病んでいたのかも知れない、と私は思う。そして、兄の自殺。それも母がいうには「あの人(父)が殺した」という。さらに母の認知症。父の浮気、飲酒、暴力、暴言があった。「私にとって、生まれ育った家の思い出は暗く重苦しいものでしかない」
 「何を、どのように書くか」というのは、私たちがいつも心得ていなければならないものである。作者は「暗く重苦しい家の在りよう」を「ミステリアスの手法」で、追求しようとしたに違いない。
 この作品は、スリリングで読み手を小説世界にいざなう。その巧みな筆力は見事である。が、たしかに魅力的な小説には違いないが、「文学とは何か、小説とは何か」を自問する時、その本質に迫り切れていないように思う。私たち読者が、文学に求めるのは「人生とは何か、生きるとは何か」ではないのだろうか。果たして「ミステリアスの手法」は成功したといえるだろうか。

長瀬佳代子 「沈丁花」を読む    鬼藤千春

 「沈丁花」(長瀬佳代子 まがね54号)を読む    鬼藤千春

 これは、独居老人という問題を扱った作品である。今日の日本の社会は、老人の独り住まいという情況は稀ではなく、今後ますます独居老人は増えていく傾向にある。この作品はそこに焦点をあてている。「何を書くか」という、モチーフもテーマもそこにある。
 主人公の妙子も独居老人である。隣家に棲む笹原も同じく独居老人である。ある日、市役所の職員が妙子のところに訪ねてきた。笹原のところにきたのだが、鍵が閉まっていて入れないという。
 職員がいうには、笹原の友人から連絡があって、彼がケイタイに出ないので、家に行って様子を見てほしい、と市役所に電話があったということだ。
 妙子は鍵を預かっていなかったが、以前老女が棲んでいた時、物置から母屋の台所へ入れる、というのを思い出した。それで区長が先に入り、職員と妙子がそれに続いた。二階に上がった区長が「救急車」と大声で叫んだ。
 笹原は二階で倒れていたのだ。笹原は救急車で病院に運ばれたが、脳こうそくだった。もし発見が遅れれば孤独死という事態を招いたかも知れない。妙子は笹原のことを考えて、他人事ではないと思った。妙子も独り住まいであり、身内といえば、東京に甥がひとりいるだけである。
 万一の場合を考えて、妙子は、身辺整理は必要だなと強く思い始めていた。
 この作品は、今日的な問題に焦点をあて、独居老人の在りようを掬い取って読者に提示している。独居老人問題が読者の心に留まるように描いている。小品だが巧みな作品である。
 妙子は庭先の花壇に目をとめ、「沈丁花は、枝が半分枯れて弱々しい」という描写を、最初の方で描いている。これは伏線である。巧いな、と思う。後半で「笹原の妹から貰った沈丁花は、勢いよく育ち、いずれ大きくなり芳ばしい香りを漂わしてくれるだろう」と書いている。「弱々しさと勢いのよい沈丁花」それを作者は巧く描いている。
 しかし、この作品は素描の域を出ていないし、どこか物足りない。深さがほしいのだ。また、文学サークルの描写は不要のように思う。

妹尾倫良 「カワセミ」を読む  鬼藤千春

「カワセミ」(妹尾倫良 まがね54号)を読む    鬼藤千春          

「お姉さん」と呼ばれる女性が、町内会の会費の集金に行って物語は始まる。物語といっても、エリカの「ひとり語り」である。
 エリカは今、35歳である。彼女は病院通いをして働けないので、生活保護を受けながら、アパートでテレビを観ながら退屈な日々を送っている。
 エリカは、いままでの人生を「問わず語り」で振り返ってゆく。彼女は高校の時、妊娠をして学校を中退した。結婚はしなかったけれども、17歳の時、女の子を産んで自分で育てている。と、いっても、田舎の母が育てエリカは金を送っていただけだ。子どもを育てるために、収入のいいピンクサロンで働くようになった。
 彼女は、高校の時の男、ピンクサロン時代に「大人しい公務員の彼」、そして、征夫という男という風に男性遍歴を経てきている。
 征夫は製紙工場に勤めていたが、今は代行運転の仕事をしている。彼とはピンクサロンの時代に出会って恋に落ちた。しかし、エリカが病気で入院している時、征夫はエリカのコーポから「テレビや冷蔵庫、洗濯機やベッド、羽根布団や毛皮のコート、洋服ダンスや金のネックレス」など、全部持ち出して、売り飛ばしてしまった。そんな男である。
 これがエリカの人生である。悲惨な人生だ。「ひとり語り」であるが、エリカの人物像はよく描かれている。エリカの人生の断面を切り取って提示している作品である。「何を書くか、どのように書くか」を考えてみると、「ひとりの女の生きざまを書く」というモチーフがあり、「ひとり語り」という手法に作者は挑戦している。が、この小説には何かが足りない。「文学とは何か、小説とは何か」を考える時、この小説は風俗を描いているが、その域を越えるまでにいたっていない。読者はそれを越えてほしいのだ。その先にある世界を読者は見たいのである。それが小説世界というものだ。
 ただ、最後の中学時代の夢か回想か、あの場面は生きている。カワセミの美しさ、生命の勢いというものを、中学生のエリカは真っ直ぐに受けとめて、将来への希望を見出している。今の自分との落差を象徴的に描いている。

「警察を呼べ」  笹本敦史

 警察を呼べ  笹本敦史

「やめて下さい」
 突然若い女の声が響いた。電車を埋め尽くす乗客の視線が一カ所に集まった。声の主と思われる女子高生が恰幅のいい中年男を睨んでいた。その目がしだいに潤んでくる。
「痴漢! この人、痴漢です」
 中年男の手を誰かがつかみ、持っていたカバンが落ちた。
「違う。誤解だ」
 電車が駅に止まると中年男は二人の若い男によってホームへ引きずり出された。一人はサラリーマン風で、もう一人の茶髪は大学生だろうか。茶髪が中年男のカバンをぶら下げている。泣き顔の女子高生が後についてくる。
「誤解だ。私は何もしてない」
「この人です。間違いありません」
 女子高生のヒステリックな声が響き、周囲の視線が集まった。
「ここで騒がない方が身のためだぞ」
 サラリーマン風が低い声で言った。
「警察を呼んでください。痴漢です」
 事務所に着くと茶髪が言った。事務所には若い駅員が一人しかいなかった。
「待て。そもそも君たちには私を拘束する権限はない」
 中年男が高飛車に言った。
「はあ? 何言ってんだ。おっさん」
 茶髪が馬鹿にしたように笑った。
「君たちは知らんだろうが、民間人が人を拘束するためにはそれなりの理屈が必要なんだぞ。まず現行犯であること。そして逃亡の可能性があることだ」
「それがどうした」
 サラリーマン風が戸惑いながら言った。
「まず現行犯かどうか。これは百歩譲って、見解が違うということにしておこう。しかし逃亡の可能性だが、これはまったくないと断言できる」
「断言って何だよ?」
 茶髪が気負って言った。
「私は自分の名前も身分もここで明かすことができる。逃げも隠れもしない証拠だ」
「それでは名刺をいただけますか?」
 駅員が丁重に言った。
「よかろう」
 中年男はもったいぶって名刺入れを出した。突然、茶髪が手を伸ばしてそれを奪った。
「何をするんだ」
「ごまかされないためだよ」
「そんな小賢しいマネはせんよ」
 中年男は鷹揚に言った。
 茶髪は名刺入れを開き、指を入れた。サラリーマン風がそれを覗き込んだ。女子高生は予想外の展開に戸惑っているようだ。
「D社総務部長、太田吾郎……」
 茶髪が名刺を読んで、サラリーマンに手渡した。その後、名刺は駅員の手に渡り、女子高生にまわされた。
「わかっただろう。私は大企業の幹部だ。電車で痴漢を働くようなケチな人間ではない」
 太田吾郎が言い放った瞬間、茶髪があからさまな舌打ちをした。
「オレの親父の工場はお前のところの下請けだった。つぶされたんだよ。単価を切り下げられたあげくに、突然取引を止められて……」
 茶髪は拳を握り締めた。
「いや、落ち着いてくれ。事業をやっている以上、止むを得ないこともあるんだ。会社も生き残っていかなければならない……」
「何言ってやがる」
 サラリーマン風が怒鳴った。
「会社も生き残っていかなければならないってセリフ、オレも言われたよ。あんたの会社に派遣で入っていた去年のことだ。そう言われて首切られたオレの気持ちがわかるか。あれから失業者だ。今日も面接を受けに行くところだ」
「待ってくれ。それは申し訳ないことをした。もし仕事がないのなら私が口を利いてやってもいい。それだけの力は持っている」
「それだけの力があるからって、痴漢したことをもみ消そうとしてるのよ、この人は」
 女子高生が叫んだことを言いがかりだと指摘する者はいなかった。
「みなさん、落ちついてください」
 駅員が割って入ろうとした。
「あんた、このおっさんの味方か?」
 茶髪が怒鳴った。
「いえ……、実は十年前、D社の入社試験を受けたんですが、試験官がとても横柄で」
「それなら、手っ取り早く、こいつを痛めつけてやろうぜ」
 サラリーマン風の手にはこん棒が握られていた。
 茶髪と女子高生が頷いた。駅員がカーテンを引いた。部屋が薄暗くなった。
「待て、警察を呼んでくれ」
 太田吾郎の叫び声は電車の轟音にかき消された。

「さかな」 妹尾倫良

さかな 
        妹尾倫良


娘たちが歩きながら喋っている

  わかさぎって とり さかな どっちよ

  とりよ とり

弥生の風に白い胸をさらしている


小声で正解を伝えたいけど やめよう

下を向いて歩く



「まがね」54号   石崎徹

「まがね」54号   石崎徹

 笹本敦史「わだかまる」
 洗練された文章、筋の運びもうまい。登場人物も、(描写はわずかだが)なんとなく魅力的で、読ませる力のある小説である。楽しませてもらった。
 これだけでも短編のありかたとしては十分だと思うがあえて注文を付ける。
 読後が何となく物足りない。すごいことになりそうなところでぷっつり切られてしまったような。
 最後の2行は読者を混乱させる。これをヒントに解読しなさいと強制されるような趣きがある。だが、読者の読み方は往々にして作者の意図とは無関係である。ぼくはあえてこれを無視して読んだ。ゆえに作者の意図から離れるかもしれないのだが。
 盛り上がって終わってほしいところを、ずるずるとすべってしまったような印象がある。
「姉が殺したのかもしれない」という疑惑の生まれるところに第一の山がある。この疑惑を最大限まで盛り上げて終わる方法があっただろう。
 一例としては主人公と姉の眼がふと合い、そのとき主人公の眼の中に何ごとかを悟った姉が眼をそらした、というような、あるいはほかの何でもよいのだが、ここを山にしてぷっつり切る方法はありえただろう。
 だが、作者は続けて第二の山を設定する。
「知らないのは自分と妻だけで、親戚と町内とはみんな知っていて知らない顔をしている」のかもしれないという新たな疑惑の発生。
 これはこれで非常に恐ろしい情景になる。だがそれを表現するには枚数が少し足らなかった。姉を含めてひとつのたくらみに結託している集団のただなかに、妻と二人異邦人のように孤立しているという情景を描き出すには、かなりの伏線を必要としただろう。
 この第二の山は作者の「風に吹かれて」を連想させる。状況は違うが、情報の欠落というテーマへの作者のこだわりを感じる。自分は何を知っていて何を知らないのか、それさえ定かではないのではないかという問いかけを感じるのである。
 まあ、これを一例として読者にいろいろ考えさせるとすれば、ここで切った作者の意図は実現したということかもしれない。
 気になった点をひとつだけ。
 父親の造形である。「怒鳴り声に近所が迷惑している」「酒場の女への執着が世間に知れ渡っていて、出世を逃した」ような人物が「知性的な人格者としてふるまっていた」? もちろん本人はそのつもりでふるまっていても周囲は認めていなかったということなのだろうが、「知性的な人格者としてのふるまい」という表現はおのずから周囲からの評価を内包せざるを得ないような気がするのだが。特にそのあとの数行がそんな先入見を与えるので、続く段落に来て混乱してしまう。

  長瀬佳代子「沈丁花」
 いつもながら、よい雰囲気を醸しだす、洗練された落ち着いた文体。笹原という人物に興味をひかれたのだが、後半消えてしまって残念。「身辺整理」という言葉に、充分に生きてきた人の余裕が感じられて、うらやましい思いがする。いま気がせいて生きているぼくの身辺は、いよいよ乱れるばかり。でも長瀬さん、もう満足ですか。「谷間の小屋へ」(48号)や「待つ女」(52号)のようなショッキングな作品をまた書いてください。

  妹尾倫良「カワセミ」
 この作家としてはたぶん異色作。面白く読んだ。こんな才能もあったのかと再認識した。ただファンタジーを読むような感じで読んだ。 
 それでもいいと思うのだが、そういう読み方になったのは、作品の現在がいつなのか分からないからだ。征夫と勝香は遅くとも戦中の生まれ、35才のエリカよりはずっと年上だが、まだバリバリ働いていて、製紙工場に戻る話とか出てくるから、45から50才くらい? 
 1980年代後半の話だろうか(代行運転っていつ頃から始まったんだっけ?)。とするとエリカは50年代前半の生まれと考えればよいのか。それならブロンソンも分からないではない。5才年上の兄がいるのだから、エリカの親は20年代の生まれ? その世代の親ならわが子を男女で差別する親もいたのかもしれない。
 というふうに計算していけば、納得できないでもないのだが、やはり現在がいつなのか分かるような表現が欲しかった。
 エリカは少なくとも現代の35才には見えない。もっといっているか、昔の女という感じがする。
 そこでややこしいので、ファンタジーであるとして読めば、作品世界に入りこみやすいのである。そう、宮崎駿の作品を読むようなつもりで読めば、堪能できる。

  田中俊明「滅亡の序曲」
 いつのまにか文章も筋の運びも洗練されており、二年前とは別人のごとくである。日本史への広い知識に裏打ちされていて、違和感がない。
 もっともぼくは戦国時代に無知なので、その点については発言権がない。
 今回小説になっていると感じたのは、氏真兄妹を主役に配した構想の妙だ。氏真と言えば、ぼくが思い出すのは何十年も前大河ドラマで見た、眉を剃って丸い点をつけ、薄化粧に、狩衣烏帽子姿で蹴鞠に興じ、家康(当時元康)を嘲笑っている姿だけである。今回の小説はそのイメージを一変させてくれた。よいところに焦点を当てたと思う。兄妹の会話を通じて当時の政情、武田の内情を明らかにするとともに、兄妹それぞれの心の思い、生き方をも描き出している。その筆使いは見事である。
 作者の理念がよく表れていると思ったのは、30ページの終わりから、「意地を捨てて兵の命を救う」と氏真に言わせているところ。ほんとうにこの思念が天皇制軍隊にあれば、あれほどの犠牲を出さずに済んだのだ。
 わかりにくかったのは、32ページ終わりから、信虎の一件である。特に信虎の心理がわかりにくい。多少説明が欲しかった。
 あと、タイトルは作品のこの長さには大げさすぎる気がする。それと最初のところで、遅すぎた進軍自体を「滅亡の序曲」といったん言っておきながら、最後には勝頼への偏愛を「滅亡の序曲」と言いなおしている。もちろんどちらもそうなのだろうが、「滅亡の序曲」の意味する対象が短い作品中で変わってしまうのはまずいであろう。

  井上 淳「ある婚活の場景」
 短いがたいへん面白い。この人はやはり才能がある。書けない、書けないが口癖だが、書けるじゃないか。こういうものをどんどん書いていけば、いい作家になる。
 男と女のセリフの裏を想像して読んでいくと、なかなか含蓄がある。ユーモアもある。こういうものを目差してください。

  野中秋子「小説が出来ない」
 まだ「まがね」のブログには転載していない(※注)が、個人のブログで公開したぼくの「石」にそっくりの構造で、最後のセリフがそのままなので驚いた。早く公開しておいてよかった。これを読んだ後では公開できなかっただろう。書けない作家が無理に書くとこういう発想になるのかな。
 しかし、これは立派な小説である。まず題名が人を食っていてユーモラスである。随想の調子で始まるのだが、二十代後半にしか見えない五十才のサーファーの出現で俄然小説になる。前半でごちゃごちゃと愚痴っているだけに余計面白い。ヘビーな自分と照らし合わせて自由人が浮かびあがる。
 でもこの壮年サーファー、前向きな人だからたぶん大丈夫だろうけど、厳しい時代に入ってるよ、老後は大丈夫かい?

(※注)2月28日に転載しました。

  桜 高志「認知症の母」
 実際に本人の口から聞くととても面白い話なのに、どうしてこんな文章になってしまうんだろう。つまりは口達者な人は文章に向かず、文章の書ける人は喋れないということなのか。面白い(単に滑稽というだけじゃなく、人生の深みという意味でも面白い)題材なのである。
 これでは芝居とそのト書きである。芝居は人間が演じるからよい。小説には文章しかないのだから、その文章で情景を作りださねばならない。この長さならこれだけ何でもかんでも突っ込むのは無理である。この作者は自分の頭にあることをすべて喋ってしまわねば気が済まない。
 取り上げるのはひとつかふたつでいいのだ。ばあちゃんがそのセリフをしゃべっているときのその場の風景、ばあちゃんの表情、声の調子、身ぶり、手ぶり、芝居を見ている人が盲目の人に説明する気持ちになって、事細かに書いてほしい。そうでなければ読者にはなにも伝わらない。
「さらに信じられないことが」そんなセリフはいらない。信じるか信じないか決めるのは読者であって、作者ではないのだから、作者の判断を差しはさまないでほしい。作者はただ客観的に見たままを書けばよいのである。そのときどんなスタイルで書くか、何を書いて何を書かないかというところに作者の意図はおのずから現れる。
 面白い題材をいっぱい持っているのだから、頑張ってほしい。題材を持つということは書く人間の一番の強みです。

  鬼藤千春「掌編四題」
「駅」
 すでに合評で述べたので、かいつまんで書く。
1. 子供の書き方はとても良い。
2. 言葉の使い方、テニオハを含めて、もう少し丁寧に。
3. 冒頭の時間的位置がその描写に反映されていない。(耕一はこのとき子供への「殴りつけたい」ほどの怒りを「やっとの思いで」抑えているはず)
4. 若い方から首を切るという会社はないだろう。

「匂い」
 この作品は冒頭から非常に良い文章でひきこまれた。ところが後半、がらりと文章が変わってしまう。後半には何もない。前半の明王院の描写で全編貫いてほしかった。このくらい良い文章が書けるのだから、特に短い作品はやはり磨いてほしい。あらすじを発表しても意味ないと思うのだが。あらすじは生きている以上誰しも山のように持っている。それを文学化できるかどうかだと思うんだけど。

「捜し物」
 これはまさにあらすじだが、題材としては面白いものを多く含んでいる。
 この題材の作品化を望む。作者としてはおそらく最も困難な題材なのだろうが。個人的体験として書くのでなく、どう文学化するかという課題である。それはフィクションであるかないかということではなく、文学たり得ているかどうかということだと思う。

「供物」
 これについては言うべきことはない。

「いたずら」  妹尾倫良

いたずら  妹尾倫良

秋の中頃 台風で
二階ベランダの襖がとんだ
汚れて穴があいて 近くの空地に落ちていた
取りもどして
裏の洗濯機の横へ立てかける

捨てるのは決めかねた
一枚だけの襖 あと一枚は
以前の住民が処分したのだろう

一週間後の月曜の朝
洗濯機を使う時 見たのは
空のひしゃげたマッチ箱 湿った軸木 数本
焦げたマッチの軸 十本ばかり
襖紙の燃えかす
燃えた部分は地面に近い
細い露地と車道に面した
洗濯機置場

次の日曜の朝
東隣の主婦が
小学二年生の 男の子の手をひっぱってきた
――すみません ウチの子がやったんです
  マッチを使いたかったんです 保育園児
  の妹がさっき教えてくれて すみません
  ウチはパパが吸わないので ライターも
  置いてないし まさかこんなことするな
  んて 考えもしなかった マッチはどっ
  かで拾ってきたらしいです  

――あれば使いたくなるね 燃えやすいもの
  を置いたオバチャンも悪かった

男の子は小さな声で ゴメンナサイをいった
今どき珍らしいマッチを見つけて 使いたく
なるのは心理かもしれない
襖は処分した

4月例会のご案内

4月例会を以下のように開催します。

日時 4月28日(日) 13時~16時半
場所 岡山市民会館 303号室

内容
・まがね54号の合評
 「わだかまる」 笹本敦史
 「沈丁花」 長瀬佳代子
 「カワセミ」 妹尾倫良

・中国地区研究集会について

「黒い絵」  鬼藤千春

 黒い絵   鬼藤千春

 仮設住宅の周りの斜面の雪解けもすすんで、褐色の土が表われるようになった。ふきのとうが、雪を割って鋭い芽を伸ばしている。ようやく北国にも、春の兆しが感じられるようになった。あの日から二年経った。
 瑠美子は、手提げかばん作りの内職に余念がなかった。ポップスの楽曲を聴きながら、懸命に針の手を動かしていた。
「ただいま……」
 か細く弱々しい声を挙げて、麻里が玄関の戸を静かに開けた。
「おかえり。何よ、いつも元気がないわね。もうすぐ小学三年生になるのよ。もっと、ハキハキ言えないの。蚊の鳴くような声しか出せないなんて、しっかりしてよ」
 麻里は玄関に佇んでいた。
「マリッ。さあ、ぐずぐずしないで上がっておいで。おやつを出してあげからね」
 瑠美子は、台所へ立っていった。
 麻里はランドセルを投げ出して、コタツにもぐり込んだ。白熊の縫いぐるみを抱いて、頬を押し付けていた。彼女はいつもこの白熊と一緒だった。夜寝るときも、もちろん手放すことはなかった。
「ほら、マリッ。クッキーだよ。さあ、お上がり」
 麻里の身体を揺すりながら、瑠美子は言った。
「うーん、いまは欲しくない」
 麻里は疲れたようすで、起き上がろうとしなかった。
 ランドセルのほとりに、輪ゴムで留められた画用紙が一枚転んでいた。
「何よ、マリ。これは学校で描いたんだね。見てもいい?」
 丸められた画用紙を、瑠美子は取り上げた。
「いやッ、見ちゃいやッ。やめてよ!」
 麻里は身体を起こして、瑠美子を睨んだ。
「いいでしょ。母さんにみせてよ」
 瑠美子は輪ゴムをはずし、画用紙をコタツの上に広げた。
「もういやッ。母さんのバカ。よしてよ!」
 麻里はもう一度倒れ込むように、白熊の上に身体を投げ出した。彼女は頬を白熊にすり寄せて、嗚咽を洩らしていた。
 瑠美子は、その絵を観てびっくりした。小学二年生が描く絵だろうか。彼女はカンバス一面、真っ赤な画家の絵は観たことがあった。だが、麻里の絵は黒のクレヨンで、白い画用紙を塗り潰していた。
 麻里には二十四色のクレヨンセットを持たせている。赤、青、黄など多色のクレヨンがあるにもかかわらず、黒一色で画用紙は染められていた。瑠美子は狼狽の色を隠せなかった。あの日のことが甦ってきた。
 まず、地の底から、突き上げるような振動がやってきた。そして、しばらく家が揺れた。棚のものやテレビなどが落下して、部屋の中は足の踏み場もないほどに、いろんなものが散乱した。
 麻里は泣き喚いて、瑠美子にしがみついて離れなかった。彼女は麻里を抱き上げて、家の外へ飛び出していった。少しのあいだ二人は、広場にうずくまっていた。そして、瑠美子は放心状態で、しばし立ち尽くしていた。
 そのうち、消防車が高台へ避難するようにスピーカーで呼びかけた。周りの人たちは駆け足で、山の高台へと急いだ。瑠美子も麻里の手を引いて、高台へと向かった。一瞬、夫の英樹のことが頭を過ぎったが、一目散に高台を目指した。
 高台に登ってまもなくだった。海辺の潮が沖の方へずっと引いていった。その直後だった。白波を立てて、潮が盛り上がって押し寄せてきた。それはまるで龍の背中がうねっているようだった。
「たいへんだ。津波だ!」
 誰かが大きな声で叫んだ。
 津波は、船を突き上げ、家々を次から次に呑み込んでいった。瑠美子の家も一瞬にして呑まれていった。
「あッ、家、イエが――」
 瑠美子は叫んだが、声にはならなかった。
 麻里は瑠美子に抱かれて、じっと津波を睨んでいた。津波は海の色ではなかった。褐色を帯びた津波が荒れ狂っていた。高台にも蛇の舌のような波が打ち寄せてきた。麻里は瑠美子にしがみついて、震えていた。
 英樹は水産加工会社に勤めていたが、逃げ遅れて、津波に呑み込まれてしまった。瑠美子は、夫を喪い、家を呑まれて、ただ茫然とするばかりだった。
 瑠美子はコタツの上の絵を観ていたが、眼は涙で滲んで、ぼうっとかすんでいた。だが、黒一色に塗り潰した麻里の心は、はっきりと読みとることができた。
 黒一色に塗り潰された黒い絵は、コタツの上で何かを訴えていた。それは麻里の心の闇だった。
 瑠美子は思わず麻里を強く抱きしめていた。

黒田夏子 「abさんご」  石崎徹

黒田夏子「abさんご」 石崎徹

 この作品を数秒ないし数分で放り投げた人も多いようだが、最後まで読んだ人も、そのかなりが、この作品についての語るべき言葉を探しあぐねたのではなかろうか。
 世評通り読みにくい作品である。だが読み終わると確かに何かが残る。簡単には忘れ去ってしまえない印象を心に残す。それは何なのだろうか。
 ぼくは普通感想を書き終わるまで人の批評は読まない。誰の影響も受けない自分自身の感想を書きたいからである。しかし今回は思いあまって選評をはじめ、「民主文学」4月号の岩渕剛による時評、およびインターネットで公開された「早稲田文学新人賞」の蓮実重彦の選評などを読んだ。(朝日新聞の時評はうっかり読み損ねて、ゴミに出してしまった)。
 その中からおぼろげに浮かんできたことがいくつかある。
 小川洋子は、「たとえ語られる意味は平凡でも、言葉の連なり方や音の響きだけで小説は成り立ってしまう」と述べている。そのとおりなのだ。語られているのは極めて平凡なことにすぎないのである。しかし平凡なことを語り口で読ませ強い印象を与える作家は珍しくないし、その人々が(それぞれ個性的ではあっても)ことさら特殊な語り方をしているわけでもないのである。黒田夏子が読者に嫌われると分かっていながら、あえて難解な書き方をしたのには、それなりの理由があるだろう。
 川上弘美は、「ここにある日本語はほんとうに美しいなあと、うっとりしたことでした」と書いたが、選者中ただ一人当作品を切って捨てた山田詠美は、文章についてではなく内容について、「漂うひとりうっとり感」と書いた。また宮本輝も、最終的には作者の才能を認めはしたが、「これでもかというほどの自己陶酔」と書く。
 それも当たっているのである。読者によってはこの「ひとりうっとり」の「自己陶酔」にうんざりする人がいても不思議ではない。ただぼくには、それも作者の計算のうちという気がした。
 奥泉光は、「黒田氏の工夫はただ一つ、小説を読者にゆっくりした速度で読ませることにある」と書いた。好意的な評者にほぼ共通した見解である。
 それが当たらないというのではないけれど、それは意図したことというよりも、結果としてそうなったということではないのか。
 さて何をとっかかりとして具体的に論じるか。「民主文学」の文芸時評で岩渕剛が蓮実重彦を批判したところから始めたい。「文学界」での作者と蓮実氏との対談内容を岩淵氏はとりあげる。
「ある生活のリズム、生活の気配、生活の匂いのようなもの、あるいは生活環境そのものが、戦後あれよあれよと貧しくなっていった。そのことがこの作品に書かれている」
 ぼくは「文学界」を読めていないので、発言の脈絡は分からない。岩渕氏はこれを批判し、「貧しくしたのは〈戦後〉ではなく、戦争に傾斜していった時代の帰結だろう」と書く。
 少しまわり道をするが、岩渕氏にとってこの作品は、「取っつきにくいという印象を与えているようだ。だが、そうした外見を取り払うと」、書かれているのは、「親子の情愛であり」、その「思い入れ」の「強さを感じることのできる作品である」、ということになる。つまり「外見」は取り払うことのできるものであり、内容には共感するということのようである。
 もちろんそういう読み方も可能である。そして内容に共感してもかまわない。だが、小川洋子を引用したときに言ったが、内容そのものは極めて平凡なことにすぎないのである。
 結婚後数年で妻を亡くしたすでに40代になる学者と、その齢の離れた娘がおり、蔵書を戦火から守るために、都会の広々とした家から田舎の小さな家に越してくる、使用人はいたが親子は睦まじく暮らしていた、ところが娘が15歳に達したとき、物事をわきまえない使用人の登場によって、親子関係がズタズタにされてしまう、その娘の心理を描いている。
 ただそれだけではなんていうことのない話である。しかし先に書いたように書き方によっては感動的になる。が、ただ感動させるためだけなら、これほど難解にせずとも可能であろう。したがってこの作品があえて選んだ外見を取り払ってしまっては、作品の意味は失われてしまわないか。
 まわり道をしたが、「文学界」の蓮実発言に戻る。確かに主人公親子の生活の貧困化ははじめ戦争によって訪れる。描かれたような中流家庭にとっては、それはより精神的な貧困化を感じさせるものではあったろう。つまりその意味では太宰治の「斜陽」の小型版ともいえる内容をもっており(山田詠美の「ひとりうっとり感」は落ちぶれていきながら過去に郷愁と愛着を捨てきれない少女の心理について言っている)、そこだけを見るならば、戦後で区切る蓮実発言はおかしい。しかし、この作品に関して、「生活のリズム、生活の気配、生活の匂い」はただそれだけを言っていない。むしろ、60年代以後の高度経済成長の中で失われていった生活様式への、60年以前に少年少女時代を過ごしたものが感じる全体的な喪失感のなかに、中流家庭が戦中、戦後を通じて失っていったものをも含めて言っているのだととれる。蓮実発言の〈戦後〉という区切り方はおおざっぱすぎて誤解を招くとしても、岩渕氏は作品の一番大事な部分を見逃しているようにも思える。
「斜陽」は戦後で終わったが、「abさんご」は現代まで続いているのである。
 この喪失感をどう評価するかということはまた別問題である。年寄りの郷愁にすぎないと言われてしまえばそれきりかもしれないが、それでもどの時代の年寄りもそれぞれ感じることになるだろう喪失感であるとするならば、そこには何らかの普遍性はある。
 ではその喪失感を描きたかったのか?
 そうではあるまい。この作品では内容はたいした意味を持ってはいないのである。このような形式を選んだということに作者の最も強いモチーフがある。
 それは言葉というものへの懐疑ではないのか。a=a、b=b、という、名付けることによって名付けられたものが限定されてしまうこと、そのことによって滑り落ちてしまう諸事情の実相を、名付けられない言葉によって救い出したいという欲望をこの作品に感じる。言葉によって表現され得ることがらなら、人は何も小説など書かなくてもよいのである。人は言葉では伝えきれないものを、物語によって伝えようとして小説を書く。だが、逆説的だが、「abさんご」の場合は、あえて物語によってではなく、「言葉」によってそれを表現してみようとしたように思える。誰もわざと読みにくくして、ゆっくり読んでもらおうなどとは考えないだろう。作者の一生懸命な言語との格闘が、結果として読みにくくさせてしまったのではなかろうか。我々がこの作品から受け取るべきものは、言語へのこの格闘自体なのではないか。
「ひとりうっとり感」という批判について述べる。
 確かにそのようにも読めるし、そこがこの作品の危ういところでもある。
 少女は、使用人に対して階級差ばかりか、人間としての優越感さえ抱いており、それがこの作品の通奏低音として流れている。
 だが、作中いたるところで繰り返される「うかつ」とか、「まぬがれがたいぬかり」とか、「おろかさ」とか、主人公親子を形容する批判的言辞と、作品全体のまどろっこしい表現とが、少女とその父親への批判ともとれる。
 つまりこの作品の形式自体が、作品を作者から切り離し、主人公たちを作者から切り離す作用をするというふうに読めば、回想のなかの少女の「ひとりうっとり感」を、作者は客観的に見ているともいえるのではないか。
 さて、さまざまに論じられうる作品ではあるが、読み返したいという情熱をあまりかきたてないのも事実である。なんといっても初読の読みにくさの記憶が邪魔をする。それがこちらの文学的貧しさなのか、それともこの作品の実験性は認めるとしてもそれ以上には評価できないということなのか、ただちには判断しづらい。(村上龍は「この作品は完成しているので、新人賞にふさわしくない」と言ったが)。
 いまのところ、ぼくが書けるのはこの程度である。

「厄介な問題」   妹尾倫良

 厄介な問題     妹尾倫良

女友達のグループで 旅に出た
温泉に名所旧跡
御馳走のあと散歩して
土産物店に入った
ほしいものがない

美人でおしゃれの友人は
ビーズ刺しゅうを持参していた
車の中で見せびらかす
それなら見せてと
手にとる

ダイヤ ルビー エメラルド
ラピスラズリ トパーズ アメジスト
サファイヤ 翡翠 ムーンストーン
昔はほしかったけど
いまはどうでもいい

ほしいものは何だろう
夢の中で考えた
覚めても考える
答は 答は
誰か教えて下さい