2013年02月の記事 (1/2)

「石」 石崎徹

石   石崎 徹

「じゃ、来月は石だからね」里見が涼しい顔で言った。
 里見というのは三年生で、女で、部長で、まあ、美人のうちかな。だからひっかかったんだ。おれは小説クラブなんか入るつもりはなかった。でも小説は嫌いじゃないから、ま、いいかな、と思っていたら、小説を読むところじゃなくて、書くところだったんだ。
 題を与えるから2000字で書いて来いという。それもアイウエオ順にやるというんだから、めちゃだ。入学早々、「雨」をひとつ書かされた。まだ梅雨も来てないというのに連休つぶして書いてきたら、今度は「石」だってよ。冗談じゃねえや。
 夏休みには30枚書かせて、秋にそれを集めて雑誌を出すのだという。毎年新入生は作文しか書かないから、今年はそれまでに特訓するんだそうだ。三年生といや、受験だろ? いいのかよ、そんなことやってて。秋には交代するらしいけど。最後なのでやけに張り切っている。
 本当はコンピューター関係のクラブに入るつもりだったんだ。ところが初日にもう廊下に呼び出された。
「西尾君ね」
 ちょっと大人っぽい女でどぎまぎした。
「中学校の作文読んだよ。うまいじゃない。うちへ来てよ。小説好きなんでしょ?」
 どう言って断ったらいいのかなと迷っていると、里見がにこっと笑った。その笑顔がめっちゃかわいかったんだ。おれはくらくらっときてしまった。それが運のつきだった。
 クラブは女ばっかりだった。いやなんだよ、こういうの。でもまあ、かわいい子もいるから我慢している。肝心の里見は入部届を書かせてしまうと手の平かえして、つんつんして先輩風を吹かす。「雨」はくそみそにやられた。
 でも「雨」ならね、なんか思いつくじゃん。「石」なんて取り付く島もないよ。何を書けっての。
 おれは帰宅すると親父のパソコンを開いた。スマホなんて持ってないよ。ケイタイだって中学入った時以来の時代モンだ。夏休みにバイトして買うんだ。
 家は一応自宅だ。兄貴と別々に個室を持ってる。ローンはまだ残ってるらしいけど、「地方だからこんな家でも買えたんだ。都会じゃずっと借家暮らしだ」と親父が言うから、どんな会社か全然知らないけど、きっと給料安いんだ。おふくろだってスーパーでレジ打ってるもんね。
 でも、それはいいけど、今年地元の私立大入った兄貴は家から出ていきそうにないし、そしたらいずれおれはホームレスじゃん。
「家買ったから、都会の学校やる金なんてないぞ。おまけに国立行く頭は二人ともないときてる」
 そうなんだよね。地方は家が安く手に入る代わりに、進学先は限られるんだ。
 おっと、もう四枚目だよ。あとがないよ。
「石」諸鉱物の混合物。岩と砂の中間。砂利より大きい。小さい石は小石。
 直径何センチ以上が岩で、何センチ以下は砂利だなんて決まりはないんだな。言葉なんていい加減なもんだ。おれたちの人生なんて案外そんないい加減な言葉の上に乗っかっているんかもしれないな。
「石」堅いもの、永久不滅なものとして、しばしば神としてあがめられる。名前の定義がいい加減なのに堅いもないもんだ。
 待てよ、ウラン鉱石も石だぞ。
 おれはパソコンを閉じて二階の自室に入った。春休みに読んだ本。常石敬一の「原発とプルトニウム」36ページ。マリー・キュリーは8トンの残滓鉱石を運び込んで、四年間かかってあらゆる処理をほどこし、0,1グラムのラジウムを得ることに成功した。その仕事はまさに土方仕事であった。8トンてキロの千倍? つまり8千万分の1ということ? そりゃ土方仕事だよ。放射線による骨髄変質が原因で死亡、66才。
 すべては彼女から始まった。でもそれはひとりの物理学者としての、純粋に知的な好奇心、物質の仕組みを知りたいという情熱以外のものではなかったはずだ。
 原子番号92番のウランが94番のプルトニウムに変わる。中世の錬金術師たちが一度は断念したひとつの原子が他の原子に変わるというマジックに人類は成功し、ものがなぜここにあるか、人間がなぜ存在するかという仕組みの解明に大きく近付いた瞬間だ。
 だが彼女の後継者たちはどこで間違えてあんな魔物を作ってしまったんだろう。E=mc² エネルギーは質量×光速の二乗。一円玉六枚をすべてエネルギーに変換できれば、東京ドーム満杯の水が一瞬で蒸発する。(佐藤勝彦「相対性理論の世界へようこそ」)
 石はほんとうに堅いのか?
 このくらいで勘弁してよ、里見さん。
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「桜」 鬼藤千春

 桜   鬼藤千春

 朝礼を終え、祥三は墓石のパンフやチラシを揃えて、営業に出る準備をしているところだった。まだ頭に靄がかかっているようで、身体も倦怠感に包まれていた。そこへ室の空気を震わすような、音質の高い電話のベルが鳴った。
「有り難うございます。姫井石材でございます」
 祥三は受話器をさっと持ち上げて、爽やかな声で答えた。
「あのう、ちょっと相談があるんですが。四十九日までに、お墓はできるでしょうか」
 低く、くぐもった女の人の声だった。
「ええ、石種とかデザインとかによって違うんですが、たいていは間に合わすことができますよ」
 祥三は不謹慎にも、声が弾んでいた。
「それじゃ、ご無理を言いますが、お墓の資料を持ってきていただけますか」
 いくらか明るい声だった。
「はい、承知しました。何時ごろ伺ったらいいでしょうか。あ、そうですか。十時頃ですね。それではこれから出かけます」
 祥三は受話器を置くと、自然に顔がほころんだ。
 こういう話は滅多にないのだ。祥三は、しめた、と思った。
「どうぞ、お上がり下さい」
 五十代だろうか、女の人が祭壇のある部屋へ案内してくれた。
 祥三は祭壇の前に座って、まずローソクに火をつけた。ぼうっとオレンジ色の炎が上がった。ローソクから線香に火を移して、香炉に二本挿した。線香から白い煙が湧き出すように、立ち昇っている。リンをふたつ打ち、合掌をして深く頭を下げた。
「このたびは大変でございました。お悔やみ申しあげます。失礼ですが、ご主人様ですか」
 祭壇から座卓の方に席を移して、祥三は言った。
「ええ、私の連れ合いです。まもなく定年という時に、残念です。でも、これも仕方ありません。この人の寿命だったのでしょう。それで、四十九日までにできますか」
 奥さんは、白いハンカチを右手に持っていた。
 祥三はパンフを出して、座卓の上に広げた。「墓石選びは、まず大きさ、デザイン、石種によって、決めていただくことになります」
 祥三はパンフを指差しながら、丁寧に説明していった。
「あ、そうですか。九寸角の先祖墓ですね。こ、このデザインでよろしいですか。石種はこだわらないんですね。でしたら、中国の黒龍江省で採掘される石をお奨めしますよ。この石は、硬い、吸水性が低い、変質しにくいという、三拍子揃った石ですからね」
 祥三は石見本を出して説明した。
「それでは、これでお願いします。主人を仮埋葬で、土の中に眠らせるわけにはいきません」
 奥さんは、ハンカチで口を押さえた。
 祥三は契約書を書いて、捺印して貰い奥さんの家を後にした。車を道の路肩に停め、祥三は煙草に火をつけて、大きく吸い込んだ。旨かった。契約した後、喫む煙草は格別なのだ。
 祥三は昼食をコンビニで摂って、事務所に帰った。彼はⅤサインをして見せた。自分でも、顔つきがやわらいでいるのが判る。凱旋である。
「星川さん、大変よ。さっき鈴木さんの奥さんから電話があって、キャンセルさせてくれと言ってきたのよ」
 女の事務員が、慌てて言った。
「なに、キャンセル?」
 祥三はあっけにとられて、言葉も出なかった。
「うるう年だから、建ててはいけんいうて、親戚のものが言うそうよ」
「うるう年?」
 来るものがきた、と祥三は思った。
 祥三は折り返し鈴木さんの家に向かった。彼は、うるう年と建墓についての説明を反芻していた。
 江戸時代のことである。もうかれこれ二、三百年も前のことだ。陰暦の時代、うるう年は一年十三カ月だった。だから、同じ年額給金で十三カ月暮らさなければならないので、ときの大名が布令を出し、仏壇や墓石の購入をやめさせたのだ。
 それが迷信となって、今も生きているのだ。祥三はどう説明したところで、どうせ駄目なことは判っていた。
「親戚の反対を押し切って、もし何か不吉なことが起こったら困るので、このたびはやめときます」
 ほとんど、こういう返事が返ってくるのだ。
 祥三は、思わず溜め息をついた。人間の心というものは厄介なものだな、と思った。
 祥三は車のスピードを上げながら、戦前の非合法政党のことが不意に頭をよぎった。まもなく百年が経とうとしている。が、いまも怖いという迷信がつきまとっているのだ。それを払拭するためには、どうしたらいいのだろうか。
 祥三は墓石の契約よりも、自分も所属するその政党のことが、頭から離れなかった。一陣の風が吹いた。木々の枝が揺れている。桜の花びらがひらひらと舞い降りていた。

「党生活者」 石崎徹

小林多喜二「党生活者」  石崎徹

 この作品も45年ぶりである。そのときは、ただ暗くじめじめした作品としか思わなかった。なぜこの作品の才能に気づかなかったのだろう。所詮太宰崩れの能天気な学生の世界と違いすぎた、ということだろうか。
 今回びっくりしたのは、その意外な明るさである。決してじめじめした作品ではない。留置場、刑務所、拷問、食うや食わずの生活、といった世界に作者も登場人物もいながら、そしてそういった暗い状況を描きながら、人物は決して暗くない。追いつめられた状況の中でも軽口を飛ばしあっている。
 多喜二の文章は、洗練されているとは言えないかもしれないが、下手な文章ではない。ちゃんとつじつまの合った読みやすい文章である。むしろ説明を避けて描写で押していこうとするところに、馴染みのない状況を描いているだけに、とっつきにくさがあるのかもしれない。だがそのことが情景を生かしていることが読み終わるとわかる。
 多喜二は若い時から、文章を書くと同時に絵も描いていた。それがおそらく無縁ではなかろうと思わせる。多喜二の文章からは絵が浮かび上がる。情景が目に浮かぶのである。この描写力は只者ではない。
 もちろん小説だからどこまで現実を反映しているのかは断言できないわけだが、(それはぼくに日本史の知識が全く欠けているからだが)、おそらくかなり忠実に現実をなぞっているだろうと思わせる、そういう点で目を瞠るのは、あの激しい弾圧の時代にあって、ずいぶん大胆な活動が繰り拡げられていることである。
 戦前と戦後の連続性というテーマにヒントを与えてもくれ、また現代の閉塞状況を考える鍵のひとつともなりうるだろう。
 「笠原」の描き方については、随所で指摘されているのと同様、ぼくも不満を持つ。行き場を失った主人公を救い出すために、事実上の結婚にふみきり、そのために疑惑をもたれてタイピストの職を失い、女給にまで落ちぶれ、「女郎にでもなります」とまで言わせた相手にたいして、主人公はあまりにも冷たい。あろうことか、主人公の心は「伊藤」に傾いているのである。これではあんまりだ。確かに「伊藤」は魅力的に描かれている。主人公に気がありそうでもある。まだ若い主人公の心がそちらに傾いていったとしても無理はないだろう。だが、「笠原」に対する「すまない」と思う気持ちがもっとあってほしかった、と読者は思わずにおれない。
 おそらくこの点が唯一の傷になっている。
 しかし、それがまた、それこそリアリズムなのかもしれない。あの追いつめられた状況で、誰が完ぺきなヒューマニストたり得ようか。若い未熟な人間が、配慮すべきことを配慮しなかった、そして作者がそれに注釈を加えなかったとしても、それも現実だったのだ

「宝くじ」 鬼藤千春

 宝くじ   鬼藤千春

 いつもの街がどことなく浮き足立っている。人々は首に巻いたマフラーをなびかして、せかせかと歩いていた。車もやけにクラクションを鳴らして、過ぎ去ってゆく。
 やはり、師走だな、と雄介は思った。なんとなくせわしく、怖いという感じがぬぐえなかった。が、雄介は一人悠然と構えているかというと、決してそうではなかった。彼もまた、師走の空気の中に溶け込んでいたし、自らその空気をつくっている一人でもあった。
「年末ジャンボ一等、四億円。前後賞、一億円」そんな看板が立っていた。雄介はそれを一瞥して車で走り去ったが、まもなくユーターンして戻った。彼は吸い寄せられるように、宝くじ売り場の前に立っていた。
 数人のおじさん、おばさんが並んでいた。どことなく強欲で、厭わしく思われてならなかった。その中に並ぶ自分に雄介は嫌悪した。が、その列から離れようとは思わなかった。
 当たらないことは重々承知の上だ。だってそうだろう。二分の一の確率でも、当たらないことはよくあることだ。ジャンケンがそうだ。雄介はジャンケンによく負けた。忘年会でジャンケンに勝った方が、自転車を貰えるという時も負けた。営業の仕事でテリトリーを選ぶのに、勝った方に優先権が与えられるという時も、負けたのだ。
 それが、宝くじの一等、あるいは前後賞になると途方もないことだ。ドラム缶に米粒をいっぱい詰め込んで、その中から赤く着色されたひと粒を、眼を瞑って掴み出すようなものだ。雄介はそんなことはよく判っているのだ。が、雄介は浅ましい列に並んでいた。自身もその浅ましい人間の一人だった。
 雄介は連番でなくバラ買いで、三十枚求めた。彼は家に帰って、その宝くじのチケットを神棚に祭り、二回柏手を打って頭を下げた。

 彼は当選したときの夢を描くようになった。一等はよしとして、前後賞の一億円の遣い道を考えた。子どもが四人いたから、まず彼らを家に招くのだ。息子が二人、娘が二人いて、それぞれ所帯をもち、四人とも家を出ている。家には雄介と女房の二人だけだ。そして、彼らをリビングの、テーブルの前に座らせるのだ。
「おじいさん、どうしたん。何かあったんか」
 長男の大輔が怪訝そうに訊いた。
 おじいさん? おじいさんとは、どういうことじゃ。雄介の頬の皮膚がピクピクと痙攣を起こした。娘二人はおじいさんと呼ぶことはなかったが、息子二人は恥知らずにもそう呼ぶのだ。孫の視点なのだ。雄介の心は穏やかではない。
「そう慌てるな。そのうち話すのでちょっと待て。せいては事をしそんずる」
 雄介は彼らを見回し、右手を突き出して制した。
「大輔、シャープは不景気で人員削減が烈しいが、下請けの君の会社はどうなんじゃ」
 雄介は顔を覗きこんで言った。
「いま、うちの会社は大変じゃ。リストラの嵐じゃ。五十歳以上がターゲットになっている。退職勧奨が烈しく行なわれてるんじゃ」
 大輔はそう言って、顔を曇らせた。
「シャープは、一兆円以上の内部留保をため込んでいるぞ」
 語気を強めて、雄介は言った。
「おじいさん、うちの会社にはリストラ部屋と呼ばれている室があるんじゃ。勧奨を断ると、君のする仕事はもうない、と言って、その部屋へ送られるんじゃ」
 大輔は身体を乗り出して言った。
「そうか、大変じゃなあ。大輔、他人事じゃねえぞ。そんな気配があったら、わしに相談せえ」
 うーむ、と唸って、雄介は腕を組んだ。
 雄介は、それからおもむろに、宝くじが一億円当たったこと、子ども一人について、一千万円ずつ遣るという話をした。残りは夫婦二人が持ち、旅行三昧をして、自由気ままに暮らすことを語った。

 雄介の今の生活は、年金暮らしで可処分所得が月二十万であった。まさに薄氷を踏む思いで日々を送っている。これで健康を損なったり、不意の出費があったりしたら、たちまち生活はたちゆかなくなるのだ。
 一億円当たったら、雄介は悠々自適の暮らしをするつもりでいる。小説を書く辛さ、苦しさから、もう開放されるぞ、と思っていた。
 雄介は、元旦の新聞が届くのを今かいまか、という思いで待っていた。新聞受けがコトリと鳴ると、彼は足早に駆け出して行った。神棚で手をぽんぽんと打って、チケットを降ろした。
 雄介は、ルーペで新聞を覗き込みながら、一枚一枚丹念に照合していった。三十枚のうち二十枚ははずれであった。雄介は嘆息を洩らした。あと十枚、彼は眼を凝らして、ルーペを覗いた。駄目だった。下一桁が三枚当たっているだけだった。彼は冷めたコーヒーを飲みながら、大きな溜め息をついた。彼は遠くを見るような眼をして、壁に掛かった静物画をぼんやりと見ていた。
「やっぱり、小説を書く暮らしから、抜けられないな、――」
 ふうっと息を吐いて、雄介は呟いた。

「まがね」54号ができました。

「まがね」54号が完成し、会員への配布が行なわれました。

創作 9編
「わだかまる」   笹本敦史
「沈丁花」     長瀬佳代子
「カワセミ」    妹尾倫良
「滅亡の序曲」   田中俊明
「ある婚活の場景」 井上淳
「小説が出来ない」 野中秋子
「認知症の母」   桜高志
「掌編 四題」   鬼藤千春
「ノロ鍋始末記(前章)」 石崎徹

随想 7編
 田中俊明 長瀬佳代子 鬼藤千春 野中秋子 妹尾倫良 前律夫
 立石憲利

 1編
「キーホルダーの先の焦げた小片」 妹尾倫良

書評 1編
「小繋事件」 石崎徹

(定価700円)

2013年度総会を開催しました

2月24日(日)13時から
倉敷市の本町会館(アヴェニュウの予定から変更)で総会を開催し、10名が参加しました。

事務局から12年度の活動が報告され、参加者からそれぞれの状況や新年度に向けての決意が語られました。

また規約改定について提案があり、論議の結果、一部改定することが決まりました。
規約はこちら

「まがね」掲載料について意見があり、変更が確認されました。

<新年度役員>
支部長 鬼藤千春
事務局長 笹本敦史
編集長 妹尾倫良
会計 井上淳



「防雪林・不在地主」 石崎徹

小林多喜二「防雪林・不在地主」 石崎 徹

 1928年4月26日「防雪林」脱稿。1903年10月の生まれだから、24才の時である。その年の暮れに「一九二八年三月十五日」を発表。翌年「蟹工船」に続いて「不在地主」を発表。この「不在地主」によって拓殖銀行を解雇された。作中小作搾取に銀行の果たす役割を名指しで書いたからである。
 だが「防雪林」は戦後発見されるまで、草稿ノートに埋もれたままであった。「不在地主」はそのノート稿に『「防雪林」改題』と書きこまれていた。多喜二は「防雪林」に納得できずにこれを捨て去り、「不在地主」として全面的に書きなおしたのである。
 だがいま先入見なしにこの両作品を読み比べたとき、読者諸氏ははたしてどちらを支持するであろう。
 ぼくは「防雪林」である。
「防雪林」は第一にその情景描写が圧倒的に優れている。その圧巻は冒頭の石狩川での密漁場面、および最終近く防雪林に沿って荷馬車が行進していく場面である。
 第二は主人公源吉の造形が見事である。
 ぼくは多喜二に先入見を持って読まなかった不明を恥じる。これは描写といい造形といい天才的な作家である。
 だがその手腕をわざと封印したのが「不在地主」である。
「不在地主」には、吸い込まれていくほどの描写は、あえて言えばラストに少し見えるのみである。手で触れることができるような人物の造形もない。
「不在地主」を書いた時、多喜二は文学以外の目的をはっきり意識していた。ほかならぬ小作たちに、愉しみながら読めて、しかも自分たちを苦しめている仕組みが自然と分かるようなものを与えたい。彼は大衆小説の手法で教育書を書こうとしたのである。
 小説にはいろんな種類がある。大衆小説もそのひとつであるし、教育的な大衆小説があっても構わない。読者がそれを求めており、愉しみながら知識が増えるという点で現代でも、たとえば歴史小説は圧倒的な人気である。愉しみのためだけの小説にも需要がある。人生に娯楽は必要だ。
 しかしどんな芸術でも趣味が高じてくれば人はより何か別のものを求めるようになる。しかしそれは小作の読めるようなものではない。多喜二は小作の役に立ちたかったのだ。趣味人の相手をしている暇はなかったのだ。
 このように考えてくるとぼくは複雑な思いがしてきて、よくわからなくなる。だが、この問題にはここではこれ以上立ち入らないことにしよう。
 多喜二は、「蟹工船」では集団の描写に専念してあえて個人を書こうとしなかった(そしてぼくはそれでよかったと思っている)が、「防雪林」には源吉という独特の人物が出てくる。「原始人的な、末梢神経のない人間を描きたいのだ」と作家は述べている。末梢神経云々はよくわからないが、まわりくどく考えずに思ったことが行動に直結する人物という意味だろう。源吉はまさにそうだ。
 彼は強姦犯なのである。被害者とその周囲にとっては許すべからざる人物である。元恋人の芳が田舎に見切りをつけて札幌へ行ってしまったことへの苛立ちが彼を犯罪に走らせるのだが、その芳が北大生に妊娠させられ捨てられて帰村し、村八分、家族にさえ容れられないという状況で源吉に助けを求めても無視し、だが彼女が自殺してしまうと、北大生の所属する地主階級への怒りを募らせる。
 ここでは彼は被害者(芳)の関係者として被害者の心情に立っている。その事態に至っても自己の犯罪を顧みようとはしない。あの時は欲望の赴くままに行動した、そしていまは地位に絡めて女を欺く人間への怒りに燃える。自己の心理のこの矛盾を検討してみるという態度は源吉にはない。
 一見奇異に思えるが、当時の農村青年の中の直情的な一典型として実在感を持っている。
 こうしようと思ったら、あれこれ考えず、また何物も恐れずやってのける人間である。それは冒頭鮭の密漁の場面でくっきりと描かれる。
 地代をめぐる小作たちの不満が頂点に達し、低減要求の運動が組織化される過程で、これを冷ややかに見ている源吉はいっとき背景に沈み込む。そして終盤テロリストとして現れる。地主邸に放火するのだ。そんなことで問題が解決するわけではないことを、作者はもちろんよくわかっている。源吉は農民の怒りが凝縮した存在なのである。
(2000字に収めようとしているので字数が足らなくなったが)「不在地主」の主人公、健の存在感の無さと、源吉の圧倒的な実在感とを比較してほしい。作者は、健の描き方については完全に失敗している。

「こつなぎ物語」感想 石崎徹

野里征彦「こつなぎ物語」感想    石崎 徹

「民主文学」誌、本年1月号から第二部がスタートしたが、とりあえず去年一年間にわたって連載された第一部について感想を述べる。
 一言で言えば大変ひきこまれた。実にさまざまなテーマが詰まった作品である。
 最初のうち、耳慣れない東北弁が読みづらかった。でも読み進むうち、だんだん慣れてきて、むしろそのリズムが心地よくなってきた。思うに、方言と思って読むのがよくない。「東北語」という独自の言語だと思って読むと、そこに独特の味わいが生まれる。
 あと、山の生活を非常によく知っている人の文章である。山の生活の描写が豊かで、読者を自然にその世界へいざなっていく。
 物語の背景となっている事件については、戒能通孝著「小繋事件」(岩波新書1964年 絶版)に詳しい。岩手県の一山村で、山の入会権をめぐって、50年間三代にわたって争われた事件である。民事裁判二件(46年 職権調停)、刑事裁判二件(盗伐で農民側が告訴され、66年、最高裁有罪)をふくみつつ展開され、さまざまな教訓を残した、壮大なドラマである。第一部は第一次民事訴訟で敗北したところで終わっている。
 さまざまなエピソードがつづられるが、実はかなり細かいエピソードまで、戒能本にすでに記述のあるものが多い。ただ、戒能本では簡潔な経過の記述に終わっているところを、野里作品では肉付けして面白く読める物語として創りあげている。この物語化において、「東北語」の使用と、山の生活の細密な描写とが力を発揮している。
 登場人物は百人を超える。著名人を除いては仮名で書いているが、本名を少し変えただけのものが多い。戒能本と照らし合わせるとだいたい本名がわかる仕組みになっている。が、もちろん仮名にした部分にはフィクションをふんだんに使っているし、ただ名前を借りただけと思えるものも多い。
 遺憾なのは、ときたま著者が名前を間違えていることである。百人も出てきたのでは無理のないところもあるが、仮名を使ったことでよけいに混乱した面もある。
 山岡弁次郎は、本名山本善次郎で、いかにも小説的な人物だが、第一部では小悪人として登場し、これから展開される第二部の中で主役級に躍り出て(実は第二部をまだ読んでいないので実際にそうなっているかは分からないのだが、事件の経過としてはそうなるだろう)、最後にまた逆転する波乱の人物である。ところがこの家系の名が最初本名の山本で出てきて、途中で仮名の山岡に変わる。そういうものを他にもかなり見る。これは筆者が登場人物の名簿を作ったから分かったことで、これを単行本として出版するさいには、そのへんを綿密に調べて統一した方がいいだろう。親子関係についても若干の混乱が見られた。三代にわたる物語なので関係系譜を作ろうとしたさいにそのことが困難を招いた。
 この作品に含まれる多くのテーマについては、他の人がそれぞれ触れるであろうから、ここでは最も注目した入会権の問題をとりあげるにとどめる。
 当時の東北の用語例では、入会とは二村以上の共同使用を言うので小繋山は小繋村の村山であって入会ではないとする解釈もあるが、争われたのは広い意味、一般的な意味での入会権である。
 すなわち先祖代々代価なしで使用してきた土地には、使用者に使用権があるという概念だ。これは所有者を明確にする法律がなく、その必要もなかった時代からの慣習によるものである。
 近代国家の国家権力が、この慣習を破壊するものとして現れる。法を理解できない住民に勝手に法を押し付け、山の使用権を奪ってしまう。だが住民は山なしには生活が成り立たないのである。法律の条文にしか目がいかない法律家たちには(彼らの国家権力や資本家との癒着は横に置くとしても)、住民の要求はまったく理解できないものとなる。
「真実を理解するためには現場に直接立ち会わねばならない」
 それがこの事件からわれわれが得ることのできる、どんな問題にも共通する最大の教訓であろう。
 この点を特に重要だと思うのは、(人々は突飛だと思うかもしれないが)、尖閣諸島をはじめとして、日本列島周辺のいたるところで緊急の課題となってきているところの領有権問題をめぐって、法律論だけに世論が集中している現状への違和感からだ。
 所有、領有とは、国家権力が勝手に作りだした、いわばフィクションに近いものだと言ってしまえば言い過ぎだろうか。だがそこにおける住民の権利ははたして正当に評価されているだろうか。漁民たちの歴史の現場から、これらの問題を見直してほしい。

「ブラウス」 鬼藤千春

ブラウス    鬼藤千春

 修二は駅に近い線路ぎわに建つ、二階建てのアパートに住んでいた。六畳ひと間と、一畳くらいの狭いキッチンがついている。
 修二は窓を開けて、駅の方に眼を走らせた。プラットホームには小さい人の影が動いていた。あの中に亜希子もいる筈だ。彼女はこれから郷里へ旅立つのだ。
 亜希子は小学校の教師をしていた。彼女は修二と別れるために、転勤届けを出したのだ。それが受理されて、まもなく来る列車に乗って、修二のもとから去ってゆくのだ。
 亜希子に会ったのは、彼女が大学を卒業して、この街の小学校に赴任になってからだった。修二はこの街で、建築会社の現場監督をしていた。そして、青年運動や文化活動をしていたのだ。彼女も大学で青年運動をしていて、それで彼女に会ったのだ。
 この街にやってきた亜希子は、すぐに青年運動に加わった。彼女は高校生の担当になって、勉学や活動の相談に乗る役目をおっていた。修二は地区の役員をしていたから、ときどき彼女に会って、運動の進め方などを話し合ってきたのだ。
「亜希ちゃん、高校生班の名前をつけようか。みんなと相談してみてくれないか」
 修二は亜希子を、自転車で送りながら言った。
 亜希子は修二の肩に片手をかけていた。彼は自転車のペダルを踏んで、星明りの中を進んだ。
「修二さん、みんなで考えてもうつけたんよ。高校生は三年で卒業するでしょ。だからね、その活動が絶えないようにと、火種という名前にしたのよ」
 肩にかけた手に力を込めて、亜希子は言った。
「火種か? ちょっと古臭いけど、うーん、それいいかもな」
 後ろを振り向いて、修二は言った。
「いいかもな、じゃないでしょ。もう決めちゃったんだから。それいいな、でしょ」
 亜希子は肩にかけていた手で、ぽんと修二の背中を叩いた。
 その日修二は彼女の部屋に上がって、コーヒーを淹れてもらった。このようにして、ふたりはアパートへのゆききが始まったのだ。
 亜希子のワンルーム・マンションには、もちろん風呂があったが、修二のところにはなかった。それで、夜亜希子が来ると、一緒にちょっと洒落た、近代的な浴場へ行くのだ。タオルと着替えを持って、横丁の路地をすりぬけて行った。帰るとき、亜希子の髪はシャンプーで匂い立っていた。その頭を彼女は修二の左腕に押し付けてくるのだった。
 そんな日々が少しつづいてきたとき、ふたりの間に結婚の話が持ち上がった。しかし、亜希子の両親は猛反対だった。
「拝み屋さんに、相性をみてもらったら、凶相が出ているというんじゃ。北条さん、この話はなかったことに、してもらいたいんじゃ」
 遠くから父親が出てきて、そう言った。
「拝み屋? 凶相?」
 修二は首をかしげた。
「そうじゃ、拝み屋じゃ。拝み屋を莫迦にしちゃいかんよ。ここの占いはよう当たるんじゃ」
 父親は修二を睨んで言った。
「この時代に、占いですか?」
 修二はいくぶん怒ったように言った。
「あなたと論じ合うために、来たんじゃない。とにかく、もう終わりにしてもらいたいんじゃ」
 父親はそう言い放つと、そそくさと帰っていった。
 修二は、決して拝み屋の占いだけが原因だとは思わなかった。学歴や家柄のこともないとはいえなかった。それは想像に難くなかった。亜希子は両親の猛反対に、ずいぶん動揺していた。修二も優柔不断だった。亜希子はやけぎみに結婚したい、と洩らしていたが、修二は曖昧な返事しかできなかった。
 修二は結婚に踏み切ることに、畏れをいだいていた。ずいぶん弱気になってしまった。それからふたりの間に、しだいに亀裂ができていった。そして、しばらくしてふたりは別れたのだ。
 駅にオレンジとグリーンに彩色された列車が、滑り込んできた。列車から乗客が吐き出され、人々が乗るようすが遠くに霞んでみえた。列車がゆっくり動きだして、修二のアパートの前を差し掛かった。修二はその列車を凝視していた。すると、出入り口に立った亜希子の姿が見えた。彼女は唇を噛んで、しきりに手を振っている。列車はアパートを震わせて、修二の前を通りすぎていった。
 修二は列車が消えるまで、その後を追っていた。亜希子は遠くへ去っていった。ふと、柔らかい匂いが立ち昇っていることに、修二は気づいた。振り向くと、白木蓮が純白の花々を開いているのだった。じっと見つめていると、純白の花びらが、ひとひら舞い落ちていった。
 修二は窓を閉めて、部屋を見渡した。白木蓮と同じような、純白のブラウスが鴨居に掛かっていた。北の窓からは花冷えの風が舞い込んでいる。
 亜希子のブラウスは、かすかに揺れていた。

「鐘」 石崎徹

鐘   石崎 徹

   For Whom the Bell Tolls

 神学館の二階のチャペルにはキャンパスのざわめきも聴こえてこなかった。休日のせいではない。いつもそうなのだ。
 ステンドグラスから洩れくる明かりはやわらかく、冷んやりした室内にいると、戸外の初夏の陽気が嘘のように思われた。
 こぢんまりしたチャペルには誰もいなかった。裕子は最後列に腰を下ろして、手元のせまい台に英語版のヘミングウエイを置いた。
 誰もいない。裕子は携帯を取り出して時刻を確かめる。十一時三十分、まだ三十分ある。ついでに着信を確認した。誰からも何もない。
 期待したわけじゃない。だが早く来すぎたのは間違いだった。裕子はいまからの三十分を少し苦痛に感じた。
 英樹はヘミングウエイが好きだった。でも裕子はこの作家の長編は読んだことがなかった。短編は授業で読んだが、いかにも男性文学という感じがした。
「傷つきながらもストイックに生きる。男の美学だよ。長編はもっとロマンチックだけど、短編のほうが完成度が高い」
 そしてあれこれの作品を語りはじめる。裕子はそのほとんどを読んでなかった。
 英樹はしゃべりはじめると相手を忘れてしまう男だ。裕子はいつも置き去りにされる。
「ヘミングウエイの主人公はね、ほんとうはとても繊細なんだ。でもそれを表に出したくないんだ」
 じゃ、あなたはどうなの? あなたの中にもデリカシーってあるの?
 待機期間を置こうと提案したのは裕子のほうだった。一年間会わずにいる。そしてお互いの心を確認する。
「それ、なんだい。韓国映画じゃないんだぜ。どうせ卒業したらぼくは東京に行っちまうから、滅多に会えなくなるんだ。それさえすまいという意味かい?」
「わたし、自信がないの」
「へえ? ぼくは君を信じていたよ」
「そうでなくて、あなたの心に自信を持てないの」
 それは半分嘘だった。自分の心にも自信が持てなかったのだ。裕子は卒業までまだ二年あった。
「来年の春休みに会いましょう」
「社会人に春休みなんてないぜ」
「じゃ、連休に」
 五月三日の正午にチャペルで。そこは二人が最初にキスを交わした場所だ。
 裕子はふたたび携帯を見る。すでに一時間が経過していた。
 一年前のちょうどその日、列島のどこかで大変なことが起こったのを、そのとき二人は知らずにいた。その後、英樹の東京行きにもいろいろ手違いが起こったらしかった。英樹からの電話とメールはしょっちゅう来た。裕子からもたびたび連絡を取った。そのつもりではなかった。連絡も取らないでおこうと決めたのだ。でも事態が変わったのだ。
 そして――夏休みに入るころ、連絡はばったり途絶えた。メールの返事も来なくなった。裕子は電話しようとしてやめた。ヘミングウエイに読みふける一方で、募金活動を手伝ったりした。ボランティアに行く学生もちらほらいたが、裕子に、してみようと思えることは募金活動くらいのものだった。そして一年たった。……
 一時をまわっている。携帯にはあいかわらず何の着信もない。
 手元に置いた英語本の表紙に眼がいった。
 For Whom the Bell Tolls 
 鐘は誰のために鳴る。わたしのため? 馬鹿な賭けをしてみすみす恋人を失ったわたしを慰めようとして? どこかで戦争があり、どこかで災害があり、いつも誰かが苦しんでいる。でもすべてがなんとわたしと無縁なんだろう。いまはわたしのためにだけ、鐘よ、鳴れ。
 だがチャペルは静まりかえっていた。
 it tolls for thee. でもいま、鐘は鳴らない。 
 ふと疑問がわいた。鐘はなぜ鳴るのだったろう?
 気分を変えて、ヘミングウエイを開く。冒頭、ジョン・ダンの詩。最終連、ここだ。
 any man's death diminishes me誰の死も私の死。because I am involved in mankindだって、私もそのまた一人。and therefore never send to know for whom the bell tollsだから問うな、誰を弔う鐘かとは。
 だから問うな、誰を弔う鐘かとは……
 裕子はうつろな眼を前方へ漂わせる。
 そこには説教台の背後に十字架が見えた。
 頭のなかに、鐘の音を聴いた。
 二時だった。

「母」 鬼藤千春

 母   鬼藤千春

 母が逝って、まもなく十二年になる。花冷えのする早春だった。母は九十歳で終焉を迎えた。母の生年は一九一一(明治四十四)年である。平塚らいてう、らが「青鞜」を創刊した年だ。「元始女性は太陽であった」と高らかに謳いあげたのが、この「青鞜」だった。
 太平洋戦争で日本が敗北に終わる、一九四五(昭和二十)年まで、母の生きた時代は、戦争という「冬の時代」であった。この間、夫は三回に渉って徴兵されている。母は銃後にあって、どのような生活を強いられたのか、おおよその見当がつかない筈はない。
 私は戦後生まれだが、一九六〇年代に入るまで、わが家の経済は窮乏の底にあった。それを凌ぐために、畑一枚売らざるを得なかった。板塀は傾き、雨漏りのするような家だった。母は乏しい物品を、隠すように風呂敷に包み込んで、質屋通いをしていた。質屋の当主は実兄であったが、無下に断られて帰ることも一再ならずあった。
 母は働き者だった。というより、働かなければ家族六人喰って、生きてゆけなかったのだ。夜を日に継いで、働いていた。私が目覚めているうちに、母が床に就くというようなことは決してなかった。
 夜、私が眠りに就こうとするとき、母は決まって内職をしていた。その仕事はときどきで変わっていた。バンコック帽の機織りをしたり、麦稈真田を編んだり、紙製のストロー巻きをしていた。
 朝、私が目覚めると、母の、俎板をトントンと叩く音が、いつも聞こえていた。また、裏山にある畑から、ジャガイモや南瓜などを穫り入れて、帰ってくることも少なからずあった。
 母は躾けに滅法厳しかった。国民学校で代用教員をしていたからだろうか。いや、それは母の生来のものだったようだ。私は井戸のほとりにある太い松の木に、たびたび縛り付けられた。
「もう何度言わせりゃ分かるんじゃ。よう反省してみい」
 母は狂ったような形相をして叫んでいた。
 庭掃除や七輪の火を熾す仕事を忘れて、外で遊んでいたためである。私も強情で決して涙をこぼすことはなかったが、近所の人が助けに来てくれた。
「夏ちゃん、もうええ加減許してやったらどうなん」
 が、母はそれでも、綱をほどこうとはしなかった。
 私が東小学校の仲間数人と、西小学校へ乗り込んでゆき、大喧嘩をしたことがあった。それは町内へ知れ渡ることになった。すると、母は学校までやってきて、クラスメートのいる前で、私をねじ伏せ、引き摺り回したことがある。母は子どもの躾けには、みさかいがなかった。
 夫は婿養子だった。いくらかそれが関係しているかも知れなかったが、母は家長のように振る舞っていた。父は寡黙であったから、それは尚更であった。
 父のささやかな愉しみである飲酒についても、毎日のように不平や不満を並べ立てていた。それでわが家は諍いが絶えなかった。近所にも聞こえるように父をなじるのだった。
「毎日毎日、飲まんという日がないんじゃから、ええ加減にしとかにゃおえまあが――」
 母は口を尖らせ髪を振り乱して、言い放つのだった。
 私はそんな母が厭だった。烈しい憎しみの感情が、私の中で芽生えていった。ささやかな父の愉しみ、私は自分が喰わなくても、父に酒を飲まして遣りたかった。それは、私だけでなく、ふたりの兄や弟もそうだったようだ。
 私は工業高校を卒業して、市役所へ勤めることになった。春入所して、半年ほど経った頃から、私は組合の書記局へ出入りするようになった。まもなく、組合の役員に推されてそれを引き受けた。春だった。春闘である。市役所は人事院勧告によって、賃金が決められる仕組みになっていたが、他の組合と歩調を合わせていた。
 春闘の集会で使うゼッケンをつくることになった。私は母に頼んだ。ゼッケンの写真を見せて、朝までに作ってくれと言った。
「組合? お前はそんなとこに首を突っ込んどるんか。上のもんに睨まれりゃせんのか。わしゃ、知らん。そんなものは、よう作らん」
 母は私を睨んで、鋭い声で拒否した。
 私は諦めて、床に就いた。母はやはり起きて内職をしていた。バンコック帽の機織りの、ギィー、ギィーッ、バッタンという音が、ひとつのリズムを刻んでいた。
 チッ、チチチ、チーッという小鳥の鳴き声で、私は目覚めた。おもむろに起き出して、私はカーテンを引き放った。金色の光が射し込んで、部屋を染めた。
 枕元を見ると、白い布が畳んで置かれていた。手に取って広げて見ると、それはゼッケンだった。
 台所の方を振り向くと、母はいつものように、平然と俎板を叩いていた。

「変身」 笹本敦史

変身    笹本敦史

 寝る前にカフカを読んだのがまずかったのだろうか。大輔は不気味な夢にうなされた。
 気がつくと冷たいフローリングの上に腹ばいになっていた。目を上げると、目の前にゴキブリがいた。ゴキブリの目を見ると、向こうもこちらを見ていた。つまり目が合ったのだ。少し右に視線を動かしてみると、ゴキブリも同じ方向に目を動かすのがわかる。上へ、そして左へと視線を動かすとゴキブリの目も同じように動く。もっと大きく視線を動かした時に気がついた。目の前にあるのは鏡だ。床に立てられた姿見。三ヶ月前から仕事に出始めた妻が通販で買ったものだ。専業主婦だった頃はまったく無頓着だった容姿をえらく気にするようになり、最近は買ったばかりの服を着て、鏡に向かって科を作ったりしている。二三日前にはタイトなミニスカートをはいて、鏡の前に立っていた。三十二歳でミニでもなかろうと大輔は言ったのだが、実のところ短いスカートから伸びた足は十分美しく、刺激的だった。そう言えば最近、顔もきれいになった。妻はもともと美人の部類ではある。ただ、結婚して五年、子どもはいないが専業主婦として、改まった場に出ることもなく過ごしているうちに、容姿に気を使わなくなっていたのだ。それが毎日仕事に出るようになり、人目にも触れる。容姿を気にするようになるのも当然だろう。
 いや、そんなことはどうでもいい。今、目の前にある現実。その方が問題だ。右手を上げてみるとゴキブリのトゲだらけの腕が上がる。腹の辺りにある筋肉に力を入れてみると真ん中の脚がぎこちなく持ち上がる。それならと本来の脚を動かしてみると、思った通り後ろ脚が動く。やはり目の前のゴキブリは自分なのだ。少しおもしろいかも知れないという気持ちがおきる。しかし次の瞬間、慌ててそれを打ち消す。冗談ではない。よりによってゴキブリはないだろう。多くの人間が嫌悪の対象としか見ないものに変身するなんて、悪夢だ。あっ、そうだ。これは悪い夢に違いない。だとしたら、嘆いていても仕方ない。ひと時、この悪夢を楽しんでやろう。
 滑るフローリングに足を取られながら移動する。廊下に通じるドアの下の隙間に頭を入れてみる。通れそうだ。背中がドアの下端にこすれるが、滑るようにうまく通り抜けることができた。廊下を足を滑らせながらぎこちなく移動する。寝室のドアを見上げる。そうだ。昨夜は妻が早々に寝室に入ってしまい、明らかに機嫌が悪かったので、大輔はリビングのソファで寝たのだった。さっきと同じようにドアの下を潜って行く。
 妻は妙に色っぽい表情を浮かべ、ベッドに座っていた。携帯電話を耳に当てている。
「ずっとあなたのことを考えてたの」
 甘えた声を聞いて、大輔は頭に血が上るのを感じた。妻は浮気をしていたのか。
「ねえ、今日、仕事が終わってから……」
 終わってから何をしようというのだ。頭に上った血が熱くなったまま全身に回る。
「大丈夫。今日は職場の歓送迎会があると言ってあるから」
 確かにそう聞いた覚えがある。こんな時期に異動があるのかと尋ねたら、不定期の異動が時々あるのだと妻は応えたのだった。
「それじゃあね」
 妻は電話に向かってキスをした。
 電話を切った妻と目が合った。
「きゃあ」
 そうだ。妻はゴキブリが大嫌いなのだ。妻は手近にあった雑誌を投げつけてきた。大輔は慌てて避ける。次に飛んできたボックスティッシュを余裕を持って避けた瞬間、妻の泣きそうな表情が見える。浮気女を懲らしめている感覚に、大輔の気分は高揚してくる。そうだ、ゴキブリは飛べるはずだ。目の前でゴキブリが飛んだら、妻は恐怖で気を失うかも知れない。その思いつきが大輔を興奮させた。肩甲骨の辺りに確かな筋肉を感じる。気合とともに力を入れると羽が広がり、身体が浮き上がる。バランスを取るのが思いのほか難しい。テレビで見たオスプレイの墜落シーンみたいだ。それでも何とかバランスを取り、恐怖に歪む妻の顔に向かって飛ぶ。
「ぎゃあ」
 いい気味だ。もっと苦しめ。その瞬間、妻が倒れこんで避ける。大輔は目の前に現れた壁に取りつく。
 攻撃の手を緩めてはいけない。大輔は標的の位置を確認するために振り返ろうとした。その時、冷たく白い霧が大輔を包んだ。身体が痺れる。壁から落ちながら、ぼやけた視界に入ったのは、殺虫スプレーを構えた妻だった。大輔は床に落ち、気を失う直前、妻の声を聞いた。
「ダイスケー、ゴキブリ死んでるから、早く片づけてよ」

「小説のある暮らし」 鬼藤千春

小説のある暮らし     鬼藤千春

 私の友人に俳人がいる。その彼は次のように言っている。
「合歓の会では、一日一句を提唱している。実行できている人は皆無に近い。一日一句が習慣になれば、感性が磨かれ、ときには十句できたりもするだろう」
 五、七、五という十七文字の短詩型文学であっても、毎日一句詠むということは、相当難しいということだ。
 私たち創作を志している人たちは、どうだろうか。もちろん仕事に携わっている人もいるし、仕事の第一線から退いている人もいる。仕事をしながら書くという営為は、なおさら難しいといわなければならない。が、それを考慮に入れたうえで、私たちも一日一句に対して、一日一枚を提唱したいと思う。それは私自身が、仕事に就いていたときに、書いておけばよかった、という痛切な思いに駆られているからである。
 しかし、書くという営為はなぜこうも難しいのだろうか。
「わからないものを、書くからこそ、創作というのであり、作家は書くという実行で、考えにしっかりした形をあたえる」
 小林秀雄はこのように書いている。
「詩人の作詩法に、詩が書けないときは、何時間でも壁を見つめる」
 ある詩人の言葉である。
「今でも原稿用紙の一行目は怖い。書くことは苦しい。うれしいのは、ほんの一瞬」
 こう語るのは、竹西寛子である。
 このように、プロの方たちでさえ、書くことの苦しさを語っている。私などの素人はなおさらである。書こうと思い立つと、「寝ても覚めても」そのことを思いつづけるのだが、一向にイメージが浮かび上がってこないことがある。苦しい時間を刻むことになるのだ。
「小説は現実にあった事だけ書くのでなく、表現することだ。それは突然分かるものではない。小説は芸術で創造物だ。それを書くには沢山読むことだ。辛いのになぜ書くのか。仲間が得られるから書くのだ。努力すれば必ず目指す所に行ける」
 ある作家の言葉である。
「地味な活動だが、コツコツ勉強しないと文章はうまくならない」
 これは、ある同人誌の主宰者の言葉だ。
 おそらく創作という営為は、登山にもたとえられるような気がしてならない。文学という芸術の山は、高く険しい。いい加減な準備でその山に登ろうとすると、無慈悲に拒絶されるのだ。が、三合目、五合目、胸突き八丁の難所を越えれば、頂が待っているのだ。頂に立ったときの爽快感、達成感、そのために、私たちは辛いのに、書くという営為がやめられないのだ。
 まがね文学会は、先月の二十日にホームページ(ブログ)を開設した。まだ、一カ月も経っていない。今までは毎日のように、更新をつづけてきたが、これからはそうはいかないかも知れない。が、それが週一回、週二回になったとしても、その意義がうすれるということはない。
 私たちは、このブログとは別に、八カ月ごとに発行している、文芸誌「まがね」を持っている。これは三十年以上も継続している、試され済みの文芸誌である。書く人々はその時々で替わってきたけれど、次つぎに新しい書き手が誕生してきたのだ。それを引き継いで今も「まがね」は健在である。
 「まがね」とブログ、私たちは発表の場をふたつ手に入れたのだ。この舞台をベースにして、私たちはいい作品を発表していきたいと願っている。いずれも、発表の場であるとともに、修練の場でもある。一日一句、一日一枚を胸に刻んで、書いてゆきたいものだ。
「小説が書けると、芸術を通して社会と関わり、人生を豊かに生きることができます。なんと素晴らしいことでしょう。すぐれた作品が書ければ、この素晴らしさは何倍にも輝きます」
 キーワードは、「自分らしさ」、「夢中になる」、
「気がつく」です。こう語っているのは、作家の風見梢太郎である。
「柳行李いっぱい書いて一人前だ」
 ある作家の言葉だ。
 が、いっぱい書いたからといって、いい作品が書けるとは限らない。それほど小説を書くということは、容易でないということだ。
 だが、私たちは、苦しいけれども、魅力的な「小説のある暮らし」を日々の生活の中に、取り込んでゆきたいと思っている。

規約を掲載しました

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入会案内は準備中ですが、「規約」を掲載しています。

(笹本)

規約

日本民主主義文学会岡山支部(まがね文学会)規約

一.この会は、日本民主主義文学会岡山支部といいます。

二.この会は、日本民主主義文学会規約と方針にもとづく活動を行ないます。
  また、そのほかに地域に根ざした文学運動の発展に努力します。

三.入会の資格は、この規約に賛同する者で、原則として日本民主主義文学会の会員、準会員および、『民主文
学』の読者とします。その他の人で入会を希望する場合は、会で協議して決めます。

四.会は、支部長一名と事務局長一名、「まがね」編集長一名、会計一名と幹事若干名、その他の役員を置きます。幹事は、編集委員および事務局員を兼ねます。


五.年一回総会を開き、一年間の方針と役員を決めます。月一回程度例会を開きます。例会では、会運営に必要な ことを協議し、各自のもつ文学上の問題を話し合います。会の日常の運営は幹事会で協議して行ないます。

六.会費は月額五百円(学生百円)とします。

七.他の文化団体、民主団体とも積極的に交流します。

八.この会は、機関誌と月報を発行します。

九.この規約の改廃は総会で決めます。

二〇一三年二月二四日 一部改定

「カミーユ・クローデル」 野中秋子

カミーユ・クローデル   野中秋子

 先日テレビの芸術番組で女性彫刻家カミーユ・クローデルの作品とその生涯が紹介されていた。
 パリにあるロダン美術館には30年程前に一度だけ訪れた事がある。「ロダン」という発音ではタクシーの運転手に通じなくて、「オダン」と発音するのだという事もその時知った。
 ロダン美術館の一室をとってカミーユ・クローデルの作品が展示されていた。私はこの美術館を訪れるまでカミーユについては全く知らなかった。おそらく彼女をモデルに使ったのであろうと思われる、とても大胆なポーズのロダンのスケッチ画とともに、この男と肩を並べる程の力量を感じさせる女性の彫刻家がいたという事実は私の心に強く残った。
 「カミーユ・クローデル」の映画を見るために広島まで出かけた事もあったが、見終わった後、私は出口のない暗闇の中に放り込まれたような辛く憂鬱な気分に襲われてしまった。
 何故なのか。一つには創作を通して語られるロダン自身の言葉が若い頃の私を魅了し、日本でも度々見る機会のある彼の作品の素晴らしさが芸術家としてのみならず、人間としても素晴らしいと私の心の中に焼き付けられていたせいである。
 1864年に生まれたカミーユは、幼い頃から神話や聖書の劇的シーンを想像力だけで立体化して遊ぶような子供だったらしい。父親の転勤に伴って各地を移動する度にカミーユの関心事だったのは、近辺に粘土性の土を見つける事だった。
 彼女の才能を最初に認めたのは、パリの美術アカデミーで彫刻を学ぶアルクレート・プーシェという人物で、彼はカミーユの弟の家庭教師の友人という間柄だった。プーシェはカミーユの作品を見て、本格的に彫刻を学ばせるよう彼女の父親に勧めたのだ。
 当時のフランスは、まだ国立美術学校に女生徒を受け入れていなかった。
 1881年、パリの美術学校ジュリアンでカミーユは学び始め、学友と共同で本格的に学習アトリエを開き制作に没頭した。そして翌年サロン(政府主催の官展)へ送った石膏胸像が見事入選し、未来は希望に輝いていた。
 そんな時アトリエの指導者だったプーシェはローマに留学することになり、代わりにやって来た新しい指導者がオーギュスト・ロダンだった。こうして18歳のカミーユと42歳のロダンは出会った。
 ロダンはこの時既に量感溢れる作風で他を圧倒する新進気鋭の彫刻家として世に出ていた。彼はカミーユの並々ならぬ才能に衝撃を受けるとともに、その若さと美しさに心を奪われてしまった。ロダンには16年連れ添ったローズ・ブールという女性がいたにもかかわらず。
 カミーユとロダンの関係は子弟を超えた男女の愛へと進んでいった。ローズは貧しいロダンのためにお針子として働き、日常の世話から作品の管理までやり、一人息子が生まれても内縁のままでロダンに尽くし続けるという女性だった。
  才能溢れるカミーユの中で、彫刻家としての自立の欲求とロダンへの強い愛の葛藤という苦しみが始まった。誇り高いカミーユは、愛人の座に甘んじることは出来なかった。また彫刻家としても、女性という事で容易に世間から認められず、事あるごとに、「ロダンの物真似」「ロダンの生徒」と言われ続けてもきた。
 彼女はロダンと出会い、学び、お互いの才能を認め合いながら創作を重ねていった。そして激しく愛し合い強く反発しあった。 しかしロダンが最後に選んだ女性はローズだった。
 醜い老婆と一緒に去ろうとする老人。そして男に取りすがる若い女。「分別盛り」という題名でカミーユはその時の自分の想いを作品にした。老婆はローズ、老人はロダン、若い女は彼女自身を表している。
 1898年、カミーユは彫刻家としての自立をめざしロダンのもとを去る。しかしその後間もなく心を病み精神病院に隔離され、78歳でその生涯を終えるまでの30年間、病院から出る事は一度もなかった。妄想の中で激しくロダンを憎み続けながらの30年間であった。
 ロダンはカミーユのために病院へお金を送ったり、晩年建設予定のロダン美術館の一室をカミーユ・クローデルのために捧げるよう遺言も残している。
 1880年フランス政府の依頼で制作された未完の作品「地獄の門」はカミーユ自身もモデルとなり、共に制作した二人の愛の葛藤の最後のモニュメントと言われている。
 幽閉された病院の中で30年間、かつて愛した男を憎み続けるカミーユの心の中は想像を絶するものがある。
 彼女を発狂に追い込んだものは何なのか。そして発狂せずにその苦しい人生の一場面を乗り越える道は、一つも見出しえなかったのであろうか。まだ彼女が若かっただけに、一層その事が私を辛い思いにさせた。
 ロダンをして、あの時代で女性を一人の人間として見る力をどれ程持ち得ていたであろうか。
 こんな事を考えている時私の心をよぎったのは、「一番時間がかかり、最後まで残るのが女性差別だよ。これは相当時間がかかるなあ」と喫茶店でお茶を飲みながら私達に語った、哲学者の古在由重氏の言葉だった。まだ私が若い教師だった頃の話だ。また我が娘の結婚式のスピーチでこうも言ったそうである。「娘よ。夫の奴隷にはなるな」と。
 ロダンもカミーユも共に才能豊かな芸術家である。二人とも自分の力への自負とともにプライドや高慢さも持ち合わせ、その事が二人の愛情の中の葛藤の一つにもなったであろう。単に二人の女の間を揺れ動く優柔不断な男ロダンという側面だけでなく、女がその仕事に自分と肩を並べる程の力を持って現れた時、ロダンはその男の古さでもってカミーユの全てを受容しきれなくなったのであろうか。カミーユはローズのように、愛する男の後ろを静かについて行くだけでは終わらなかった女である。
 しかし愛の関係においては、カミーユも多くの女性達がそうであったように、まだ自立の方法を見つけ出す事が容易には出来なかった。またロダン自身も自分の中の愛に生きる勇気は持ち合わせていなかった。
 若いカミーユが激しい恋愛の破綻から受けた深い傷を糧に一層芸術家としての力に豊かさを増し、ロダンをその創作でもって乗り越えていってほしかったと女性の私は強く思う。
 男を全身全霊で愛した自分まで否定せず、その愛の過程の自分のありのままを受容し、作品を生み出す女としての力を私はカミーユの中に見出したかった。

総会のご案内

総会のご案内

日時:2月24日(日)午後1時~4時半
場所:アヴェニュウ(倉敷市本町11-30)

年に一度の総会です。1年のまとめと新年度の方針、体制を論議します。
ご参加ください。

「父」 鬼藤千春

父   鬼藤千春

 父が他界してかれこれ十五、六年になる。九十二年の生涯だった。父の生年は一九〇四(明治三十七)年である。日露戦争開始の年に生を受けたのだ。その年の九月には、与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が『明星』に発表されている。
 太平洋戦争の終結をみる一九四五(昭和二十)年まで、父の生きた時代は、まさに戦争につぐ戦争の時代だった。いつどこへ赴いたかは聞いてないが、父はこの間三回に渉って徴兵されている。
 父は大工だった。戦前と戦後の十年くらいは、日本家屋の棟梁として働いていた。が、この期間はまともに大工の仕事があったようには思えない。私は一九四七(昭和二十二)年生まれだが、幼少年期と思春期は、わが家の経済は貧窮の底にあった。
 タンスやその他の家具、自転車なども差し押さえられた。主食はほとんど麦飯であった。若しくは芋粥だった。長兄は小、中学校と首席であったが、高校へ上げて貰うことはできなかった。風呂もなく私は首のあたりに垢をつけて、学校に通ったものである。友達からそれを指摘されて、よく囃し立てられたものだ。
 昭和三十年代になると、都会では鉄筋コンクリートづくりの建築物が、建てられるようになった。それで父は日本家屋の棟梁をやめて、型枠大工となって岡山市へと働きに出ていた。それで長兄も次兄も、父について働きに出るようになった。
 父は極端に寡黙な人であった。父が六十を超えて第一線を退くまで、ほとんど私は話したことがない。どんなに悪戯をしようが、友達と喧嘩をしようが、いつも鷹揚に構えていた。それはまったく母と対照的であった。父は婿養子であったが、寡黙なのはそれが原因ではなく、生来のものだった。
 父はこのうえなく、酒が好きだった。しかし、酒を飲んで酩酊するということは、ほとんどなかった。毎日二、三合の酒を、舐めるように飲むのだ。夕食の座卓の前に座っている時間は、たいてい二時間前後であった。飲んでも父は喋らなかった。ただ、頬をゆるめて、微笑を洩らしているだけだった。
「もう、いい加減にせにゃ。子どもの修学旅行へいく金がないというのに、何を考えとんじゃろうか」
 母が台所から口を出す。
「……」
 父はただ黙っているだけだ。
「酒ばっかり飲んで、少しは家計のことを考えてくれにゃ。税金を納めるために、畑を手放さにゃならんいうのに、もう酒飲みは嫌いじゃ」
 母の愚痴は果てしなく続くのだった。
「……」
 が、父も限界点があるようで、時折り座卓をひっくり返すことがあった。
「……」
 父は怒号を挙げるわけでもなく、平然と振る舞っていた。
 茶碗や皿や徳利が、座敷に乱れ飛んだ。母は狂ったような声を挙げて、闇に包まれた外へ出てゆくのだ。出て行ったら母はしばらく家に帰らなかった。消防団の捜索は一度や二度ではない。
 だが、父は慌てるようすは微塵もなく、悠然と酒を飲んでいた。私たち子どもは、いたたまれず席を立って、他の部屋へ逃げてゆくのだ。弟は押入れに潜り込んで、声を押し殺して泣いていた。貧しさと諍いと、出口のない暗闇の中に、わが家は佇んでいるようだった。
 しかしそんな父であったが、村人の噂によると、戦前父は警察に連れて行かれたことがあるとのことだ。東地区の漁師と寄合いを持って、「戦旗」やマルクスの研究会をしていたらしい。治安維持法違反ということだ。
 家にはそれらしき書籍は何もなかった。私は訊くこともできず、じっと見守っているだけだった。が、父は時折り仕事から帰ると、夜、酒も飲まずに出かけることがあった。酒以外、煙草も賭けごともしない父であったので、それはひとつの謎だった。
 私が高校で社研部に入って、部落問題やベトナム問題に首を突っ込むようになっても、父は何も言わなかった。ほとんど、無視をするような態度を崩さなかった。
「浩平、なにゅうしょんなら。社研部? そんなもんはやめとけ。社会に出ても、後ろ指をさされるだけじゃ。絶対に許さんけえのう」
 母は金切り声を挙げた。
「父ちゃんをみてみい。むかし、警察に引っ張られたんぞ。もう一度、そんなことをしたら、出ていって貰う約束なんじゃ」
 母の鋭い眼が光っていた。
 ある日、父が縁側に座っていた。私はそうっと近づいて父の横に座った。二人ともしばらく黙ったままだった。
 遠くを見るような眼をして、父はおもむろに言った。
「浩平、自分の、思うように、生きりゃ、ええんぞ」
 一字一句噛みしめるように、父は言った。
 浩平は、初めて父の声を聞いたように思った。その言葉は、浩平の胸を打たずにはおかなかった。

「大間からのレポートを読む」 鬼藤千春

三浦協子―大間からのレポート―を読む    鬼藤千春

 私は「民主文学」を、一ページ残さず読むようにしているが、このレポートは比較的早く読んだ。(二〇一三年三月号)
 大間――私が知っているのは、大間まぐろである。それは、まぐろの一本釣りがたびたびテレビで放映されたためである。私はいま生まれ育った、故郷の漁村に住んでいるので、漁業には興味があるのだ。私は農耕型よりも狩猟型(この場合漁業)の人間だ。それは生まれ育った気候風土が、私をそういう風に育てた。
 わが村も、水島臨海工業地帯が建設されるようになったとき、財界・大企業が補償金を支給して、漁民を黙らしたのだ。廃液の垂れ流しによって、漁場は一時死滅情況に陥った。いくらか元に戻ってきているが、衰退傾向は続いている。財界・大企業が何か為そうとするとき、補償金という名の金で地元民の声を封じるのだ。
 いま私は、日本地図を開いて「大間」を捜している。が、捜すほどのこともなかった。そこは下北半島の先端、本州最北端の町だった。ここに、電源開発大間原子力発電所が建設されようとしている。レポートによれば、二〇一二年十月一日に、建設工事が再開された。ウィキペディアによれば、二〇一五年に稼動予定とある。
 レポートはこう記している。「大間原発の工事を続けるのかどうかが、未来永劫この国が原発に依存するエネルギー政策を選択するということにNO! を言えるかどうかの分かれ道だ」
 まさにその通りである。「きれいな空気ときれいな水ときれいな海があれば、人間はみな平和に暮らしていける」と、熊谷あさ子さんは語っている。これはあさ子さんの実感であるとともに、漁村に住む私の痛切な実感でもある。
 このレポートのテーマを著者はどこにおいているか。それは、文字通り「下北と核・辺地差別」である。著者はここに問題意識をもち、焦点を当てて考察しているのだ。
「辺地の自治体は、真っ当にはやっていけないのである。人口六千人の町民税だけで、都市と同じ程度の住民サービスの維持ができるわけがない」
「実際の原発・核燃マネーは、多く、病院の維持や消防車の購入、保育士や看護師の人件費、アワビの育苗等に充てられて市民生活のために使われている」
「政府は辺地に配慮しない。税金の再配分を政治がやらなければ、辺地の生活なんて立ちゆかないに決まっているのである」
 外部の人から見れば、豪華な庁舎や不相応なホールを作ったりして、いいことをしているな、と思わされている傾向がある。だが、決してそうではないことを、著者は鋭く指摘している。
 そして、このレポートで眼を見張るのは、地元住民、とりわけ漁民への懐柔策である。「昆布の集荷、五十キロ離れたむつ総合病院への送迎、結婚式のビデオ撮影、全国の原発への(良いところしか見せない)視察旅行等で、至れり尽くせり」なのだ。この記述はとてもリアルである。こうして彼らは、恥も外聞もなく、みずからの目的のために、醜い工作を弄するのだ。
 このレポートを読んで、私は原発開発をめぐる動向等に、眼を開かされたような思いでいる。この著者の「我らは主権者」も読んでいるが、優れたものだった。ますますの活躍を期待するとともに、また「深夜の果て」のような創作を読んでみたい、という思いに駆られている。

「流れ星」 鬼藤千春

流れ星   鬼藤千春

「こんにちは。ガスの交換に参りました。失礼致します」
 恭平は弾んだ声を掛けて、ガス置き場へ行った。
「ご苦労さん。安全に頼みますよ」
 奥さんが台所の窓を開けて、顔を覗けた。
「はい、大丈夫ですよ。ご安心下さい」
 恭平は頬をゆるめて、にっこり笑った。
「有り難うございました。失礼致しました」
 ガスの交換を終えると、恭平は空きボンベを軽四に積み込んで、次の家へ向かった。
 ガスというのは、プロパンガスのことで、恭平はその配達をしているのである。この仕事に就いたのは五年前、二十八歳のときだ。
 五年ちょっと前、恭平は統合失調症に罹ったのだ。まず、夜眠れなくなった。眠りに落ちるのにずいぶん時間を要したし、眠っても浅い眠りで間をおかず覚醒した。朝目覚めても、身体は鉛のように重く、倦怠感に包まれていた。食欲は乏しく、左耳は虫が鳴くような耳鳴りがしていた。そして、失語症のようになって、人と話すのが辛いのである。声を振り絞らなければ、人と話せないのだ。さらに新聞や本が、二、三行しか読めなくなってしまった。
 内科や耳鼻科で受診しても、異常は認められず、やむなく精神科を訪ねたのである。そこで、統合失調症と診断が下されたのだ。入院は勧められなかったが、二種類の抗精神病薬が処方された。恭平はいまもその薬を服用している。
 が、このガス屋の仕事も今日で終わりだ。病気になる前、恭平は建築会社で現場監督をしていた。が、病気になって、会社を休み勝ちになり、現場管理も思うようにいかなくて、解雇されたのである。
 それで、恭平は三カ月ほどアパートで、独り悶々として暮らしていた。
「青山さん、仕事はどうしたん。あれッ、顔が蒼白いわねぇ。どこか悪いのじゃないの」
 アパートの大家さんが、恭平の顔をじろじろ見ながら言った。
「うん、ええ、ちょっと……」
 恭平は、顔をそむけ逃げるように、六畳ひと間の部屋へ身を隠した。
 恭平は死のうと思った。睡眠薬を大量に飲んだのだ。苦しむのが厭だったから、ウイスキーでほろ酔い加減になって、薬を飲んだのである。が、深夜にウイスキーとともに、薬を吐き出していた。死ねなかった。生きていたのだ。
「なに? これは。いったいどうしたというの」
 奈津子は朝やってきて、枕元に吐き出した異物を見て慌てていた。
 奈津子は小学校の教師をしていた。すぐ恭平を病院へ連れていき、胃洗浄をして貰った。が、奈津子はしだいに遠のいてゆき、恭平から逃げるように去っていった。恭平は失恋したのだ。
 恭平はそれでも仕事を探した。失語症のような自分でもできる仕事、というのが条件のひとつだった。それで選んだのが、ガスの配達という仕事だった。ボンベの交換だけなら、何も喋らなくてもいいのだ。二十キロのボンベなら担いでゆき、五十キロのボンベなら底辺を斜めにして転がしてゆくのだ。黙って交換して帰っても、何の問題もなかった。
 だが、この仕事も今日で終わりだ。もともと不本意な仕事だったのだ。恭平は建築の仕事を忘れることができなかった。五年間、毎日毎日、ボンベを担ぎ転がす仕事をしてきたのだ。腰痛に悩まされるようになったし、単調な仕事に辟易していた。が、恭平は五年間耐えて耐えてきたのだ。それは喰うためだった。生きるためだった。
 が、五年間は決して無駄な時間ではなかった。ゆっくり、ゆっくり回復していって、ようやく人と話ができるようになった。本もいくらか読めるようにもなった。病気がすっかり良くなったというわけではなかったが、以前かかえていた症状は、ほとんど溶解していった。しかし、相変わらず通院はしていたし、いくらか後遺症も残っていた。
 新しい仕事に、まったく不安がないというわけではなかった。また無理をすれば、再発の危険があるのだ。が、恭平は新しい建築会社をみつけて、また現場監督の仕事に就くことにしたのだ。
「恭平、お前を手放すのは惜しいなあ。黙々と辛抱強く遣って呉れたのになあ。まあ、建築士の資格も持っていることだし、それを生かすのも手だよなあ」
 ガス屋の社長が、料理店へ連れて行って、歓送会を催してくれた。
「ほんとうに有り難うございました。みなさんのおかげで、気持ちよく働くことができました」
 恭平は深く頭を下げた。
 食事会を終え、外へ出て空を見上げると、星々がきらめいていた。そのとき、流れ星が西の空にすうっと落ちていった。 
 恭平は、生きてゆきたい、と強く思った。

「雨」 笹本敦史

雨  笹本敦史

 コンビナートは灰色の雨に覆われていた。煙突から空の中ほどに吐き出される煙は雲が描くグラデーションに溶けている。
 夜勤を終えた一団が通用門から出てくる。せめて晴れていてくれれば、生体リズムを侵食するような労働からの開放感を得ることができるかも知れない。しかしもう何日も雨が降り続いている。駐車場までのわずかな距離だが、傘をさしていても霧のような雨が体にまとわりつき、服が重く湿ってくる。車に乗りこめば、空調が湿気を払ってくれるだろう。そんな期待が足を急かせる。
「兄ちゃん。これからデートか?」
 太田のオヤジが後から声を掛けてきた。三十過ぎて「兄ちゃん」でもねえだろ、と亮一は思うが、もう六十に近いオヤジからすればそんなものなのかも知れない。そう言えば、オヤジには亮一と同い年の息子がいるらしい。息子は仕事もせずにブラブラしている。だからオレはいつまでも働かんとしょうがない。オヤジはそう言っていた。
「いや、帰って寝ます。疲れたんで」
「何を言ってやがる。オレがお前ぐらいの頃は夜勤明けでもぶっ倒れるまで遊んだもんだ」
 実は彼女に振られたんです。そう言えばオヤジは同情してくれるだろうか。顔にも態度にも表さないけれど、実はとても落ち込んでいる。オレの心は今日のこの天気みたいなんだ。
 車のエンジン音が近づいて来る。かなり飛ばしている音だ。構内は二十キロ制限で、会社が抜き打ちで速度取締りを行なっている。つかまれば訓告では済まない。ねちっこい責任追及の末、二十キロ以上オーバーしていれば軽くて減給、下手をすれば退職勧奨が待っている。それでも時々首を賭けたギャンブルに挑むやつがいる。またそんなやつが現れたのだろう。
「兄ちゃん、逃げろ」
 オヤジが叫びながら亮一の腕を取った。傘が手から落ち、地面で跳ねる。振り向くと黒いセドリックが何人もの人を跳ね飛ばしながら猛烈なスピードで走っていた。事故だ。運転ミスか車の不具合が原因で起きた事故だ。頭の一部がそう思い込もうとしている。
「早くしろ。こっちだ」
 オヤジに腕を引っ張られているうちにようやく事態を飲み込んだ。慌てて全速力で走り始めるとオヤジはようやく手を離し並んで走る。
 セドリックが迫ってきているのがわかる。エンジン音に加えてタイヤが路面を踏みつける音までもがしだいに大きく聞こえてくる。
「兄ちゃん左へ行け」
 オヤジは突然右に曲がった。その意図はすぐにわかった。二手に分かれればどちらかが助かる。しかも左手には逃げ込むことができそうな倉庫が並んでいる。セドリックがオヤジの走る方向に曲がったのがわかる。亮一は倉庫の前で足を緩め、振り返る。セドリックがオヤジに迫っていた。
「やめろー」
 亮一が叫んだ瞬間、セドリックが弾けとんだ。大型トラックが前方から突っ込んだのだった。セドリックは激しくスピンして止まった。
 亮一はボンネットが潰れたセドリックを横目にオヤジの方へ走った。大型トラックは巨大な肉食動物のように低い唸り声を響かせている。
 オヤジは膝に手をついて、肩で息をしていた。
「オヤジさん」
 亮一が走り寄ると、オヤジは、大丈夫だというように小さく右手を上げた。
 セドリックの方から怒号が響いた。亮一が目を向けると、数人の男が取り囲んでいた。一人が運転席のドアをこじ開けた。ドアが開いて小柄な男が引きずり出された。地面に転がされた男の頭を一人が蹴り上げた。仰向けに倒れた男の横腹を数人が次々に蹴った。
「あんなことしたら死にますよ」
 亮一がオヤジに言った。
「死ぬかも知れんな」
 オヤジが諦めたように応えた。まだ息が荒い。
「どうして、こんなことが……」
 亮一はそう言ったが、自分が何を問うているのかわからなかった。
「雨のせいだろう」
 オヤジが言った。それが正しいような気がして、亮一は頷いた。
 雨は風景を灰色に染め続けていた。

「ゴム長靴」 鬼藤千春

ゴム長靴   鬼藤千春

 斎場の入口で受付を済ますと、雄介は係員に案内されて、中ほどの左側の席に就いた。祭壇の中央には、桐山さんの遺影が掲げられていた。人懐っこい顔が笑っている。その左右は純白の菊で埋め尽くされていた。
 天井に埋め込まれたスピーカーからは、フォークの音楽が流れていた。生前彼の好んだ楽曲らしい。左上にはスクリーンが吊り下げられ、桐山さんの少年期や思春期の写真が映し出されていた。
 何気なく観ていると、一枚の写真がアップで映し出された。雄介はそのセピア色の画像に釘付けになった。桐山さんが青旗のポールを右手で握り、左腕は隣の男と腕を組んでいた。隣の男はなんと雄介だった。
 ベトナム反戦などを掲げた、平和友好祭の写真であった。蒜山高原で催されたものである。青い旗は市職員労働組合青年部の旗だった。雄介は身を乗り出して、写真をまじまじと見つめていた。二人とも微笑んで写っている。この時、桐山さんは青年部長、雄介は副部長だった。かれこれ、四十年ほど前の写真であった。雄介は胸を熱くして、その写真を凝視していた。
 桐山さんの訃報を知ったのは、新聞の「お悔やみ欄」だった。朝、ある政党の新聞を配達していた時、心筋梗塞に襲われたと伝えられていた。七十歳だった。雄介よりも五歳年上である。
 やがて映写は終わり、住職の読経が始まった。香が焚かれひとすじの煙が立ち昇っている。香の匂いが斎場に漂っていた。雄介は退屈な読経に飽きて、眼を瞑っていると、桐山さんのことが鮮明に甦ってくるのだった。
 桐山さんは建設部の土木課、雄介は建築課だった。青年部の頃、二人が中心になって、「建設ひろば」というB五サイズの職場新聞を毎朝発行していた。
「雄介、建設部の職員は、測量や建築の現場管理に出て行くよなあ。現場には水溜りもあるし、長靴がいるよなあ。じゃが、みんな自前じゃないか。おかしいと思わんか」
 桐山さんが、雄介の顔を覗き込んで言った。
「そうですね。ぼくも長靴を自分で用意しているし、みんなもそうですよ」
 ちょっと首をかしげるようにして、雄介は桐山さんを見た。
「雄介、明日の新聞はこれでいくぞ。よし、わしが原稿書くから、お前はガリを切ってくれんか」
 桐山さんは、右腕のワイシャツの袖をまくりあげた。
 翌朝、二人は建設部のフロアに入り、机の上に「建設ひろば」を届けて回った。
「雄介、これはヒットじゃなあ。みんなの思いにぴったりじゃ」
 こういう職員の声が、あちこちから聞こえてきた。
 その日の業務を終えると、二、三人の青年部員と共に、建設部長の席を取り巻いた。
「部長、『建設ひろば』を読んでいただけましたか。建設部のみんなは、自前で長靴をそろえているんです。ぜひ支給して貰えませんか」
 青年部員は、顔を赤らめて口々に訴えた。
「きみッ、君たちの言うこともよく判る。だけど、わたしがここでいますぐ、うん、というわけにゃいかんよ。うえッ、上と相談するから、ちょっと待ってくれんか」
 部長は眼を白黒させて、戸惑ったようすだった。
 三日後だった。部長は桐山さんと雄介を呼んだ。
「上と相談したら、支給する、ということじじゃ。桐山さん、ここはわたしたちが折れたんじゃから、これからは、お手柔らかに頼みますよ」
 部長は懇願するように言った。
 これほど早い対応はまれのことだった。みんなの声が、道理が通っていることと、これを無視すれば、みんなの絆がますます強くなることを畏れたに違いなかった。
 リンが大きく鳴って、住職の読経も終わりを告げた。
「桐山さん、四十年前の長靴の支給は、今も続いていますよ。市職員の被服等支給貸与規程に、しっかり盛り込まれていますよ。ゴム長靴は貸与でなく、支給で三年となっています。桐山さん、あなたのおかげです」
 雄介は合掌をして、呟いた。
 桐山さんの柩に花々がそえられ、そこここで嗚咽が洩れていた。桐山さんは、花々にうずまって、微笑が洩れているような、優しい顔をしていた。
 いよいよ出棺である。霊柩車に柩が納められ、黒い参列者はその車を取り囲んで、合掌をしていた。山の上にある火葬場へ出発である。クラクションが長い音を曳いて、鳴り響いた。
雄介は自家用車に乗って、霊柩車のあとを追った。
 「桐山さん、桐山さんッ――」
 雄介はそう叫んで、絶句した。
 胸の奥底から込み上げるものを、抑えることができなかった。
 雪がちらほらと舞い降りていた。雄介は車のスピードを上げた。

「民主文学13年3月号」 石崎徹

「民主文学13年3月号」 石崎徹

たなかもとじ「少年」
 佳い作品である。だが、そう感じるのは終わりまで読んでからである。少年がどこからか、いきなり出現する場面で、あれ?とは思うが、まさか「民主文学」の作家がそんな技巧は凝らすまいという思いこみから、少年の語る美談への違和感が、ついてまわるのだ。
 そのあと少年の死を暗示する二箇所(15ページ上段末行、21ページ上段6行目)で、さらに、あれ? あれ?と思い、少年がふと消えてしまうところまできて、これはひょっとすると、と思いはじめる。最後に(結末はあえて書かないが)どんでん返しが待っている。
 死は常に理不尽だが、親にとって子の死ほど納得できないものはないであろう。なんとかして子の死を受け入れたいという思いにあふれた、痛ましい作品である。
 遺骨、遺体と対面する二度の場面の圧倒的なリアリティ(丹念な取材と文章力なくては書けなかっただろう)に対して、甘すぎるかに見えた少年の物語が、見事にはまりこむ。その非現実感は計算されたものだったのである。
 惜しむらくは、人物に個性が不足している。でもこの長さでは無理だったかもしれない。

橘あおい「スタートライン」
 ぼく自身が書いてきたこと、書こうとしていることへの反面教師のような気がしながら読んだ。病院現場には複雑な困難がある。作者はそれを書きたい。ぼくもぼく自身の現場を書きたい。でも、「どうせ読者にはわからないんだから、そんなに詳しく書かなくてもいい」と言われてしまう。だが、ぼくが書きたいのは「書かなくていい」と言われているほかならぬそのことなのだから、「書かなくていい」と言われれば書くことはなくなってしまう。ストーリーはある。ストーリーがないと読者がついてこれないから、一応ストーリーは作る。そのストーリーだってどうでもいいものではないが、ほんとうはそれよりも現場の複雑な困難さをそのまま受け取ってもらいたいのだ。そういう一生懸命さを感じつつ、伝わりきらないもどかしさを持って読んだ。
 困難な現場で生きていくためにはどこかで割り切る必要があるだろう。罪悪感をかかえつつ割り切る。小説的にはそういう主人公のほうが効果的だと思うが、割り切れないところにこの作家のよさがあるのかもしれない。

芝田敏之「種火」
 40年前の話だが、たいへん面白い小説である。文体が簡明で心地よくスピード感があって、軽快によどみなく読める。小説は面白ければよいとは思わないが、面白いものがひとつもなければ、「民主文学」は読者を失うだろう。随所で微笑が漏れた。読者を楽しませることは小説の役割のひとつであろうと信じる。
 試験の結果がどうなったのか知りたくなるが、それはどうでもよいのである。試験会場では多少の嘘はついても、最終的に「自分らしくありたい」と決意したことが心地よいのである。もっとも、失業時代の現代では通用しないかもしれないが。

工藤 威「閉室」
 平板で、リズムのない、筋も通らない文章が、現在も過去も区別なく、のっぺらぼうに続いていく、まことに読みづらい一作。何か意味があってこんな文体を使うのだろうか。
 ふだん誰も意識しないトイレ掃除の大変さが、なるほど、この文体から浮かび上がってくるようにも思える。平板さや、リズムのなさは、その作業の単調さを強調するためと取れなくもない。だが文章に筋が通ってないのは何のためなんだろう。意味があるようには思えないのだが。仕事のつらさを読者に味わわせようとしているのだろうか。

「カーネーション」 鬼藤千春

カーネーション    鬼藤千春

 三月三十一日。
 瓜生貴志の定年退職の日である。彼は机の抽斗の中を片付けていた。私物と役所の物を分けながら、苦い想いを噛みしめていた。十八歳から六十歳まで、実に四十二年間勤務してきた市役所の建築課である。
 貴志は建築課の係長だ。係長どまりだ、といった方がいい。同じ工業高校から同期入所の榊悟朗は、建築部の部長である。建築部はいくつかの課を統括する部署であり、そこのトップが榊であった。
 広いフロアの最も奥の席に榊は座っている。貴志が片付けの手を止めて、その席の方に眼をやると、榊は腕を組んで鷹揚に構えていた。その席に近づいて頭を下げている部下を見上げて、屈託のない笑顔を振りまいている。
 榊はよく仕事をする男だった。入所した当時から退勤の五時になっても、ほとんどその時間に席を立つということがなかった。課長や係長が仕事を切り上げるまで残って、よく一緒に帰っていた。そして、部長の席まで駆け上ったのである。
 貴志は仕事ができないという方ではなかった。ただ、彼は高校のとき文芸部に所属して、雑誌の発行などに携わってきた。ベトナム戦争や文部省の愛国心を育成する、「期待される人間像」などの研究会にも首を突っ込んでいた。だから、労働者に対する当局のあり方などについて、関心をもって見守ってきたのだ。
 さらに、ここの労働組合は、特定政党支持を機関決定し、その政党へのカンパも強制されていた。貴志は組合員だったけれど、それには初めから納得がいかなかった。労働組合は要求に基づいて団結するのであって、その構成員の思想、信条は守られなければならない、と考えていた。
 貴志は職場集会などで、組合の執行委員に異議を唱えてきたのだった。そのために、組合は貴志を敬遠するようになったのだ。そのうち組合のレクリエーションなどにも誘いがかからないようになった。
 貴志に対する当局の差別も露骨に行なわれた。彼が主任になった時には、榊はもう課長になっていたし、ようやく係長になった時には部長になっていたのだ。貴志はそのたびに屈辱を舐めてきたのだ。後輩が彼を次つぎと追い越していった。彼は労働組合からも当局からも睨まれながら、仕事をしてきたのだ。
 抽斗の中を整理しながら、貴志は硬く唇を噛んでいた。不意に苦い胃液がせり上がってくるような嘔吐感があった。この四十二年間は貴志にとってなんだったのか。差別と屈辱の永い時間だったのだ。
 が、貴志は外部の演劇サークルや登山の会に所属して、市役所での疎外感から開放されて、愉しく過ごすようにしてきた。そんな趣味の会に、職員を誘って入ってもらっても、当局か労働組合からの横槍が入って、すぐに去ってゆくということがずっと続いてきた。
 榊のところへは、ひっきりなしに部下たちや他の職場からも挨拶に来ていた。が、貴志のところへは誰もやって来なかった。彼は黙々と抽斗の中を片付けているのだった。
 午後から貴志は、建設部の職員に挨拶をして回った。しかし、彼らは視線をちょっと貴志の方に向けて、口を歪めて笑って見せるだけで、すぐに俯いて書きものをするのだった。
 なぜなんだ、どうしたというのだ。俺が何をしてきたというのだ。もっと胸を張って、顔を上げて生きてゆけないのか――。貴志は心の中でそう叫ばずにはおれなかった。が、当局や労働組合の眼が怖いのだ。決して彼らのせいではない。
 柱にかかった大きな時計が、五時を指しチャイムが鳴った。榊の席を多くの職員が取り囲んで、にぎやかに談笑している。ときに弾けるような笑いが起こっていた。
 そのうち、若い男が大きな花束を榊に渡し、一斉に拍手が沸きあがっていた。貴志も彼のところへ足を運んで、挨拶をした。
「おう、瓜生君か。お互いこれまでよく頑張ったなあ。君はこれからどうするんだ。元気でやれよ」
 榊は右手を伸ばしてきた。
「まだ、何も考えてないよ。しばらくゆっくりするつもりだ。部長も元気でいて下さい」
 貴志も右手を差し出した。榊の左手には大きな花束が抱えられていた。
 貴志は自分の席に戻り、ビジネスバックを手にして、ひっそりと帰ろうとした時だった。ひとりの女性が、彼のところに駆け寄ってきた。そして、花を一輪貴志に手渡して、
「永い間、ご苦労様でした」
 と声をかけ、微笑んだ。
美しい笑顔が印象的だった。そして、彼女は足早に立ち去っていった。
 それは、真紅のカーネーションだった。

「民主文学13年3月号」 鬼藤千春

希望は語られなければならない   鬼藤千春

 「民主文学」三月号の創作四編を読んだ。それらの作品に触れてみたい。

 たなかもとじ「少年」
 この作品は、「東日本大震災」を題材としている。津波で命を喪った息子への鎮魂歌である。おそらく取材と虚構で構築された作品に違いないが、まず綿密な描写に圧倒される。とくに、遺体安置所での息子の遺体の情況を克明に描いていて、その筆力には感心させられた。ここまで描き切るのは相当難しい。そして、重いのだ。しかし、少年の登場によって、その重さから救われる想いがする。
 この作品で、作者は「希望」を語ろうとする。それを少年に仮託しているのだ。この少年は幻影だ。編集後記で「手法的な挑戦がある」と記されているが、このことを指しているに違いない。息子の死はむごたらしく、哀しいけれど、少年の語る息子の生き方を知って、両親は初めてその死を受けとめられるようになるのだ。
 「ぼく、先生になりたかったんです。高山先生みたいな先生に」、これはこの作品の「希望」だ。だが、「希望」を描くということは、難しいことだ。この作者は、それでも慎ましく「希望」を語っているのだが、この少年の言葉は大地に根を下ろしていない。リアリティーがないのである。この作品が重い題材であるにも拘わらず、軽くなっているのは、そのためである。

 橘あおい「スタートライン」
 この作品の文章は流れるような文体である。したがって、一気に読める作品になっている。それはなぜか。それはこの作品のモチーフ、テーマが明確であるからに他ならない。文章、文体だけが独立して存在することはあり得ない。
 この作品は看護学校の女生徒の成長物語である。爽やかで清々しい作品で、好感がもてる。この小説の優れたところは、テーマに沿ってストーリーが収斂してゆくところだ。ムダ、ムラ、ムリというのは、ビジネス社会でよく使われる言葉だが、この作品にはそれがない。その構成力には眼を見張るものがある。
 だが、この作品はどこか教育実践記録のような趣があって、もうひとつ、読者を惹きつけてやまない、という風になっていない。「まりえ」に仮託して「希望」を語ろうとするのだが、その成長物語はいかにも軽いものになっている。「希望」を書くことの難しさがここにもある。

 芝田敏之「種火」
 この小説も「希望」を語っている。主人公は教員採用試験の一次試験にパスし、二次試験(面接)を受けた。二次試験の結果は二週間後である。それまでに「聞き合わせ」があったり、興信所の調査があったりするかも分からない、と友人から指摘される。そこで、主人公は共産党のポスターと共産党市会議員の後援会連絡所の看板を取り外す。しかし、五日が過ぎた時点で主人公はまた元に戻すのだ。
 ――これでいいのだ。どんなときでも自分らしくありたい。――と主人公は思うのだ。作者は、ここで主人公に仮託して「希望」を語ろうとしたのである。しかし、この物語の設定は妥当であっただろうか。果たして読者は、主人公のその行為に共感を寄せるだろうか。そこにムリがありはしないか。
 主人公と北川先生との交流、北川先生と主人公の教育に対する考え方は、読者を納得させ共感させるものがある。が、この小説の設定には疑問をいだかざるを得ない。優れた作品だが、設定を誤ったために惜しまれて仕方がない。果たして「希望」を語り得ているだろうか。

 工藤 威「閉室」
 この小説は私がもっとも好きな作品である。とくに、作者は「希望」を語ろうとしていないが、しかし、読者はこの作品世界に納得し共感を寄せることになるのだ。「希望」ではない「希望」を読者は受け取るのだ。
 まず、この作品は描写に優れている。細部まで丁寧に描き切っている。それに読者は感心させられる。主人公は、清掃会社の清掃員である。印刷工場のトイレの清掃を担当している。
 ある時、トイレの中に落書きが描かれていた。ドア一面に性行為のなまめかしい姿態が、太い赤のマジックで描かれていたのだ。男と女の生殖器は黒黒と生生しく描かれている。
 これを描いたのは、二十二歳の青年だった。
「あの大震災で東北の製紙会社も被害にあい、仕事が激減して退職勧告をさせられたらしいんだ、その腹いせだったらしい」、ここには、「希望」もなく閉塞感だけが描かれているように思える。
 が、――ヤロー、俺だって生身の人間だ! 人並に対応しろ!―― 性交の図と共に、この言葉が書きつけられていたのだ。ここに「希望」があるとは思えない。だが、この作品の奥底に作者の「希望」が隠されているのだ。だから、読者の共感を得るのだ。

 見てきたように、この四編は、「希望」を語ろうとしている。しかし、「希望」を語ることが如何に難しいことか、それを如実に物語っている。「希望」を書こうとすると、リアリティーを失う危険と隣り合わせなのだ。もろ刃の剣だ。それを充分認識して取り掛からなければならない。だが、「それでもなお、希望は語られなければならない」
 映画の例で恐縮だが、小津安二郎の「東京物語」、山田洋次の「東京家族」は、一方で子どもたちの疎外感を描いているが、一方で「希望」を切々と語って成功している。「胸を熱くせずして観られない」作品なのだ。我々はもっともっと、「希望」を語ることを研究してゆかなければならないだろう。時代と社会が閉塞感に包まれているからこそ、「希望」は語られなければならないのだ。

「蟹工船」評 石崎徹

小林多喜二「蟹工船」(新潮文庫「党生活者」併載)評 石崎徹

 45年ぶりの再読である。実はむかし読んだときはぴんと来なかったので、今回も、期待していなかった。むしろあらを探してやろうという気持ちで再読したのである。
 文章はあまり上手じゃない。だから最初のうちちょっと読みにくい。それでも今回ひきこまれてしまった。小説の魅力は必ずしも文章力だけではなさそうだ。
 2008年のブームは、(インターネットに出まわっている噂のひとつによると)、毎日新聞紙上での高橋源一郎との対談で、雨宮処凛が、その前日にたまたま読んだ当作品に「感動した」と言ったことがきっかけで徐々に読まれはじめ、それを新聞が記事にし、さらに郷ひろみがテレビのお笑い番組で、芥川と言うところを間違えて多喜二と言った瞬間にブレイクしたらしい(?)。160万部売れたそうだ。もちろん、何人が読了したかは分からない。2,3ページで挫折した人も多かったのではないか。書き出し部分が退屈なのだ。だが、せっかく買ったからには、そこを我慢して読み進めてほしい。蟹工船現場の迫力に圧倒されること請けあいである。
 作中、学生上りが「ドストエフスキーの『死の家の記録』も、ここに比べればましだ」とこぼす場面があるが、この作品には「死の家の記録」の影響が濃厚に認められる。余談だが、これも大変読みづらい本である。ストーリーというものが全くなく、シベリア監獄の徒刑囚たちの日常が延々と書き込まれているからだ。だが読み進むうちにその迫力に圧倒される。トルストイが激賞し、もう一人は「ミケランジェロの壁画だ」と言った。ドスト自身、「一幅の絵のように書きあげたい」と望み、そのとおりになった作品である。
「蟹工船」もまたミケランジェロである。荒れ狂うオホーツク洋上の、400人もの船員、漁夫、雑夫の労働、虐使、サボタージュの描写がありありと目に浮かび、そのまま、システィナ礼拝堂の「最後の審判」を想起させる。
 蔵原惟人は新潮版の解説で、「集団の迫力は描いているが、個々の人物を描けていないのが欠点である」と言った。これは無理な注文だ。確かにドストの「死の家の記録」は何十人もの徒刑囚一人一人を克明に描いているが、それは彼自身徒刑囚として数年を過ごしたからできたことである。25歳の一介の銀行員が取材だけでそこまで書けるわけがない。想像力で書いたとしたら、おそらく単なる作り事になってしまっただろう。多喜二はリアリティを失わずに済むぎりぎりのところからはみ出さなかったのだ。
 むしろ、人々がどういうわけか評価する「もう一回」というのは要らなかった。実際に「もう一回」があったのかどうかは別にして、この作品の必然性からは「もう一回」は出てこない。それはせっかくのリアリティを最後に損なっている。
 現代の読者から奇異に映るのは、ロシア社会主義に対する無邪気な信頼であろう。だが、それはロシアの実情を入手できなかった時代の制約であって、にもかかわらず、ロシア革命が当時世界中の労働者を励ましたという事実は消すことができないだろう。
 インターネットで「小林多喜二蟹工船」を検索すると、43万9千件出てくる。何万もの人々がそれぞれのサイトで感想を書いている。とても読みきれない。一冊の本を人々は様々な角度から読む。どう読んでも自由だ。ここに書いたのもそのひとつだ。
「蟹工船」を、「ミケランジェロの壁画」としてじっくりと味わっていただきたいというのが、筆者の希望である。

「創造・組織向上中国地区交流会」のご案内

「創造・組織向上中国地区交流会」が開催されます。

 民主主義文学会第25回大会の成功をめざし、「創造・組織向上中国地区交流会」が開催されます。
 交流会では、中国地区各支部から提出された作品の合評と組織問題の討議を行ないます。積極的なご参加をお待ちしています。

日時 3月31日(日) 11時~16時30分
場所 吉備路文学館(岡山市北区南方3-5-35)
講師 岩淵剛(評論家)

各支部からの参加者名簿と研究作品については2月24日(日)までにご連絡ください。(岡山支部 金藤まで)
 3月上旬には各支部から参加者に研究作品を送付するようにお願いします。

岡山支部3月例会はこの交流会に合流します。参加の連絡は2月24日(日)までにお願いします。

吉備路文学館HP


「批評の部屋」オープン

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「民主文学(2010年10月~)感想」 石崎徹

「民主文学」感想  石崎徹

「民主文学」掲載作への感想は、インターネット上の各種ブログで散見するが、それのみを系統的に掲載するものは見当たらない。このページでそれをやってみたい。
 誌上での限られた評者の批評のみで終わらせるのではなく、一読者としての個人的感想を表明してみたいと思う。そこから議論が巻き起こってくれればうれしい。
 月ごとにやっていきたいと思うが、最初なので、いままで読んだなかで印象に残った作家を取り上げる。2010年の10月から読みはじめたので、それ以後と、および「現代短編小説選」掲載作とが対象となる。
 最初に断わっておくが、すでに記憶力が減退しているので、取り上げ方はかなり恣意的になる。恣意的、独断的で、読み間違い、記憶違いもあるだろう。そこはコメントで指摘をいただきたい。
 なお、いわゆる文章達者な私小説的小説は、読んだときはうまいなあと感銘を受けて読むが、時間が経ってみると意外と記憶に残っていない。今回そういうものは除いたので、あしからず。
 渥美二郎「世界は今日もラブ&ピース」(10年11月号)
 困難で、せわしない状況にありながら、あくまで明るくぶっとばしていく、そのエネルギーは爽快である。しかもこの作家は能天気なのではない。物事がよくわかっているのだ。ホームページで公開された「ステイケイション」も読んだ。民主文学の生みだした異才である。
 ただし、いつも同じ調子なので、ちょっと飽きてくるのも事実である。今後が注目される作家であろう。
 櫂悦子「二十一歳の朝」(13年1月号)
 去年12月号で拙作「盗難」を誉められて、ますます好きになったが、じつは「現代短編小説選」で「謝辞」を読んだ時から注目していた。そのあと「南東風が吹いた村」(12年8月号)はややピンとこなかったが、今回作は期待に応えている。
「謝辞」と今回作の構成は似ている。職場の労働実態、矛盾をはらんだ人間関係が抑制された筆致で淡々とつづられ、ラストに来て溜め込んだエネルギーを吐き出すようにしてどんでん返しを打つのである。そこには非常に複雑な心理模様があるのだが、作者はそれを一切説明しない。読者の想像力にゆだねる。 
 ここらが日本近代文学伝統の自然主義的私小説の、もったいぶった心理描写と鮮明に切れている。この作者は小説というものを心得ている。
 須藤みゆき「義父のかばん」(12年10月号)
「黒ネコちゃんの贈り物」(11年9月号)は、庄司薫の「赤頭巾ちゃん」シリーズを髣髴とさせる筆致で、しかも下手な物真似には終わらず、作者のものとしてこなれていた。
 面白い作家が生まれたと思っていたら、「新月前夜」(12年2月号)はちょっとがっかりさせた。ミステリー仕立ての面白いアイディアなのだが、設定に無理があった。
 ところが今回作で、またまたびっくりさせられた。なんとも濃密な純文学仕立ての文体で、奇妙に味わい深い。
 これはとてつもなく器用な作家である。書くたびに文体が違う。それが作家として得か損かは分からないが、注目すべき作家である。
 細野ひとふみ「パニック」(11年3月号)「ドリフト!」(12年10月号)
 この人はまだ若いが農村労働を描いて見事な作品世界を作りだしている。
 大浦ふみ子「佐世保へ」(11年8月号)
 この作品はジッドの「狭き門」を連想させた。お互い思いを抱きながらお互いの誤解から食い違う男女、しかも、作者は誤解だと書かないのに読者はなんとなく分かって、はらはらさせられる。心憎い作品である。
 仙洞田一彦「チャラにしてくれ」(12年1月号)「昇竜」(13年1月号)
 風見梢太郎「森林汚染」(13年1月号)
 この三作品は、現代の不安定労働青年を書こうとして苦闘している。脇役を見事に書きながら、肝心の主人公の造形に失敗している。二人が書いているのはまだ「不安定労働青年」というレッテルであって、彼らも個性なのだということを忘れている。
 松本喜久夫「オーストリア王の帽子」(12年3月号)
 いま、信念を曲げない人間は教員にはなれないという現実を、ずばりと書いている。衝撃的である。
 笹本敦史「瓦解」(11年7月号)
 斬新な手法で、ロストジェネレーションの、追いつめられていく心理に迫っている。あっと言わせる結末に導いていく伏線の見事さ。もっと注目してほしい作品である。
             (石崎 徹

呉支部 伊藤英敏さんが朝日新聞に

伊藤英敏さんが朝日新聞に載りました。

 「民主文学」呉支部事務長、伊藤英敏さんを1月31日付朝日新聞備後版で、大きく取り上げています。
 プノンペン「ひろしまハウス」に寄贈した絵本700冊の翻訳が完成したという記事です。
「ひろしまハウス」が建設された経緯、絵本を贈った経緯、そして翻訳の経緯が紹介されています。
 伊藤英敏さん(69)は、NPO法人「ひろしま・カンボジア市民交流会」理事で、元高校社会科教諭、04年に退職して同会に参加、一年間、プノンペンの専門学校で日本語を教え、子供たちが絵本を求めているのを知り、贈る運動を組織、専門学校の教え子に翻訳を依頼、日本語から英語、英語からクメール語という形で3年かけて700冊を成し遂げたという内容です。特に擬態語、昔話の言葉に苦労したそうです。
 なお、「ひろしま・カンボジア市民交流会」については同会ホームページで見ることができます。伊藤さんの活躍している映像なども収録されています。

(石崎)