「民主文学」作品評の記事 (1/5)

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竹内七奈「自然的平穏生活」(「民主文学」15年3月号)

 老いたせいで、読んだ本の内容をすぐ忘れるが、この作家のものを批評した覚えがあったので、検索した。便利な時代になった。
 去年の新人賞受賞者であった。作品の内容を定かには思い出せないが、だいたいどういう作品だったかは思い出した。奇妙だが、魅力的な作品だった。そして今回もそうである。
 相変わらず見たこともないような漢字熟語を多用する。その上に、現代ではひらがなで書くのが普通の副詞に、明治時代風の漢字をあてて書く。こんな言い方ないだろ、というような奇妙な言葉の使い方もある。きわめつきは、まったく内容にふさわしくない形而上的なタイトル。
 だが、まず書き出しで読者をひきつける。
「恋愛は、死ぬのには邪魔である……いざとなれば死んでしまってもいい、と覚悟することで生き易くしたい……死に難い因を自ら作る必要はあるまい」
 個性的だし、何が書いてあるのかなと興味をそそられる。
 そのわりに話は平凡なのだが、面白いことは面白い。両親の不仲と離婚がトラウマになって、恋愛しにくい女性がいる。すでに40才くらい。60くらいの男と付きあい始める。これが、一男三女を作りながら浮気で離婚せざるを得なくなった男である。金もないのに飲んだくれであり、生活のあらゆる場面で趣味の違いにぶつかる。にもかかわらず、なんとなく馬が合う。
 結婚しようかという段階になって、男の息子や娘が出てくる。彼らは自分たちの母親を捨てた男を恨んでいる。女は、自分もそういう境遇なので、かれらの気持ちはわかるのだ。
 そういうごたごたを書いている。通俗的な筋立てで通俗的なテーマを書いているのだが、でも引き寄せられるものがある。そこには飾らない人間の性(さが)がある。こういう通俗的な言葉をルビ付きで使ってみたくなるような作品だ。
 いうならば、織田作之助の「夫婦善哉」や、太宰治の「ヴィヨンの妻」のような味わいがある。
 ここにはたてまえはない。通俗的であっても人間の現実がある。そしてそれを決して突き放してはいない。包容力を感じさせる。
「民主文学」にこのような作品が載るようになったことはよい傾向だ。

(「石崎徹の小説」から転載)
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渥美二郎「空の巣の日々」(「民主文学」15年3月号)

 ひさしぶりの渥美二郎である。そしてもとのままのジローワールドである。何年か空いたので、つぶれそうだった両親の料理屋はもうつぶれただろう、死にそうだったばあさんはもう死んだだろうと思ったら、どっこい、店もばあさんもまだ生きている。心身障害の兄も健在、12年前に離婚した元妻ともそのままである。
 ただ娘のモモは大学へ入って横浜へ行ってしまった。去られた家を世間では「空の巣」と言うらしく、寂しいだろうと同情されるが、本人はちっとも寂しくない。勤め先の高校と、自分の住まいと、両親たちの家とを巡り歩く生活に変化はない。ただ、一人で好きなことをできる時間は増えた。
 モモはいないが、それ以外はいままでと変わらぬ日常を変わらず描くだけの小説である。特別なことは何もない。にもかかわらず読まされる。それは文体の故なのだ。
 たいへんな日常を軽く書いてみせる文体に、かつて拒否反応を示した読者がいたが、今回の文体はそういう読者も受け入れやすいのではないか。独特のジロー文体が消えたわけではないが、日本文学を読み慣れてきた人たちにいくぶん妥協したようなところが見える。そしてそれがぼくにも成熟して見える。この作家に注目したのはその独特の文体のせいだが、同じ文体が続けば飽きも来る。成熟していくのが必然なのだろう。
 変わらないのは、作者と描かれていることとの間の距離感である。そこにほどよい空気の質量感があり、それが我々を共鳴させる。この作者は日常を描きながらそれ以上のものを描いている。それはつまりこの距離感なのだ。
 そしてラストは多少読者サービス。網膜剥離の手術をした元妻に、必要と思われる最小限の手助けをした主人公と元妻とは、おたがい相変わらず辛辣な言葉を投げあいながらも、最後は静かに手をとりあい、微妙な、いい空気が流れる。なかなか泣かせる終わりかただ。
 一点だけ、ちょっと読みとれなかった。ぼくの誤読かも知れないが、この手術の日は土曜日と思われるのに、「あしたは学校でしょ」という元妻のセリフが出てくる。あしたは日曜日ではないのか。

(「石崎徹の小説」から転載)

能島龍三「北からの風に」(民主文学1月号)

 何らかの体験をもとにせねば書けない作品であろう。リアリズムの重量を感じる。こういうものを読むと作りものの小説を薄っぺらく感じてしまう。
 精神障害の子供たちが入院している病院での話だ。その病院の中に学校があり、小学中学相当の子供たちを教育している。それまで知恵おくれの子を受持ってきた<私>は定年まぎわになって初めてこういうところへ来た。未経験である。
 障害の程度はさまざまだが、特に重症の子がおり、孝弘という15歳の少年がそうだ。作品は孝弘に焦点を当ててほとんどそれだけを書く。主人公は孝弘といってよい。
 幼児期に父親の激しい暴力を受けて脳にダメージを負った孝弘は、日常的に他人に暴力をふるってしまう。病院は人手不足もあり、彼を監禁し、なおかつ筋弛緩剤で動きをセーブしている。精神の動きがにぶく、教育どころではない。
 前任者の説明ではそれはいまの医者の方針で、以前の孝弘は小数も分数もでき、地理が好きだったのだという。
 医者が交代したおりに、<私>は薬を減らせないかと提案する。医者は迷うが、やってみようという結論になる。
 薬を減らすと心も体も動きが活発になり、その分暴力も頻繁だが、<私>はコツを習得して、危険を抑止しながら、次第に自由の幅を拡げてやろうとする。
 孝弘の暴力はやまないが、本人はそれを悪いことだと自覚しており、にもかかわらずやってしまうことに自責の念を抱いてさえいる。
 こういう孝弘を見て、<私>はいま孝弘の精神は最も高いところへあるのだと感じる。
 そして破局はいきなり来る。ちょっとしたきっかけで、孝弘の脳は最高の状態から最悪の状態へと一挙に転落する。暴力がとまらなくなり、拘束するしかなくなる。やがて急性硬膜下血腫を起こし転院、命は助かったようだが、肢体不自由児施設にいるという。だがこういうところの教師はルールによって生徒との個人的接触を禁じられており、それも噂に聞くだけだ。
 人間存在というものの重みをずっしりと受け渡される作品である。

(「石崎徹の小説」から転載)

新人賞佳作 長谷川美智子「リバティーに愛をこめて」 石崎徹

 これは力のこもった読み応えのある作品である。
 去年の佳作二作品はつまらなかったが、今年はよい作品がそろった。これが入選してもおかしくなかった。
 作者紹介を見ると、文学会に所属しているのは石垣さんだけで、あとの二人は会外からの応募のようだ。ろくな賞金の出ない新人賞だが、会外からもこれだけ注目され、すぐれた作品が集まった。いろんな意味で文学会が拡がる可能性を示したといえよう。
「ふくやま文学」を見てもそうだが、文学に真剣に取り組んでいる人で、文学会と極端に考えの違う人はまずいない。広範な連携が可能だと思う。それは文学会自体が脱皮していく可能性をも期待させる。

 敗戦から半年後の台湾からの引き上げの話である。満州、朝鮮からの引き上げの話はいくつも読んだが、台湾からというのは初めてだ。
 台湾人は比較的親日的だったということは昔から聞いていた。もちろんさまざまなケースがあっただろうし、本当の心の内はわからない。だが少なくとも当作品の家族一家は台湾にいる間は恵まれていた。
 だが全員退去せよという命令が下りる。50万人である。アメリカが提供したリバティという貨物船で引き上げる。一隻に乗れるのは2千人。単純計算で250艙のリバティがいる。貨物船に甲板から船底まですし詰め状態。乗船には艀から縄梯子を伝う。途中で落ちた者は捨て置かれる。その上に航路は機雷で埋め尽くされている。リバティは機雷に弱い。触れた瞬間に2千人の命はない。それを慎重によけながら進む。何隻もが沈んでいった。
 ほとんど食べるものもなく、非衛生と栄養失調で疫痢にかかって次々死んでいく。
 運よく日本にたどり着いても故郷までの汽車の旅がまた容易でない。
 そういう状態で旅していく親子6人の波乱万丈の物語である。
 描写は微に入り細を穿っており、リアリティ満点である。見てきたように語られる。だが作者は敗戦の年の生まれである。
 主人公の15才の少年には、弟一人、妹二人がおり、末の妹は生まれて間がない。ほとんど死にかけた状態で旅をし、何度も捨てられかける。ほかの子供たちを守るためだ。おそらくこの赤ん坊が作者なのだ。
 家族からの聞き書きで書いたとしてもすごすぎる。15才だった兄の手になる原稿があってそれをもとにしたのではないか。実際、小説の中で兄は原稿を書いている。そして小説全体が兄の書いたものという体裁になっている。
 庶民の経験した戦争の手記はおそらく大量にあるのかもしれないが、この作品は手記としても評価できるうえに、文学的鑑賞に堪えるものとなっている。
 引き込まれる作品である。

 なお、入選作に二箇所、この作品に一個所誤変換と思われるミスがあった。「民主文学」誌上でミスを見ることはほとんどない。今回時間がなかったのであろうか。

民主文学新人賞佳作 石垣あきら「望月所長へのメール」 石崎徹

 この作品もなかなか良かった。ヘルパーが金を盗ったか盗らなかったかをめぐってミステリータッチで物語が進んでいく。関係者の会話を主体として真相を最後まで読者に伏せて進める手法はミステリーのものである。
 作者は上手に伏線を張っていく。この伏線があるので、最後の意外な結末が十分納得できるものになっている。
 解決がメールという形で一気に語られるところを安易に感じないでもないが、美紀の性格ではこういうことを口頭では言いづらかっただろうと思わせ、納得できるものである。
 女性の微妙な心のありかたは、ぼくには実感を持って理解することは難しいが、成程こういうものかと思わせられた。作者が名前からたぶん男と思われるだけに、感心した。(ひょっとして女性だろうか)。
 こういうストーリーで読者をひきつけながら、語っているのは政府の無策のために介護の現場がどんなに困難をかかえているかの実況報告である。そしてまたその仕事の大切さも語られている。
 作者はすでに62才だが、年齢に負けていない。読んで損はしない作品である。
 登場する年配の女性たちがファーストネームではなくファミリーネームで書かれるのもいい。日本の実社会ではこれが普通なのだが、日本の小説の約束事で、女性はすべからくファーストネームで書く慣習がある。そう書くと名前だけで男か女か分かる。便利な方法だが、安易な方法だと日頃感じていた。
 好感をもって読んだが、ただそのための不便はやはりある。冒頭に登場する前田が男か女か分からないのだ。
 読者は小説を読むとき、映画を見るように場面を頭の中のスクリーンに映し出しながら読む。登場人物の姿かたちがわからない、まして男か女かもわからないようでは、スクリーンに何も映ってくれない。
 以後の場面では人物をしっかり紹介している。だが冒頭でイメージを結べないというのはまずい。
 あと最近社交下手な女性の話を続けて読んで、認識を新たにした。というのはぼくのまわりにいる女性たちがみな嫌になるほど社交的な人ばかりで、反面男たちは社交下手な人間ばかりだから、そういうものだと思っていた。そうでもないようである。

(「石崎徹の小説」から転載)

民主文学新人賞受賞作品 竹内七奈「せつなげな手」 石崎徹

 奇妙な小説である。
 聞き慣れない漢字熟語がかなり場違いな感じで方々に顔を出す。古びた言い回し、大げさな表現。
 その上に、まるで思いつくままに書いたかのように、脈絡なく無関係なことがらが挿入され、しかもそこを本文と同じ比重で書く。
 支離滅裂という感じで進んでいくが、それがじつは主人公の精神状態ときれいに重なるようにも思える。
 しかも読み終わってみると書き出しと末尾がぴったり符合し、全体がひとつにまとまっている。
 奇妙だが、魅力的な作品だ。
 主人公の名前は作者と同じ竹内さんである。作品の現在において竹内さんは35才で、作者より4、5才若い。だが主文は3年前の回想であるから、32才の女性の話である。
 どこまでが作者の意図して仕組んだことなのか、それとも意図せずしてこういう書き方になったのか、そこに興味をそそられるが、結果として、この作品の場合は成功しているともいえる。
 郵便局の労働が丁寧に描かれる。かなり煩雑な労働だが、比較的わかりやすく書いている。
 タレントになりそこなってアルバイトにやってくる青年が、金もなく医療保険にも入っていないために命を落としてしまう。
 全体に現代の若者たちが直面している労働と社会の仕組みの不条理が浮き出てくる。
 そこに竹内さんという女性の、個性からもくる生き難さ、生き難い中で必死に生きている様子、そして挿入される部分の、竹内さんの未熟だが真剣な社会への批判、こういうものが混然一体化して、奇妙で魅力的な世界を構成している。
 竹内さんの一人称で彼女の見聞きし感じ、また考えたことがつづられていくが、彼女自身の過去が明瞭に語られることはない。それは必要に応じて部分的に語られるだけだ。
 父親が漁師であること、未熟児で生まれ摂食障害があること、両親は離婚していること、20才のとき自殺未遂を起こしたこと、等々であるが、20才のときは一人暮らしらしく思えるのにそののち父親と一緒に暮していたり、あるときは母の店を手伝ったり、具体的な家族関係は明瞭には説明しない。
 漁師の父親が病弱である(15ページ)というのもちょっと違和感がある(漁師はたくましいという先入観のせいとしても)が、その父親が40年間医者に行ったことがない(24ページ)ということと整合性がとれない感じもする。
 さらに違和感のあるのは、この作品が「都心の」と書き出されることだ。日本で「都心」といえば東京にしかない。父親はどこで漁をしているのだろうという疑問がわく。あるいは地方都市の中心部を都心と呼んだのであろうかと思うが、それにしてはまだ芸能事務所に所属しているタレント崩れがアルバイトに来るのが不自然に思える。あるいは地方の芸能事務所なのであろうか。もっとも東京近辺にも漁師はいるだろうが、地理的説明がないのでわからない。
 そういうことも含めてわからないことが多い。たとえば、いろんな過去を行き来するので年齢も含めて理解に骨が折れる。
「八年前のある日」と書き出しながら、まず十年前のことを長々と書いて「この二年後のことだった」でようやく八年前のことが語られる。
 過去が表現の必要上錯綜させられるのは一向に構わないし、読者が努力すべきだと思うが、この場合は不必要な錯綜であろう。
 細かく見ていけばかなり欠点の目立つ作品である。
 特に彼女の展開する社会批判には独りよがりの傾向が強い。だがそれも作者のではなく物語の主人公竹内さんの未熟さの表現だとすれば、人物造形に一役買っているようにも思える。
 それもこれも含めて、不思議な魅力を持った小説であることには変わりない。

(「石崎徹の小説」から転載)

民主文学5月号 石崎徹

 ほとんど読み終えたところでゴールデンウイークに突入してしまい、孫たちと遊びまくって読後の印象がぼやけてしまった。不十分なものになるが一応書く。他の人が感想を書き込んでくれたら、それも合わせて補ってもらうということにしたいのだが(たぶん誰も書いてくれない)。
 掲載5作品のうち経歴の載っているもの(つまり新人)の二人が印象強かった。どちらも若い。「民主文学」の今後を期待させる。

 松本たき子「アラサー女子が行く」

 下手な文章だなと思って読みはじめた。ところが読み進むうちにそのボヤキ一人漫才のような語りがだんだんすんなり入ってきて、ところどころ思わず笑ってしまった。読者を笑わせるということは簡単ではない。それだけでも才能だ。
 いま現在、30才前後の女性がどのように生きているか、その生態の特徴を過不足なく的確に捉えている。何気ない語りのなかにそれをちりばめているのがうまい。風俗小説としても上質である。
 しかもそれが、上手に挿入される伏線によって自然に特定秘密保護法案の話につながっていく。その繋がり方にも無理がない。
 こういう作品ではどこかで作者を代弁する人物が出てきて読者を白けさせることが多いが、この作品の登場人物は誰も作者を代弁しない。普通の人物だけが登場して、しかも保護法案批判になっている。
 作者は主人公と同じ世代である。この作者にはすでに自分のスタイルがある。今後妙に文学的な方向に行くよりも、このスタイルに磨きをかけていってほしいという気がする。この文体なら若者もすんなり入っていける。しかも我々年寄りの読者にも違和感がない。
 ただ、どれを読んでも変わり映えしないということでは読者が飽きるので、題材と人物とは多様にしていく必要があるだろう。

 加藤康弘「黄金の国」

 ビルマからの避難民の話である。この作品でも描かれているのは主人公の日常生活である。冒頭にビルマでの場面があって、すぐに日本での労働現場の話になる。そのなかで2007年から現在までのビルマの変化が自然にわかる。
 物語の中心は主人公のビルマ人がけんか相手の日本人と仲良くなるにいたる顛末だ。そこでビルマ人と日本人との処し方の違い、食べ物の好みの違い、そこから生まれる誤解といったものがさりげなく示される。
 この作品でも誰も作者を代弁しない。ボランティアの若い女性が出てくるが、全然でしゃばらない。作品を華やかにするための役割に徹している。
 事情に詳しい点から見ておそらく作者自身そういうボランティアをしているのではないかと想像するが、あくまで黒衣で通している。描かれるのは主人公とけんか相手との成り行きだ。
 文章は武骨で洗練さに欠けるが、書くべきことを心得た作品といえよう。
 作者は42才。文壇では決して若いとはいえないが、高齢化した「民主文学」にとっては期待の若手ではなかろうか。

 以上が新人。以下は経歴がないので、少なくとも二回目以上の掲載である。

 石井 斉「恋風」

 決してうまいとはいえない作品だが、心に残るものがある。とりわけラストがよい。
「久美と一緒の時を過ごせればいい。それだけでいい」
 人生とは結局のところそういうものだということを納得させてくれる小説である。

 瀬峰静弥「送別会」

 国鉄分割民営化のころの労働組合の話。こういう話を短編で書くには、読者に分かるように説明するだけの紙幅はないわけだから、何か人間的なポイントをつかまえないと無理なのではないか。一応そういうものに迫ろうとしている意図は感じるのだが、かえって説明的部分がじゃまになる。どうせこの長さでは説明しきれないのだから、一切説明せずに、人間的な情景の描写に的を絞るべきではないのか。作者はわかっている。だが、分割民営化は国論を二分した大テーマであるから、読者は容易に納得しない。少しくらいの説明ならむしろまったくないほうがよい。ただ人間的瞬間を描いてみせて、分割民営化賛成者にも何かを感じさせる、そういうものが短編なのだと思う。

 中村恵美「みちしるべ」

 読みやすい作品なのだが、これにも瀬峰作品と同じものを感じた。それでも瀬峰作品には対決の場面があったが、この作品にはそれもない。一方のがわだけしか描けていない。相手側は目に見えぬ敵である。
 教職をめざす現代の若者が陥っている苦境はわかるし、私立学校経営の裏話みたいなものも垣間見える。
 だが、それ以外に何があるか。
 いま思えば、先月号の仙洞田作品では、取締役や、直属部長の人間性を、その内面的葛藤を想像しうるくらいに描けていた。それが仙洞田氏の力だと思う。そういうところにあの作品の面白さがあった。人間を見る眼の深さがあった。
 この作品では敵のがわは外からしか見えていないのだ。多くのことを書きすぎて、大事なところが抜け落ちてしまっている。

(「石崎徹の小説」から転載)

相沢一郎「寒風に抗して」(民主文学3月号) (「石崎徹の小説」から転載)

相沢一郎「寒風に抗して」(民主文学3月号) 石崎徹

「民主文学」の作品評は懲りたのでもうやらないつもりだったが、特筆すべき作品にはやはり触れたい。ただし同一作家が今後つまらない作品を書いた時は無視することにする。
 期待せずに読みはじめた。聞かない名前だし、タイトルはいかにもありふれているし、書き出しが退屈だった。
 ところがだんだん面白くなってきて、ラストには度肝を抜かれた。この人は小説を心得ている。
 これだけでは何のことか分からないので、ネタバレになるが、内容に触れる。これから読む人は以下を読まないでください。知らずに読んだほうが面白い。
 橋下徹の例のアンケートの話である。主人公越智は税務部だが、面倒な対人関係のないシステム管理担当係長である。数字だけを相手にしていればよい仕事だ。50才で独身、同期はみな課長相当になっているが、上司に遠慮しない元悪ガキの越智は気にしない。そこは扶養義務を持たない独身の強みでもある。
 上司からの説得、同期を使った説得にも同じず、越智はアンケートへの回答を拒否する。
 世論の反発を食らって結局アンケートは破棄されるが、回答拒否者への報復はなされたらしい。越智と似たタイプの田代は、人が嫌う教育委員会への異動となった。ところが越智に対しては何の処置もなかった。
 その田代の口から、彼が目撃した事実を聞かされる。アンケートへの回答は各自のパソコンを使ってなされるが、回答締切日にあえて休暇を取った越智のパソコンに、夜10時、一人の人物が回答を記入していたというのである。上司にもわからないパスワードを、IT統括課から特別に開いてもらって、しかも締め切り時間は過ぎているのに特別に入力させてもらったというのだ。
 田代は上司が越智を守ろうとしたのだとなだめるが、越智は怒り狂う。上司が守ろうとしたのは自分自身の身だ。
 これが実話なのかフィクションなのかは、小説にとってどうでもよいことである。大阪とも橋下とも書いていないのだから、フィクションは許される。
 権力と、その下で保身に走る者なら、ありうる話である。読者にとって大事なのは、上司のこの行為が自分の存在を消してしまう行為であるとして、越智が屈辱と憤りに燃えた場面で小説が終わることだ。ここには小説的感動がある。それが事実かフィクションかはどうでもよいことである。この作家は人間にとって自由とは何かということをあざやかに書いてみせたのだ。

須藤みゆき「秋ゆく街で」    (感想)野中秋子

須藤みゆき「秋ゆく街で」        (感想)野中秋子
 
 読む者の心を重苦しくさせつつ、最後まで一気に読ませる魅力も持った作品だった。
 私は家にお金がないという逆らえぬ運命の中で育った。その事が私のものの見方、生き方、人格さえも決定づけ、兄との関係も崩れさせ、母も50代で死なせてしまったと私は強く思い込んでいる。
 貧しさという不平等と戦うためには学問をすることしかないと思う。私は患者を人間として大切にする病院を働く場として選ぶ。その病院は私の家族からは「赤」と呼ばれる職場だったのだが、私はこの職場で生きる事を選ぶ。
 そのため、母の亡き後「兄の邪魔にならないという目標」で生きる事に決めたのだった。何とも切なくて自虐的な選択を若い私は自分に課してしまう。しかしそれは、逆にたった一人の兄と自分とを切り離したくないがゆえの、屈折した心情から生じている。
 最後兄からの手紙を受け取る事で、私は自分の中に暖かい気持ちの流れを感じる。「兄に会いに行こう」そう決意する事で、自分が救済される可能性も信じられる気がするという所で作品は終わっている。
 しかし経済的困難な生活から抜け出すために選んだ職場が「赤」であるという事で、何故ここまで自分を傷つけないといけなかったのだろうか。何故すべての事は私が原因で悪くなると自分を追い込んでしまうのか。
 意地悪な見方をすると、こうして自分を責め、追い込み、卑下することで、一歩前に出る自分の勇気のなさを合理化しているようにも見えるのだが。
 自分らしく生きるという事がとても困難な時代を私達は生きている。それには勇気も気力も体力もいる。自虐とか自分を無にしてやりたい事を諦めてしまう逃げの姿勢の方が楽だと、私は本能的に感じているのではないだろうか。
 「兄に会いに行こう」というのが、自分らしさに近づく一歩なのかもしれないが、読者としては、今までの私と兄との関係からみて、この優しい手紙は何かしら唐突な感じがしないでもない。
 日々の生活をどうする事が、自分らしく生き抜く事に繋がっていくのか、この作品を通して改めて考えなおしてみたいと思わされた。

関二郎「水切り」 石崎徹

関二郎「水切り」 石崎徹

 おそらく少年時代の思い出をそのまま書いたのではないかと思われる。文章にはところどころ脈絡の通らないところもあるが、焦点を絞って要領よくまとめているので、結構読ませる。
 下手に作るよりも素直に書いた方が小説らしくなるという好例だろう。
 作文ではなく小説だとするのは、この作品の場合、主人公の少年を外から見る眼を感じるからだ。もちろん逆に主人公になりきって書く小説だってある。だが、その場合も作者と主人公とが厳然と切り離されていなければ、小説にはならない。
 一人の人間の経験というのは膨大だから、小説に必要なものだけを切り取ってあとを切り捨てるという作業は案外に難しい。
 この作では成功している。意外と苦労して書いたかもしれない。
 ただ、経験を書いた小説は成功しやすいが、経験していないことに挑戦するのは困難で失敗しやすい。そこが評価者にとっても微妙なところかもしれない。
 強弱はあってもすべての子供が持っているだろう競争心が印象的だ。
 これぞ資本主義の原動力と言ってもよいのだが、またこれを否定するところに人間の存在はありえないというのも事実である。
 時代の雰囲気もよく書けている。これはいつの時代を書くにも必要なことだろう。
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