随想・エッセイの記事 (1/2)

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「右遠俊郎さん逝く」   鬼藤千春

「右遠俊郎さん逝く」     鬼藤千春

 10月13日(日)、3キロの散歩を終えて、車に乗って家路につこうとしたとき、突然携帯電話が鳴った。余談だが、「突然携帯電話が鳴った」という表現は、日本語の用法としてふさわしくない、という意見もある。電話というのは、予測もなく「突然鳴るものだ」というわけである。
 それはともかく「突然、電話が鳴った」のだ。文学会の仲間からだった。彼女は「右遠さんが亡くなった」と言った。私はとくに驚くようなことはなかった。やはりそうだったのか、という冷静な気持で受けとめた。それは彼が脳梗塞で倒れて2、3年寝たきりだというのを聞いていたからだった。
 だから、折々に右遠さんは「いま、どんな状態なのだろうか」、ということを思いやっていたからである。が、冷静に受けとめることはできても、「惜しい人を亡くした、残念でならない」という気持が静かに広がってゆくのを感じずにはいられなかった。
 彼は日本の文学者の中でも、私の内で十指に入る好きな作家のひとりである。ウィキペディアによると、このように記されている。右遠俊郎は1926年9月1日生まれ、日本の作家・文芸評論家。岡山県生まれ。少年期を大連で過ごし、旅順高等学校に進む。
 戦後、東京大学国文科卒。『新日本文学』などに小説、評論を発表。1959年「無傷の論理」で芥川賞候補。その後日本民主主義文学会(当時の名称は文学同盟)に加入する。1989年『小説朝日茂』で多喜二・百合子賞受賞。
 これによると、享年87歳である。私は右遠さんと直接話をする機会には恵まれなかったが、日本民主主義文学会の大会で遠目に眺めていた。彼の発言は他の人と違って、一味違った趣があり、惹きつけられたものである。お会いすることは叶わなかったが、「まがね」に作品を発表すると、その都度辛辣な批評をしてくださった。
 ファイルを捜していたら、右遠さんの自筆の批評のコピーが出てきたので、ここで紹介させていただくことにする。「何だかみんな、小説を書きなれてきた感じに見えます。上手になったともいえるでしょうが、文章に丁寧さが、薄れています」とやんわり、しかし手厳しい指摘がなされています。
 「読み甲斐があったのは、鬼藤千春さんの『炎立つ』と、長瀬佳代子さんの『村でくらせば』の二つ。前者は、短くなっても寺と紅葉にしぼった方がいいと思いました」と記されています。
 また、次のような批評をしていただいている。「鬼藤千春さんの『文学教室』、若いとき文学を志してその道に進めず、還暦をまえにして、恐れながら文学に戻ろうとする心、その間の悩み、崩れかけ。文章もしっかりしているし、共感を誘うものがありました。が、『文学教室』が余分でした」
 このように、右遠さんは「まがね文学会」をいつも心にかけていて下さいました。私のつたない作品にも温かい、しかし的を射た批評をしてくれました。「巨星墜つ」と言えば、右遠さんは顔を歪めて、睨み返してくるに違いないが、惜しい人を喪った悲しみは、ひたひたと押し寄せてくる。
 「右遠さん――」、今までのご指導ご鞭撻に深く感謝いたします。ご冥福を心からお祈り申し上げます。安らかにお眠り下さい。

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つぶやき       野中秋子

つぶやき (20130928)        野中秋子

 この所の自然災害の多さと被害の大きさを異常な感じで受け止めている。そしてこれは日本のみならず世界的に起こっているのだ。「今までに経験のない程の・・・」という言葉をニュースでさかんに聞いた。
 しかしわたしは思う。この未経験の災害は、次はまた何十年か後と断言できないような気がしている。これからは毎年何かが起こるのではないかと。自然は正直なのだから。
 この100年程に人間達が「より便利に、より快適に、より速く・・・」と自然を意のままに動かし、壊し、改造してきたことのつけが今世界中で起こっている。
 人間も自然の産物なのだから、もういい加減に自然とともに、自然を守る方向へと生活の在り方を考えないと自然はもっと正直にその答えを出さざるを得ない。自然は嘘がつけないのだから。正直に反応するだけの事だ。温暖化をはじめこれだけの災害から私達は学ぶべきぎりぎりの限界に今生きているように思う。自然への何と傲慢な態度。もっと謙虚にならないと。
 それなのにエッと驚くニュースが。「リニアの新幹線」の工事を近々着工するという。私は本気か?とマジでびっくりした。だってより速くという事で線路は可能な限りの直線コース。9割トンネルの中を走るそうである。日本アルプスをはじめ多くの山をくり抜いて工事をすると。何で、だれが東京から名古屋を40分で行かなきゃいけないのか。それも台風18号の大きな被害が出た直後の発表である。構想は50年位前からあったらしいが。
 これだけ自然が教えてくれている今、何を考えているのか、とても正気の沙汰とは思えない。
 また自然を大きく破壊する?考えただけで私は耐えられない。後でどんな事になるか、ど素人の私でも心配する事がその関係者に分からないはずはない。払う代償の大きさに唖然としている。本気でこんなことを考えていらっしゃるの?誰か答えて欲しい。

「私の帽子が・・・・」   野中秋子

私の帽子が・・・・    野中秋子

 
 尾道を台風が通り過ぎ、抜けるような青空がガラス窓を通して秋を感じさせる。夏場は日中の散歩を避けていた母と「外を歩こう」という事に。昼前だった。
出てみると、風は気持ちのいい季節の変り目を感じさせるのだが、日差しのきつい事。まだまだ夏の光だ。慌てて「もう帰ろう。やっぱり夕方にしよう」と私は母を気遣って言ったのだが、彼女は「海のほうへ行ってみよう」と言だした。多分海は涼しいと思ったのだろう。海岸はもっと暑いだろうと私は思いながら市役所の裏へ。
私の家の前に市役所がある。その裏が駐車場になっていて、その前はもう海だ。駐車場の遊歩道を歩く。予想通り日差しは一層きつく感じられた。何せ影が全くない。母は「車椅子に乗る」と言い出した。この暑さの中歩くのはもうしんどい、でも海の風景は楽しみたいといった所なのだろう
私は今日つばの広い帽子をかぶっていた。この帽子はもう5年位前に買ったのだが、フリーサイズで作られていて私の頭には最初っから座りが悪かった。しかし真っ白な帆布でできた丈夫なもので、値段もそんなに安くはなかった。ただ頭にしっかりフィットせずつばも広いせいか、自転車の乗るとすぐ吹っ飛んでしまう。それに真っ白でしっかりしたつばの広い帽子は結構着るものも選ぶ。というわけであまり使う頻度少なかった。でも私には大切な帽子だった。
母が杖をついて歩く時は私は車椅子を片手で押し、台風の後の瞬間の強い風が吹く時は左手で帽子を押さえていた。母が車椅子に乗ると帽子を押さえられない。時折吹く風も海端は強い。私は飛ばされないよう帆布の帽子を深くしっかりと被り直した。目のすれすれまで深く被った。そして風を避けるため下を向いて車椅子を押した。
適当な所で帰るつもりだったのに、瞬間風は思いの他強かった。
「アッ」と上げた声の方が一瞬遅かった。瞬間すぐ振り返った。「ない」どこにも白い帽子の姿は全く見えない。すぐに海を覗き込んだ。「あったー」目の下の青い波の上をプカプカと気持ちよさそうに。
「初めっから縁がなかったんだ。私の頭に馴染まず、こんなにもあっけなくお別れしてしまうなんて」
私が言うと母は、「なんでしっかり押さえとかんの」 この後彼女は何回もこのセリフを繰り返した。
 尾道水道は対岸の向島との間がまるで河のように狭いのだが、流れは非常に速い。どんどん西に流されていく。私は車椅子を西に向けて「泳ぐ帽子」の姿を母にも見せようとした。あっという間にその姿は小さく小さくなっていった。しかし抜けるように碧い空を映す海の色も今日は見事に美しい。コバルトブルー、セルリアンブルー、ビリジャン、そしてエメラルドグリーンに染められた波間を、帆布のホワイトはその姿が小さな点にしか見えなくなってもしっかりと映えて光っている。「私は今ここよー」とでも言っているように。
 この日の海のきらめく色たちの中につば広のホワイトはいつまでも美しかった。たったこれだけの自分の物を失っただけで軽い喪失感をあじわっている私。今回の台風18号で計り知れない多くのかけがえのない物を一瞬に失ってしまった人達の喪失はいかほどのものであろうと、今朝の台風のニュースの被害の大きさに心が一層痛んだ。
  

つぶやき  野中秋子

つぶやき  野中秋子


 7年後のオリンピックの開催地が東京に決定した。
 私は内心、日本が選ばれない事を願っていた。理由は今日本が抱えるあまりにも大きな、そして多くの問題が国民の上にのしかかっているからである。あの大震災から2年半も経つのに、10万人以上の人が展望を持たされないままの仮設の住まい。今だに収束のめどすらたたない汚染水の漏れと大きなタンクに貯めこまれたままで今後それがどう処理されるのかすら不明な状態。安部首相は本当に放射能の怖さを知った上での今回の世界に向けての発言なのか。その上に最近の自然災害の多さ。どれ程これらの被災にあった人達への血の通った具体的な政策がなされているのか。またやる気はあるのか。
 これらの事を除いても、国民の暮らしは疲弊し人として生き抜く力さえ見失いがちな国民への税金の使われ方は今後どうなって行くのか私はとても憂慮している。
 確かに若者が全力で持てる力のすべてを振り絞って挑戦する姿にはいつも感動の涙をながし、私の生き方すら変える程の人間賛歌の場がオリンピックである。しかしそれはテレビ等で今はライブで見ることが出来る。
 しかし、その受け入れ準備のために投入される莫大な私たちのお金を使うべきは今そこなのか。
 このニュースに被災者が語っていた。
「俺らの生活はあれから全く変わっていないのに・・・・」
「福島は忘れられるんではないのか。私達のことをわすれないで」と。

 願わくばこれを機に、汚染問題を本気で取り組み、福島をはじめ多くの被災者たちが生きる力を自分の中に見出せるような真の復興に政治の目が向けられる事を切に願う。
 首相はその取組をすると全世界に向けて大きくアッピールの声を上げたのだから。

3.11と文学  石崎徹

3.11と文学  石崎徹

 7月1日付の朝日俳壇で、俳人片山由美子が、宇多喜代子の話を引用している。再録する。
「子供のころ、空襲で一瞬にして命を失った人を目撃した記憶が脳裏に刻みつけられ、その恐怖から逃れるのにどれほど時間がかかったか。近年ようやく、戦争を俳句に詠めるのではないかと思い始めている」
 この話に続けて片山は3.11について次のように言う。
「尋常ではない体験や苦しみは人を沈黙させる」「語らないという意思を貫いている人もいれば、語れないという人もいるだろう」「それをすぐに俳句にしようとした人と、とても言葉にはならないと思った人がいる」「沈黙している人は伝えたいことがないわけではない」「いまはまだ言葉にできない思いを抱えている人がたくさんいる」「言葉以上に重い沈黙がある」
 片山さんのこの言葉は、充分な重みで胸に落ちた。
「民主文学」の文芸評論家新船海三郎は、「民主文学」内外の小説に3.11の反映が充分ではないことに不満を表明し続けている。新船氏の気持ちはよく分かる。書き手だって気にしているのだ。
 一般に短詩系の世界、詩、短歌、俳句の方が小説よりも社会問題や政治に敏感であるように思える。川柳はその典型だが、これはその性格上当然だろう。
 小説では、社会や政治を直接的に扱うのは、いわゆる直木賞傾向の作家の方に目立つ。純文学と大衆文学という分け方は好きでないし、適切でもないと思っているが、「文学」にこだわりを持つ作家ほど、直接的な表現がしにくくなる傾向はある。
 短詩系では、いま感じたことをすぐ表現することになりやすいだろう。小説の書き手にもいろいろな人がいるだろうが、小説の場合には一つのテーマを何十年間も心の内で温め続けることがごく普通のことである。
 書き手だって社会や政治のことを考えているし、その考えを小説以外の場で表明することはできる。だが、その人の書く小説が社会や政治について語るとは限らない。この微妙な差異は言葉ではなかなか表現しづらい。しかしそれゆえ人はそれを小説で表現しようとするのではなかろうか。

 この間ぼくはごく短い小説を何篇か書いた。このブログ上で発表しただけなのでほとんど読まれていないが、そのうちの何篇かは意識したわけではないのに、ひとりでに3.11を扱うことになった。
「石」は高校生のコミカルなおしゃべりがいつのまにか原発の話になった。
「駅 バージョン2」はモロに、放射能汚染された地球から逃げ出す話である。日本列島が放射能汚染されたら、一億の日本人を受け入れてくれる国はいったいあるのか、ということを書きたかった。
「鐘」は、3.11という重い事実がなお他人事でしかありえず、きょうの自分一個の問題のほうがより比重を占めてしまう人の心を書いた。
「雨」は直接的には無関係な小説だが、常に結局傍観者でしかない者への批判が、個人的な問題の解決によって解消されてしまうことへの皮肉を込めたつもりである。

 気軽に短いものを書けば、ひとりでにいま現在の関心事が文章になる。だが、まとまったものを書くときにはそうはいかないのだ。

ウェスカーからどこかへ  石崎徹

ウェスカーからどこかへ  石崎徹

 ウェスカーに少し触れる。ただし話がそこからどこへ転がっていくかは分からない。
 永年忘れていたこの劇作家の名が、稲沢潤子と村上春樹のおかげで最近ちょくちょく頭を横切っていく。
 アーノルド・ウェスカー、1933年、ユダヤ系ハンガリー人を父としてロンドンの貧民街に生まれた。高等教育を受けることなく職を転々として、60年ころ、「調理場」を含む3部作でデビュー。68年には来日して、日本でもブームとなった。ぼくが読んだのはそのあとだ。74年までに晶文社が作品集を四冊、演劇論を一冊出している。そのすべてを読んだが、残念ながら、すでに記憶はかなり薄れている。
 舞台はひとつだけ見た。「根っこ」だった。この劇は無知な娘ビーティが最後に自分の意見を持つようになるというのがポイントなのだが、その意見というのがいかにも公式見解で少しも自分の意見らしくないのが不満だった。舞台ではどう処理するかと思ったが、素人劇団だったこともあって、かんばしくなかった。
 しかし、部分的に不満はあったが、作品は全体として当時のぼくを大変引きつけた。イギリス共産党員としてのたたかいと挫折の記録という感じで読んだのが、当時のぼくの心境にフィットしたのだろう。
 読み直していないのでわからないが、いまから思えば、少しセンチメンタルで、子供っぽいところがあったかもしれない。
 モームが、ウェスカーを指して「教育のないものに文学は書けない」と言ったのを読んで、その前からモームはあまり好きじゃなかったのが、いよいよ嫌いになった。(最近「雨」をふくむ三篇ほどを読み直して認識を新たにしたが)。
 ところで、本題に入る。ウェスカーの描き出したいろんな場面がいまでも頭をよぎるが、最近しばしば鮮明によみがえってくるセリフがある。
「かれら自身の黄金の都市」のなかでアンディがケートに語る。彼はメーデーのデモに参加したが、デモは元気がなく、指導者の演説もただだらだらと続いていくだけ。そのとき、〈突然、聴衆の中から、一人の若者が叫んだ、「われわれのいのちをふるい立たせてくれ!」〉(小田島雄志訳)。
「われわれのいのちをふるい立たせてくれ!」
 このセリフを書きたくてウェスカーを長々と引いた。いかに正しい言葉も、聞く者の心に届かねば意味がない。
 で、ウェスカーについてはこれで終わり。このセリフはもちろんぼくらの文学を反省させるが、いまはそれを言いたいわけではない。
 吉良よし子である。
 彼女の言葉はいのちをふるい立たせてくれると言いたいのだ。
 だが、一方で、それが老いつつある男の身勝手な思い込みだという自覚もある。
 ぼくは高校時代にシラーの「群盗」を読んだ後、「オルレアンの少女」に手を出しかけて結局読まずにしまった。
 リュック・ベッソンとミラ・ジョボヴィッチの「ジャンヌ・ダルク」はビデオで何回も見た。
 牢獄での神との対話が、闘いに至る経過や戦闘場面、また裁判や、権力関係等々と同じ比重で描かれているのを面白く思ったが、のちに57年の英米合作のジャンヌ・ダルクをテレビで見たら、似た構造で、原作がバーナード・ショウであるのを知った。
 それはともかく、ベッソンの映画で、歴戦の将軍たちが作戦会議をしているうちに、田舎娘のジャンヌが「フォロー・ミー」と叫んで馬を駈けらせ、それを兵たちが追い、将軍たちが苦笑いしながら会議をほっぽり出してあわてて追っていく、この場面は何度見ても痛快だった。まさしく兵たちの「いのちをふるい立たせ」たのだ。
 ところがカタログを読むと、あるパリジェンヌが、「ふん、男の勝手な夢想が作りだしたジャンヌね」とつぶやいたという。
 してやられた感じである。
 以前ラジオで、ある女性が(誰だか知らない)「三四郎」の里見美禰子と「ドラえもん」の静ちゃんを取り上げて、全く同じセリフを吐くのを聞いていたからだ。
 里見美禰子、静ちゃん、ジャンヌ・ダルク、それぞれタイプは違うが、いずれも男が夢想する女性だと、当の女性から指摘されれば、こちらは男の身なので、ぐうも出ない。
 逆にぼくら男が少女漫画にどうしても馴染めない理由はいろいろあるが、そのひとつは、いかにも女性が夢想しそうな男ばかりが出てくるという点なのだから、彼女たちの言うことも分かるのだ。
 話がとんでもないところにそれてきた感じだが、最初からこれを書きたかったのかもしれない。
 女性の書く男が男から見れば「ふん」という感じなのと同様、男の書く女性は、女性から見ると阿呆らしくてついていけないという感じなのかもしれない。
 とりあえず、これが結論。(吉良よし子は一瞬出てきてどこかに消えてしまったが、現実にはそうならないことを祈る)。

「あこがれ」  石崎徹

 あこがれ  石崎徹

 出身地をきかれると、ややこしいので福山と答える。事実、少年時代のほとんどを福山で過ごした。でも最初の記憶は十日町なのだ。そこに何年いたのか、いまではわからない。両親にはきかずにしまったし、姉にきいてもはっきりしない。
 少なくとも二冬は過ごしたはずだ。というのは異なる家での冬の記憶があるから。
 ひとつめは中心市街地からさほど離れていなかっただろう、ちょっとした川のかたわら。凍りついた川の上で年嵩の子供たちがはしゃぎまわり、屋根の上ではおじさんたちが背丈より高い雪をおろしている。川向こうにはスコップをふるってかまくらを作るお兄ちゃんたち。
 そんな日々の暮方、姉とふたり、かまくらに招待された。古い座敷を通り抜けて裏庭に出ると、雪の小山が小さな口を開いている。その秘密めかした狭い穴倉には子供たちだけ。中央には火鉢。餅を焼き、みかんを食べ、やがてゲームが始まる。……
 ふたつめは明らかに別の冬だ。農村地帯で、家は道路に面した高台にあった。道路の向こうは畑からなだらかに山につながっていく。冬が来ると、雪は建物の一階部分を埋めつくし、出入りには雪の壁に挟まれた小道を通る。軒には長く太く鋭いつららの隊列。窓には雪の結晶。父は簡単な箱橇を作って、道路向こうの山で滑らせてくれ、母は雪を利用してアイスクリームを作った。
 長い冬ごもりのあとで、やがて雪が融ける。すると顔を出した何もない土の上からいっせいに新芽が噴き出し、山も野も道もすべてがみるみる緑で埋めつくされていく。この冬から春への鮮やかな変貌は、子供心にはっきりとした印象を刻みつけた。
 入学して最初の夏休み。校庭の木陰にござを敷いて車座になり、上級生たちに教わりながら宿題をやる。木陰を抜ける風の涼しさ。蝉の声。別の日には、みんなで稲をわけいってイナゴを取り集め、その山のようなイナゴを校庭で焼いて食べる。……
 そこで十日町時代が唐突に終わった。二学期には福山にいた。
 新しい街がそんなに不満だったわけではない。言葉はよく理解できなかったが、ぼくはもともとお喋りではない。でもたとえばあそこでは石ころはどこにでも転がっていたのに、ここではそれが必要なとき探すのに苦労する。そして何年か過ごしたのち、ここには冬らしい冬がなく、春らしい春がないことに気づいた。
 そのときぼくに、十日町への憧れがはじまったのだ。
 ぼくはことあるごとに十日町の冬を思い、十日町の春を思い、十日町の夏を思った。……
 十八で出生地の大学へ入った。出生地とはいってもぼくには記憶がなかった。小学校を終えるころ、まだその地に住んでいた祖母宅で休暇を過ごした経験だけ。
 新しい街は福山よりは居心地がよかった。とうとうなじめなかった福山言葉も、ここまでは追いかけてこなかった。
 だが、十二三の頃から屈折してしまったぼくの心は、ますます空虚になっていくばかりで、住む街を変えても直るわけではなかった。
 のちにぼくの妻になった女性に、ぼくは何度も十日町の話をしたにちがいない。とうとう彼女が言った。「じゃ、そこへ行ってみようか」
 そのとき初めてぼくは「そこへ行く」こともできるのだということに気づいた。
 真冬の夜、ぼくたちは出発した。そのとき雪はまだ降ってなかった。汽車は琵琶湖の東を通って日本海に抜け、途中のどこかで雪が降り始め、やがて立ち往生して小さな駅に止まった。ぼくらは喜んで汽車を降り、雪の積もったせまい短い駅前通りを歩きまわった。
 翌日、十日町に着いた。雪はすでにやんでいたが、家々の屋根には大人の背丈を超える雪が積もり、街路樹も道路も、小さな街全体が真っ白で、陽を浴びてピカピカ光っていた。「お伽噺のような街ね」と彼女が言った。
 ぼくらは歩いた。どこまでも歩いた。いつしか「お伽噺のような」街を出外れ、道なき新雪を踏み、雪をかぶった木々の間を抜け、山の方へと登っていった。ふりかえると、ぼくらのブーツの跡だけが、長い列となっていた。
 ぼくらは満足して帰ってきた。……
 何年か経ってふと気づいた。あれほど憧れていた十日町のことをもうずいぶん思い出していない。考えてみると、十日町を訪れたあの日からなのだ。ぼくはもう一度その街のことを思い出してみようとした。彼女と行った日のことはそれでもまだ残っている。だが、遠い幼いころの十日町は消えてしまっていた。

上げ潮の中で大会の成功を!   鬼藤千春

上げ潮の中で大会の成功を!   鬼藤千春

 日本民主主義文学会の第25回大会は、‘13年5月11(土)12(日)に東京都内で開催される。私たち岡山支部は、事務局長の笹本敦史を派遣することを決めた。(出席要請という意味合いもあるが――)
 大会のスローガンは、「時代と人間を見据え、文学の明日を切り拓こう」である。幹事会報告(案)ではその結びで、こう呼びかけている。

 「私たちの文学運動は、日本文学の価値ある遺産と積極的な伝統、なかでもプロレタリア文学のすぐれた到達と戦後民主主義文学運動の成果を受け継ぎ、半世紀近くにわたって創造批評と文学普及の活動を真摯に追求してきた。情勢はまさにわれわれの運動の出番を告げている。さまざまな困難はあるが、文学会の全国総ての構成員が力の限り書く気概をもって、運動を一層大きく進めていこうではないか」

 私たち岡山支部は、この呼びかけに応えていきたいと思っている。
 そこで、この2年間の岡山支部の創造と普及について、振り返っておきたいと思う。

 まず、創造の分野では、「民主文学」‘11年7月号に笹本敦史の「瓦解」が掲載され、同年8月号に鬼藤千春の「鈴とアマリリス」が掲載された。
 また、‘13年6月号には笹本敦史の新人賞受賞作「ユニオン!」が掲載される予定である。さらに、‘11年12月には中元輝夫の「海に墓標を」が上梓され、第15回日本自費出版個人誌部門の優秀賞を受賞した。
 支部誌の発行は、‘11年10月「まがね」第52号、‘12年6月「まがね」第53号、‘13年3月「まがね」第54号を発行した。2年に3冊の発行という目標を守っている。このように、創造の分野においては、活発な活動が展開され、大きな収穫を得ることができた。また、ブログの開設にともなって、創造と批評が活発に展開されている。

 普及活動においては、この2年間で、会員が8名から7名へ、準会員が8名から7名へ、その他の支部会員は、4名から5名へとなったが、全体として後退を余儀なくされた。その原因は、高齢者問題、病気によるものである。ただ、「民主文学」の定期購読者を3名拡大することに成功している。
 このように、普及活動においては、一進一退を余儀なくされているが、大会へ向けて、拡大運動を進めている。「上げ潮の中で大会を迎えよう」を合言葉に、5月1日に行動をおこし、1名の定期読者を拡大することができた。

 私たち岡山支部は、引き続き創造と普及に力を尽くし、「文学と芸術の民主的発展に寄与してゆきたい」と願っている。

見てから読むか? 笹本敦史

見てから読むか?  映画「舟を編む」感想   笹本敦史

「読んでから見るか。見てから読むか」は30年余り前、文庫と映画をセットで宣伝して成功した角川のキャッチコピーだが、原作を先に読んで、それが気に入った作品だった場合、映画を見た時の満足感は低いような気がする。また、先に映画を見てしまうと、原作を読んだ時に映像の印象が強く、小説として純粋に楽しめないことが多いと思う。(「泥の川」のような例外もあるが)
最近では「まほろ駅前多田便利軒」がそうだった。
 三浦しをんの原作は直木賞受賞作、映画はキネマ旬報ベストテン4位、と共に評価の高い作品である。映画はおもしろかったのだが、先に映画を見てしまったために原作は展開がわかってしまい楽しめなかった。それだけ原作に忠実に映画が作られているということでもあるのだが、やはり見てから読むのは考えものなのかも知れない。

 そこで映画「舟を編む」である。原作はやはり三浦しをんの本屋大賞受賞作。原作は読まずに見た。
 言葉に対する特殊な感性ゆえに、人とのコミュニケーションに問題を抱える馬締光也(松田龍平)が、ベテラン編集者が定年退職した辞書編集部へ異動になる。
完成までに十数年かかるという新しい辞書の編纂は出版社にとってはお荷物でもあり、出版中止の噂が流れる。先輩編集者の西岡が既成事実を作って辞書編集部を継続させることに成功するが、人員削減を求められた西岡は自ら編集部を去る。期せずして責任者になってしまった馬締は監修者の松本、契約社員の佐々木らと辞書編纂に取り組む、というのが主軸のストーリーである。そこに馬締と大家の孫、香具矢(宮崎あおい)の恋というサイドストーリーが絡む。

 辞書編纂という地味な仕事を退屈させないストーリーに仕上げた力は見事と言って良い。常に用例採集(言葉集め)のためのメモを持ち歩き、辞書に掲載する見出し語を選定し、語釈(言葉の解釈)をめぐって議論を交わす。なにしろ見出し語24万という広辞苑や大辞林なみの辞書であり、気が遠くなるような作業には違いないのだが、それをとても魅力的に見せてくれる。
 今の時代、紙の辞書が新たに編纂されるということはないのかも知れない。しかし、電子版になろうが、旧版の改訂だろうが、基本的には同じような情熱を持って、同じような作業が行なわれるのだろう。

松田龍平が「まほろ駅前多田便利軒」とはまったく違う主人公を演じていておもしろい。宮崎あおいはさすが。板前としての立ち姿も美しいが、香具矢が馬締に手紙の真意を問いただすシーンは独擅場と言っていい。いい加減なようで、実は気のいい先輩西岡をオダギリジョーが好演している。

 さて、映画を見た後で、原作を読もうかどうか、思案しているところである。

「小説のある暮らし」 鬼藤千春

小説のある暮らし     鬼藤千春

 私の友人に俳人がいる。その彼は次のように言っている。
「合歓の会では、一日一句を提唱している。実行できている人は皆無に近い。一日一句が習慣になれば、感性が磨かれ、ときには十句できたりもするだろう」
 五、七、五という十七文字の短詩型文学であっても、毎日一句詠むということは、相当難しいということだ。
 私たち創作を志している人たちは、どうだろうか。もちろん仕事に携わっている人もいるし、仕事の第一線から退いている人もいる。仕事をしながら書くという営為は、なおさら難しいといわなければならない。が、それを考慮に入れたうえで、私たちも一日一句に対して、一日一枚を提唱したいと思う。それは私自身が、仕事に就いていたときに、書いておけばよかった、という痛切な思いに駆られているからである。
 しかし、書くという営為はなぜこうも難しいのだろうか。
「わからないものを、書くからこそ、創作というのであり、作家は書くという実行で、考えにしっかりした形をあたえる」
 小林秀雄はこのように書いている。
「詩人の作詩法に、詩が書けないときは、何時間でも壁を見つめる」
 ある詩人の言葉である。
「今でも原稿用紙の一行目は怖い。書くことは苦しい。うれしいのは、ほんの一瞬」
 こう語るのは、竹西寛子である。
 このように、プロの方たちでさえ、書くことの苦しさを語っている。私などの素人はなおさらである。書こうと思い立つと、「寝ても覚めても」そのことを思いつづけるのだが、一向にイメージが浮かび上がってこないことがある。苦しい時間を刻むことになるのだ。
「小説は現実にあった事だけ書くのでなく、表現することだ。それは突然分かるものではない。小説は芸術で創造物だ。それを書くには沢山読むことだ。辛いのになぜ書くのか。仲間が得られるから書くのだ。努力すれば必ず目指す所に行ける」
 ある作家の言葉である。
「地味な活動だが、コツコツ勉強しないと文章はうまくならない」
 これは、ある同人誌の主宰者の言葉だ。
 おそらく創作という営為は、登山にもたとえられるような気がしてならない。文学という芸術の山は、高く険しい。いい加減な準備でその山に登ろうとすると、無慈悲に拒絶されるのだ。が、三合目、五合目、胸突き八丁の難所を越えれば、頂が待っているのだ。頂に立ったときの爽快感、達成感、そのために、私たちは辛いのに、書くという営為がやめられないのだ。
 まがね文学会は、先月の二十日にホームページ(ブログ)を開設した。まだ、一カ月も経っていない。今までは毎日のように、更新をつづけてきたが、これからはそうはいかないかも知れない。が、それが週一回、週二回になったとしても、その意義がうすれるということはない。
 私たちは、このブログとは別に、八カ月ごとに発行している、文芸誌「まがね」を持っている。これは三十年以上も継続している、試され済みの文芸誌である。書く人々はその時々で替わってきたけれど、次つぎに新しい書き手が誕生してきたのだ。それを引き継いで今も「まがね」は健在である。
 「まがね」とブログ、私たちは発表の場をふたつ手に入れたのだ。この舞台をベースにして、私たちはいい作品を発表していきたいと願っている。いずれも、発表の場であるとともに、修練の場でもある。一日一句、一日一枚を胸に刻んで、書いてゆきたいものだ。
「小説が書けると、芸術を通して社会と関わり、人生を豊かに生きることができます。なんと素晴らしいことでしょう。すぐれた作品が書ければ、この素晴らしさは何倍にも輝きます」
 キーワードは、「自分らしさ」、「夢中になる」、
「気がつく」です。こう語っているのは、作家の風見梢太郎である。
「柳行李いっぱい書いて一人前だ」
 ある作家の言葉だ。
 が、いっぱい書いたからといって、いい作品が書けるとは限らない。それほど小説を書くということは、容易でないということだ。
 だが、私たちは、苦しいけれども、魅力的な「小説のある暮らし」を日々の生活の中に、取り込んでゆきたいと思っている。
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