掌編小説の記事 (1/4)

「ひげ男」   笹本敦史(「笹本敦史のブログ」から転載)

「ひげ男」 笹本敦史

 月曜の朝、二日酔いからくる頭の鈍痛を何とか宥め、修二はコーヒーカップに口をつけた。コーヒーの香りに吹き払われた不快感が、次の瞬間には二割増しで吹き返してくる。無理をして口に含んでみたが何の味もしない。
 テレビの情報番組が占いのコーナーに変わった。そろそろ出勤時間だ。修二はコーヒーを飲み干すことをあきらめ、半分以上残ったままのカップをテーブルに置いた。
「射手座のあなた。今日の運勢は……」
 女性アナウンサーの声が無意味に弾んでいる。占いはあまり信じないが、少しは気になる。
「今日、一番ラッキーなのは乙女座のあなた。すてきな異性との出会いがあります。チャンスを逃さないように心と体の準備を」
 自分は乙女座ではないが、「すてきな異性との出会い」という言葉に気持ちが反応してしまう。しかし乙女座のやつをうらやましいなどとは思わない。良い占いが当たったためしがないからだ。そのくせ悪い方は時々当たるような気がする。
「今日、最悪なのは……」
 朝の占いで最悪というのは穏当ではない。いつもこんな言い方をしていたのだろうかと思うと同時にアナウンサーはさらに意外なことを言った。
「双子座でO型、三十四歳の男性です」
 まるで自分のことをピンポイントで言っているみたいだ。こんな占いがあるのだろうか。もっとも日本全国で見れば「双子座でO型、三十四歳の男性」というのは相当な人数がいるのだろうから、必ずしも自分のことではないのだと思い直す。
「今日は、ひげの男に注意しましょう」
 やはり今日の占いはおかしい。しかしそんなことに構っている時間はない。修二は立ち上がった。
 アパートのドアを開けて出る。春間近と言える季節だが風は冷たい。三軒隣の部屋のドアが開いて男が出てくる。この部屋の住人とは今まで顔を合わせたことがない。男が振り返る。口ひげを蓄えた芸術家風の顔が、修二を見て怪訝な表情に変わる。男は急ぎ足で立ち去った。
 駅に向かって急いだ。先ほどの男が見知らぬ男と立ち話をしている。通り過ぎる瞬間、修二は二人の視線を感じて不快になった。あの男はオレについて何事か良からぬことを言っているのかも知れない。注意すべきひげの男とはあいつのことか。
 駅で一人、電車の中で二人、ひげの男と目が合った。三人とも目が合った後、まるで何かをたくらんでいるかのように目を逸らした。占いを信じるわけではないが、とりあえず今日だけはひげの男には注意した方が良さそうだ。
 会社に着いた。
「ちょっと」
受付の杏子が、通り過ぎようとする修二を呼びとめた。
「なんだい」
修二が受付のカウンターに近づくと、杏子はカウンターの下で何かを探していた。
「これ、見なさい」
 杏子が突き出したのは化粧用の鏡だった。
 修二が覗き込むと、そこには髪の毛がぼさぼさで目やにだらけの、無精ひげの男が映っていた。
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「舌打ち」 笹本敦史

舌打ち   笹本敦史

 無くて七癖、あって四十八癖などと言うではないか。誰にでも癖はある。爪を噛んだり、鼻を触ったり、髪をかき上げたり、貧乏揺すりしたり、しゃべり出す前に咳払いしたり、「えー」とか「あー」とか「あのー」とか言ったり、いろいろあるだろう。それぞれの癖にたいした意味はないんだ。
 俺の舌打ちだってそうだ。俺の場合、何かに不満があるとか、気にいらないことがあったとか、そんなわけではない。単なるクセだ。
「お前、何やってるんだ。商談中に舌打ちはまずいだろ」
 新入社員だった頃、先輩にそう怒鳴られたことがある。それから俺は精一杯努力して、商談中に舌打ちをしないように気をつけた。そのせいか、俺は、常に自分を律しているストイックな人間と見られるようになった。顧客からの評判も上がり、営業成績は常にトップクラスだった。
 そして同期中トップで管理職になった。取引先より部下と対することが多くなった俺は舌打ちをするようになった。部下を威圧するつもりでやっているのではない。単なる癖だ。無くて七癖、あって四十八癖などと言うではないか……、あっ、これはさっきも言ったな。
 とにかく、俺は部下たちから恐れられる管理職になった。短期間に人間の力を発揮させるのなら恐怖支配が最も効果的だ。俺は多くを語らず、何かにつけて舌打ちした。その態度が部下たちを恐れさせるらしく、彼らは猛烈に働いた。所長に働きかけて、かつて俺の舌打ちを注意した先輩を僻地の営業所に飛ばしたことも、彼らの恐怖心を煽ったようだ。
 俺のチームの営業成績は営業所内のトップになった。その功績を認められた俺は他の営業所の所長に抜擢された。短期間に人間の力を発揮させるのなら恐怖支配が最も効果的だ……、あっ、これはさっきも言ったな。
 俺は所長席にふんぞり返り、しかめっ面をし、時に舌打ちするだけでよかった。中間管理職たちは恐怖に駆られ、部下を脅した。脅された部下たちはあらゆる手段を使って成績を上げた。時には法律に触れるようなこともあったかも知れないが、それが露呈することもなく、俺は本社の幹部になった。異例の出世だった。さらにその後、役員が病気を理由に辞任するなどの偶然もあって、俺は役員になった。

 気がついたら舌打ちしていた。
「被害を受けられたみなさまにお詫び……」
 社長が言いかけた言葉を飲み込んだ。社長が不思議なものを見るように俺に目を向けた。その目がしだいに恐怖を表すものに変わった。
「今、舌打ちされませんでしたか?」
 一人が紳士的に尋ねた。
「いや、確かに見た。絶対舌打ちだ」
 別の一人が大声で言うと、記者会見場は怒号に包まれた。



「赤い手袋」  笹本敦史

 赤い手袋   笹本敦史

 公園で四歳の娘を遊ばせながら、私はベンチで文庫本を読んでいた。娘は同じ年代の子どもたちの中に入ると、すぐに友だちを作ってしまう。私は決して社交的な性格ではないので、きっと妻に似たのだろうと思う。今も初めて会った二三歳年上の女の子二人と仲良くなり、砂場で何かを作っては壊す遊びを飽きることなく続けている。
 若い男が私の隣に座ってきた。私は居心地の悪さを感じはじめた。公園には空いているベンチがいくつもある。わざわざ隣に座ってきた男のことが気になり、しだいに文庫本の文字が頭を素通りするようになった。意味が理解できず、三行前から読み直したが、やはり文字が頭を素通りしていく。
 私は横目で男を見た。二十歳前後だろうか、これと言った特徴のない顔だ。一時間後にどこかですれ違っても、この男だと気づくことはないだろう。そんなことを考えていると男がこちらを向き、目が合った。
「最近、変だなあと思うことがあるんですよ」
 男が言った。私に話しかけたのだろうとは思ったが、私は目を逸らし聞き流した。
「赤い手袋があるじゃないですか」
 若い男は馴れ馴れしい口調で話し続けた。
「ホームセンターなんかで売ってる作業用の手袋ですよ。手のひらがゴムで、甲のところがポリエステルかなんかの赤い布でできてるやつですよ。布が緑とか青とかもありますよね」
 若い男が言っているものが何となく想像できた。気がついたら私は頷いていた。
「最近、あちこちで見るんです」
「そんなに珍しい物じゃないからね」
 無視するつもりだったにもかかわらず、つい私はそう言っていた。男はゆっくり頷いた。
「そうです。店で売っていたり、人が使っていたりするのを見るのは珍しくないです」
「それじゃあ、何が?」
 私は男のペースに乗ってしまっていることに気がついたが、とりあえずこの男が何を言おうとしているのか知りたい気持ちになっていた。
「落ちているんですよ」
「落ちている?」
「そうです。道に落ちていたり、ブロック塀の上に置いてあったり、さっきはそこの川の中に落ちているのを見ました」
 男は公園の外を指差した。私はその方角に目を向けたが、男の話には半ば興味を失っていた。
「それだけたくさん売れているということだろうって思っているでしょう」
 男は私の思っていることを言い当てた。
「でも違うんですよ。私が見たところ青い手袋も同じぐらい売れています。でも落ちているのは赤ばかりです。不思議でしょう?」
 私は仕方なく頷いた。
「しかも……」
 男はもったいぶったように言いよどんだ。私は無意識に唾を飲み込んだ。
「それが、全部右手なんです。当然、右手と左手は同じ数だけ売れているはずですよね。不思議じゃありませんか」
 私は頷きながらも、男の芝居がかった言い方に、やや気持ちが冷め始めていた。
「さらに不思議なのは、この異常事態に誰も関心を寄せていないということです。現にあなたも僕が指摘するまで気がついていなかったですね」
 男の口調はますます芝居がかってきた。
「でも大丈夫です。僕が必ずこの怪現象の原因、おそらくは何かの陰謀、を突き止めます。そして破滅的事態に至る前に、それを解決します。幸い僕には有能で勇敢な仲間がいます。その仲間に、あなたも加わっていただきたいと思っているのです」
 ただの妄想男か。私は無難に応えて、男に引きとってもらうことにした。
「私には期待されるような能力も勇敢さもありませんから」
 私は計算通りの寂しげな笑顔を作った。
「残念です」
 男は心から残念そうな表情を浮かべて立ち上がった。
 砂場を見ると、娘と遊んでいた子どもがバイバイをしていた。娘もバイバイをして立ち上がり、私の方へ歩いてきた。もう昼ごはんの時間が近い。
「父さん、これ落ちてた」
 娘が差し出したのは赤い手袋だった。頭に浮かびかけた「怪現象」という言葉を私は打ち消した。
「戻しておいで。落とした人が探しに来るかも知れないから」
「はあい」
 娘は素直に応えて、砂場へ走って行った。手袋を砂場に落とし、手袋に向かってバイバイした。

「警察を呼べ」  笹本敦史

 警察を呼べ  笹本敦史

「やめて下さい」
 突然若い女の声が響いた。電車を埋め尽くす乗客の視線が一カ所に集まった。声の主と思われる女子高生が恰幅のいい中年男を睨んでいた。その目がしだいに潤んでくる。
「痴漢! この人、痴漢です」
 中年男の手を誰かがつかみ、持っていたカバンが落ちた。
「違う。誤解だ」
 電車が駅に止まると中年男は二人の若い男によってホームへ引きずり出された。一人はサラリーマン風で、もう一人の茶髪は大学生だろうか。茶髪が中年男のカバンをぶら下げている。泣き顔の女子高生が後についてくる。
「誤解だ。私は何もしてない」
「この人です。間違いありません」
 女子高生のヒステリックな声が響き、周囲の視線が集まった。
「ここで騒がない方が身のためだぞ」
 サラリーマン風が低い声で言った。
「警察を呼んでください。痴漢です」
 事務所に着くと茶髪が言った。事務所には若い駅員が一人しかいなかった。
「待て。そもそも君たちには私を拘束する権限はない」
 中年男が高飛車に言った。
「はあ? 何言ってんだ。おっさん」
 茶髪が馬鹿にしたように笑った。
「君たちは知らんだろうが、民間人が人を拘束するためにはそれなりの理屈が必要なんだぞ。まず現行犯であること。そして逃亡の可能性があることだ」
「それがどうした」
 サラリーマン風が戸惑いながら言った。
「まず現行犯かどうか。これは百歩譲って、見解が違うということにしておこう。しかし逃亡の可能性だが、これはまったくないと断言できる」
「断言って何だよ?」
 茶髪が気負って言った。
「私は自分の名前も身分もここで明かすことができる。逃げも隠れもしない証拠だ」
「それでは名刺をいただけますか?」
 駅員が丁重に言った。
「よかろう」
 中年男はもったいぶって名刺入れを出した。突然、茶髪が手を伸ばしてそれを奪った。
「何をするんだ」
「ごまかされないためだよ」
「そんな小賢しいマネはせんよ」
 中年男は鷹揚に言った。
 茶髪は名刺入れを開き、指を入れた。サラリーマン風がそれを覗き込んだ。女子高生は予想外の展開に戸惑っているようだ。
「D社総務部長、太田吾郎……」
 茶髪が名刺を読んで、サラリーマンに手渡した。その後、名刺は駅員の手に渡り、女子高生にまわされた。
「わかっただろう。私は大企業の幹部だ。電車で痴漢を働くようなケチな人間ではない」
 太田吾郎が言い放った瞬間、茶髪があからさまな舌打ちをした。
「オレの親父の工場はお前のところの下請けだった。つぶされたんだよ。単価を切り下げられたあげくに、突然取引を止められて……」
 茶髪は拳を握り締めた。
「いや、落ち着いてくれ。事業をやっている以上、止むを得ないこともあるんだ。会社も生き残っていかなければならない……」
「何言ってやがる」
 サラリーマン風が怒鳴った。
「会社も生き残っていかなければならないってセリフ、オレも言われたよ。あんたの会社に派遣で入っていた去年のことだ。そう言われて首切られたオレの気持ちがわかるか。あれから失業者だ。今日も面接を受けに行くところだ」
「待ってくれ。それは申し訳ないことをした。もし仕事がないのなら私が口を利いてやってもいい。それだけの力は持っている」
「それだけの力があるからって、痴漢したことをもみ消そうとしてるのよ、この人は」
 女子高生が叫んだことを言いがかりだと指摘する者はいなかった。
「みなさん、落ちついてください」
 駅員が割って入ろうとした。
「あんた、このおっさんの味方か?」
 茶髪が怒鳴った。
「いえ……、実は十年前、D社の入社試験を受けたんですが、試験官がとても横柄で」
「それなら、手っ取り早く、こいつを痛めつけてやろうぜ」
 サラリーマン風の手にはこん棒が握られていた。
 茶髪と女子高生が頷いた。駅員がカーテンを引いた。部屋が薄暗くなった。
「待て、警察を呼んでくれ」
 太田吾郎の叫び声は電車の轟音にかき消された。

「黒い絵」  鬼藤千春

 黒い絵   鬼藤千春

 仮設住宅の周りの斜面の雪解けもすすんで、褐色の土が表われるようになった。ふきのとうが、雪を割って鋭い芽を伸ばしている。ようやく北国にも、春の兆しが感じられるようになった。あの日から二年経った。
 瑠美子は、手提げかばん作りの内職に余念がなかった。ポップスの楽曲を聴きながら、懸命に針の手を動かしていた。
「ただいま……」
 か細く弱々しい声を挙げて、麻里が玄関の戸を静かに開けた。
「おかえり。何よ、いつも元気がないわね。もうすぐ小学三年生になるのよ。もっと、ハキハキ言えないの。蚊の鳴くような声しか出せないなんて、しっかりしてよ」
 麻里は玄関に佇んでいた。
「マリッ。さあ、ぐずぐずしないで上がっておいで。おやつを出してあげからね」
 瑠美子は、台所へ立っていった。
 麻里はランドセルを投げ出して、コタツにもぐり込んだ。白熊の縫いぐるみを抱いて、頬を押し付けていた。彼女はいつもこの白熊と一緒だった。夜寝るときも、もちろん手放すことはなかった。
「ほら、マリッ。クッキーだよ。さあ、お上がり」
 麻里の身体を揺すりながら、瑠美子は言った。
「うーん、いまは欲しくない」
 麻里は疲れたようすで、起き上がろうとしなかった。
 ランドセルのほとりに、輪ゴムで留められた画用紙が一枚転んでいた。
「何よ、マリ。これは学校で描いたんだね。見てもいい?」
 丸められた画用紙を、瑠美子は取り上げた。
「いやッ、見ちゃいやッ。やめてよ!」
 麻里は身体を起こして、瑠美子を睨んだ。
「いいでしょ。母さんにみせてよ」
 瑠美子は輪ゴムをはずし、画用紙をコタツの上に広げた。
「もういやッ。母さんのバカ。よしてよ!」
 麻里はもう一度倒れ込むように、白熊の上に身体を投げ出した。彼女は頬を白熊にすり寄せて、嗚咽を洩らしていた。
 瑠美子は、その絵を観てびっくりした。小学二年生が描く絵だろうか。彼女はカンバス一面、真っ赤な画家の絵は観たことがあった。だが、麻里の絵は黒のクレヨンで、白い画用紙を塗り潰していた。
 麻里には二十四色のクレヨンセットを持たせている。赤、青、黄など多色のクレヨンがあるにもかかわらず、黒一色で画用紙は染められていた。瑠美子は狼狽の色を隠せなかった。あの日のことが甦ってきた。
 まず、地の底から、突き上げるような振動がやってきた。そして、しばらく家が揺れた。棚のものやテレビなどが落下して、部屋の中は足の踏み場もないほどに、いろんなものが散乱した。
 麻里は泣き喚いて、瑠美子にしがみついて離れなかった。彼女は麻里を抱き上げて、家の外へ飛び出していった。少しのあいだ二人は、広場にうずくまっていた。そして、瑠美子は放心状態で、しばし立ち尽くしていた。
 そのうち、消防車が高台へ避難するようにスピーカーで呼びかけた。周りの人たちは駆け足で、山の高台へと急いだ。瑠美子も麻里の手を引いて、高台へと向かった。一瞬、夫の英樹のことが頭を過ぎったが、一目散に高台を目指した。
 高台に登ってまもなくだった。海辺の潮が沖の方へずっと引いていった。その直後だった。白波を立てて、潮が盛り上がって押し寄せてきた。それはまるで龍の背中がうねっているようだった。
「たいへんだ。津波だ!」
 誰かが大きな声で叫んだ。
 津波は、船を突き上げ、家々を次から次に呑み込んでいった。瑠美子の家も一瞬にして呑まれていった。
「あッ、家、イエが――」
 瑠美子は叫んだが、声にはならなかった。
 麻里は瑠美子に抱かれて、じっと津波を睨んでいた。津波は海の色ではなかった。褐色を帯びた津波が荒れ狂っていた。高台にも蛇の舌のような波が打ち寄せてきた。麻里は瑠美子にしがみついて、震えていた。
 英樹は水産加工会社に勤めていたが、逃げ遅れて、津波に呑み込まれてしまった。瑠美子は、夫を喪い、家を呑まれて、ただ茫然とするばかりだった。
 瑠美子はコタツの上の絵を観ていたが、眼は涙で滲んで、ぼうっとかすんでいた。だが、黒一色に塗り潰した麻里の心は、はっきりと読みとることができた。
 黒一色に塗り潰された黒い絵は、コタツの上で何かを訴えていた。それは麻里の心の闇だった。
 瑠美子は思わず麻里を強く抱きしめていた。

「柿」  三浦協子

 柿  三浦協子

 よく考えればそれほどこだわるようなことではなかったのに、それを機にわたしはずっと仲良くしていた友人と疎遠になってしまった。いかにも短絡なようにも思われるが、ぬぐいがたく本質なような気もする。
 被災地を訪問するというボランテイアの話は、研究室の若い講師が持ち込んできた。わたしは、直接の指導を受けている立場ではなかったが、日ごろからよく顔を合わせ、資料をもらったり相談にのってもらったりしている関係上、人数がいかにも不足なので友達を連れて参加してくれと言われて一も二もなく行きますと答えた。行きたい人はすぐに見つかった。女の友達ばかり4人で申し込みをした。講師は、助かるなあと言ってお茶とケーキをおごってくれた。
 行き先は、福島県の田舎で東京からバスで6時間も行ったところだった。村の公民館に宿泊できるようになっていて、全国からボランテイアが集まり、にぎやかだった。わたし達の担当についた村の職員は、いい人だった。
3日ほど滞在し、3日とも違う仮設住宅に通った。男子は、地震で地割れを起した畑のあぜの補修に行くことになり、わたしも、本当はそっちの方がいいなあと思ったのだが、女子は仮設の高齢者を訪問して家事などの手伝いを行なって欲しいと言われた。エイコは、わたしと同じグループになった。
 仮設は、広い敷地に何十棟と建てられており、それをはじから1件1件訪ねては、お手伝いできることはないか、ボランテイアセンターへのご希望はないかと聞いて廻る。午前中2時間過ぎると集合し、マイクロバスの中でお弁当をもらい、午後は別の仮設に移動して、同じことをする。わたしは、最初からそれが気になっていたのだが、エイコは、かたときもマスクを外さなかった。眠るときもだ。
「だって、危ないに決まってるんだもの」
と、彼女は、わたしにも自分のバッグからマスクを出してこれを着けろと繰り返した。
「だって、こんなとこ、本当なら人が住んでいちゃいけないような場所なんだよ。知らないならともかく、知っているのに何もしないなんてどうかしてると思うわ」
エイコは、とても優秀な人だった。よく勉強していて、人の世話も良くした。ボランテイアも積極的だった。しかし、宿舎に帰るや神経質に服を替え手を洗い、マスクを付け直し、あれもベクレてる、これもベクレてると炊き出しを断って持参したパンを食べている姿を見て、わたしはどうしても言ったものだ。
「そんなに無理して来なくてもよかったんじゃない?別に、こんなの何にも関係ないんだし」
しかし、それには、エイコは、こんな国難みたいな災難のときに助け合わないなんてどうかしてるし、自分は自分のできることをやるだけなんだから、と、それについてははっきりしていて、こちらはそうかと思うより他なかった。
 仮設には、ほとんど人がいて、皆、暇にしていた。お手伝いできることがあれば、と申し出たら、そんなことがあればこちらでやってあげたいくらいだと言われた。皆、何もすることがなくて辛いのだ。ボランテイアセンターの職員は、黙って話を聞いてあげるだけでずいぶん救いになるのだと力説していたが、何もない、帰ってくれと言われることも多く、わたし達は、あまり人の役に立っているという感じがしなかった。
 最終日に、おばあさんと会った。わたしは、その人が、わたしが小さい頃に亡くなった父方の曾祖母に似ていると思って、最初から親近感を持った。その人は、わたしとエイコを仮設に上げてくれた。手伝いということもなく、ちりぢりになった家族の話を聞き、慰めを言い、あんたがたのような若い人が来てくれることが救いだ、また来ておくれ、と見送ってもらったとき、おばあさんは、家の奥からスーパーの袋を持ってきて、これをボランテイアセンターにくれると言ったのだった。自宅に一時帰宅したとき誰にも黙って庭の柿をもいで持ち帰って、干し柿を作っていたのである。
「わしの柿はうまいから」
と、おばあさんは言うのであった。
「村の道の駅で一番を取ったこともあるんだから」
そして、帰ったらみんなで食べてくれと言って、その袋をわたしにくれた。
 ボランテイアセンターに向かうバスの中で、エイコがそっと言った。
「無理だよ、あれ」
「柿?」
「そう。絶対ベクレてる。話聞いてたらさ、あのおばあさんの家、警戒区域ど真ん中じゃんね。そんなところの柿、どうして取って帰ろうなんて思ったんだろ。荷物、調べられもしなかったんだね。杜撰だよね、村も」
わたしは、袋から柿をひとつ取った。ものすごくおいしそうだった。
「おいしそうだよ」
「ダメだって。帰ったら計ってごらんよ。空間線量計でもすごいよ、きっと」
「捨てるの?これ」
「当たり前じゃん。わたし、なんであんた、断らないんだろうって思ってたよ」
だんだん腹が立ってきたのは、きっと疲れてきたせいもあるのだ。それ以上、深いことをわたしが考えていたということはできない。しかし、なんだかわたしはものすごく深いところでおばあさんを裏切っているような気がしてたまらなくなったのだ。ベクレてる、という言い方は大嫌いだ。わたしは、黙ったまま柿を口に入れた。
「ちょっと!」
エイコの声が大きくて、前の席に座っていたメンバーが皆振り向いた。わたしは、無視してもうひとつ口に入れた。噛んで飲み込む間もなく、またもうひとつ口に入れた。甘さのあまりむせてしまった。
「ちょっと、やめな。やめなってば!」
わたしは、エイコの腕をふりほどくようにして、そのまま10個も、20個も、もっとかもしれない、柿を食べ続けた。バスから降りるまで食べていた。柿の袋はセンターの職員に渡したが、誰かが食べているという様子もなかったので捨てられたのだと思う。エイコとは帰るまで結局口を利かなかった。大学に戻って、そのまま、なんとなく疎遠になってしまった。

「桜雨」 鬼藤千春

桜雨  鬼藤千春

 法廷は静まり返っていた。いよいよ判決が言い渡されるのだ。原告席に座っている耕治は、喉が渇いて、脇の下から冷や汗が落ちるのを感じていた。
 耕治は裁判長をじっと見つめていたが、靄がかかったように、ぼうっとかすんでいた。裁判を起してちょうど四年である。いろんなことが、走馬灯のように駆け巡っていった。
 大手自動車メーカーから、派遣切りをされたのは年末だった。宿舎を明け渡すように言われ、寒空にまるでモノのように投げ出された。耕治は途方に暮れた。たいした蓄えはなく、下手をすれば路上生活者になりかねなかった。
 耕治は当面の生活のために、父の年金に頼らざるをえなかった。四十歳を超えた男が、父の僅かな年金を、宛てにすることに耐えられなかった。悔しくて、悔しくて、恥辱に身を焼く思いだった。
 たった一枚の紙切れで、労働者をクビにするというは、受け入れ難かった。耕治はこの職場で五年三カ月働いてきた。労働者派遣法では、三年を超えて働かせる場合には、雇用契約の申し込みをする必要がある。
 が、このメーカーは、三年が経過する直前に、「サポート社員」として、三カ月と一日だけ直接雇用とした。そして、また派遣社員に戻すのである。これが、この裁判の大きな争点であった。
 耕治は、トランスミッション関連の職場に配属されていた。彼はモノづくりの喜び、愉しさを、次第に味わうことが出来るようになっていた。その労働者としての誇りを、傷つけられたのである。
 彼は他の派遣で働きながら、この四年間の日々を生きてきた。が、月十万ほどの収入だったから、不足分は生活保護を受給して、しのいできた。
 裁判をたたかうなかで、いろんな支援が広がってきた。労働組合はもちろん、名も無き人々から、声が掛けられた。
「ねえ、うちに空き家があるから、誰か使ってちょうだい」
 六十代に見える婦人からの申し出だった。
 駅前で裁判支援の訴えと、署名のお願いをしている時に、駆け寄ってきて、微笑みかけてくれたのだった。
 もう一人は、年配の紳士だった。
「うちには、みかん農園があるんだが、それを譲るから、自由にして貰っていいよ」
 紳士は署名簿に記入して、握手を求めてきた。
 婦人の空き家には、原告の二人がアパートを引き払って移り住んだ。年末にはみかん農園に入り、収穫をして原告団十五名の家に、みかんと餅を届けた。正月用の格好の贈り物となった。
 裁判長がゆっくりと、判決文を読み始めた。
「原告○○、同○○、同○○……および同○○」と、十三名の原告の名前が読み上げられた。その後、
「被告に対し、被告正社員としての労働契約上の権利を有する地位にあることを確認する」
 裁判長はたんたんと、判決文を読み上げた。
 耕治はその文面が、何を言っているのか理解できないでいた。それは耕治だけでなく、他の原告も傍聴者も同じであった。法廷は一瞬、海の底のように暗く静かになった。
 が、原告側の席に座っていた、国会でもこの問題を取り上げて追及した弁護士が、
「よしっ!」
 と、力強い声で叫んだ。
 それでやっと、原告や傍聴席の人が、この裁判は原告側の勝利だということが、理解できたのだった。
 閉廷直後、傍聴席から、
「よっしゃー!」
 という、歓声と拍手が沸き上がった。
 大手自動車メーカー側の弁護士が、憮然とした表情で、法廷を出ていく姿が印象的だった。派遣十三名が正社員と認定されたのだ。
 裁判所前には、傍聴席に入りきれなかった、支持者の人々が待っていた。傍聴席の支持者が、「勝訴」という紙片を掲げて仲間のところに駆け寄って行った。「勝訴」という字は、骨太で力強く刻まれていた。
 原告十五名、支持者たちは、お互いに肩を抱き合い、叩き合って、勝利の感触を確かめ合っていた。原告団はじめ、支持者の多くの人々は、眼を紅く染めていた。ただ、二名は「サポート社員」の経験がなかったため、残念ながら認定はされなかった。
 耕治は、これで四年間の苦労が報われた想いがした。が、相手もしたたかだから、控訴の可能性は十分考えられる。しかし、今日は、今日だけは、この勝利に酔ってもいいように思った。それに自身の身を委ねたい想いだった。
「桜雨!」
 誰かが、そう叫んだ。
 福岡では、今日桜の開花宣言がなされたのだ。そして、雨である。
 銀色の雨は、糸を引いて静かに降っていた。

「雪」  鬼藤千春

 雪  鬼藤千春

 三月を迎えたが、北国はまだまだ寒い。西の山に陽が落ちて、急に冷え込んできた。それでも真千子の心は、灯が点ったように温かかった。彼女は台所に立って、夕食の準備に余念がない。
 金曜日の夜には、夫、昭平が毎週やってくるからだ。昭平は福島に一人残って、建設業の仕事をしていた。真千子は、小学五年の亜由美と三年の真希とともに、新潟へ自主避難している。
 新潟の暮らしは、真千子一家にとって耐え難いものだった。福島ではごく普通の生活を営んでいたが、原発事故によって、一家の生活は一変した。
 ある日、亜由美は学校から、泣きながら帰ってきたことがあった。アパートのドアを開けると、玄関に立ち尽くして、瞼を右手の甲でしきりに拭っていた。
「亜由、おかえり。どうしたの? 転んだの」
 真千子は玄関に駆け寄って、声をかけた。
「……」
 亜由美は肩を震わせて、泣いていた。
「そーら、亜由、これを使いなさい」
 花柄模様のハンカチを、真千子は差し出した。
「……」
 亜由美は真千子の手のハンカチを、勢いよく振り払った。ハンカチは玄関に舞い落ちた。
「もう、この子は。どうしたっていうの?」
 真千子は框に膝をついて、亜由美を見上げた。
「福島軍団……」
 亜由美は声を絞り出すように言った。
 不意を衝かれて、真千子は言葉を失ってしまった。亜由美の学校には、福島からの避難者が三家族あった。その生徒たちを指して、子どもたちがからかったに違いない。亜由美は玄関を駆け上がると、ランドセルを放り投げ、コタツのなかにもぐり込んで、いつまでも泣き止まなかった。真千子は深い溜め息をついて、亜由美をじっと見つめていた。
「ただいま」
 昭平が玄関で大きな声を挙げた。
「おかえり」
 真希は小躍りしながら、玄関へ迎えに出た。
 玄関から上がると、真希は昭平に抱きついた。彼の腕の中で、キャッ、キャッと彼女は声を挙げた。
「真希、いい子をしていたか。今日は土産を買ってきたぞ」
 その言葉を聞くと、真希は昭平の腕からするりと降りた。
 昭平の土産は、お料理ごっこのセットだった。にんじん、大根、ジャガイモ、ナスなどの野菜と調理器具一式だった。野菜は何分割かにされ、接合されているのだった。
「姉ちゃん、やろう」
 宿題をしていた亜由美も、教科書とノートを投げ出して、コタツに駆け寄って行った。亜由美は調理器具を揃え、真希は野菜を包装紙から懸命に取り出していた。
 真希は、にんじんや大根を包丁で輪切りにして、亜由美の用意した鍋の中に、投げ入れていた。
「姉ちゃん、今日は肉ジャガよ。あれッ、父ちゃん、肉がないよ」
 真希は頓狂な声を挙げた。
「そうか、肉がないんか。しまったなあ。真希、また買ってきてやるよ。今日は、野菜炒めにしてくれよ」
 昭平は苦笑いを浮かべて言った。
 亜由美は、ガスコンロの上にフライパンを載せて、「さあ、どうぞ」と言った。真希は不服らしく、頬をふくらませて、フライパンに野菜を放り込んだ。亜由美はカチッと火を点けた。彼女はフライパンを上下させ、野菜を巧くひっくり返して、「ほら、一丁上がり」と嬉々とした声を挙げた。
「さあさ、こちらも出来上がりましたよ。亜由、玩具を片付けなさい」
 台所から、真千子の声が飛んできた。
「そら、今日は寒いから水炊きだよ」
 真千子は土鍋をコタツの上のカセットコンロに置いた。土鍋から湯気が立ち昇っている。
「あなた、食べてちょうだい。もう大丈夫よ」
 真千子は昭平に言った。
「寒い時は、これが一番だよ。身体の中から温まるからなあ」
 昭平は箸を取り上げて言った。
 亜由美と真希も先を争って、肉を捜していた。「あったーッ」と真希が声を挙げる。「そら、ここにも」と亜由美が応える。賑やかな食事だった。真千子は、こんな普通の生活がいつ戻ってくるのか、と思いながら野菜や肉を足していた。
「あ、雪だわ。三月だというのに、寒い筈だわ」
 真千子は窓を覗いて言った。
 すると、いきなり真希が大きな声で叫んだ。
「いやだ、いやだ、放射能が降っている。父ちゃん、怖いよう」
 真希は昭平のふところに飛び込んだ。
 雪は音もなく、しんしんと降りつづいていた。

「握手」 鬼藤千春

 握手  鬼藤千春

 ゆったりと流れる川の音が響いている。慶三はその音で目覚めた。陽はもう高く昇っているらしく、部屋の中は青く染まっている。
 啓蟄を迎えたというのに、昨夜も寒かった。慶三は身体に新聞紙を巻きつけ、寝袋の中にもぐり込んで寝たが、寒くて何度も目が覚めた。彼は蓑虫が袋から出るように、寝袋を脱ぎ捨てた。が、血圧が高いのか、すぐに立ち上がることができなかった。
 慶三は河川敷にブルーシートを張って、ネグラを作っていた。ここに住むようになったのは昨秋からだ。まもなく半年になる。決して住み心地は悪くなかったが、このままでは駄目だ、という思いがふつふつと、湧いてくるようになった。
 彼はダンボール箱の上のチラシを掴んだ。それを広げて見ると、生活相談会の案内が記されている。慶三はこれからそこへ出かける予定にしていた。相談会場は、「生活と健康を守る会」の事務所になっている。このチラシは、ホームレスの仲間から貰ったものだ。
 こんなところに引っ込んで、川を眺めながら、川の音を聴きながら暮らしてきて、しばらくシャバの空気に触れていない。少し気後れがしないでもない。「生健会」の素姓も分からない。が、落ちるところまで落ちているのだから、もう怖いものは何もない。失うべきものは何もないのだ。
 「生健会」は貧相な建物だった。安アパートのような事務所だった。「いらっしゃい、さあどうぞこちらへ」と言って、真ん中にテーブルを据え付けた、四畳半くらいの部屋に通された。五十代くらいの女性がにっこり笑って名刺を差し出した。慶三と同世代の女性のように思えた。名刺には、三浦紗知子と印字されていた。
「どうなされました? お身体の方は大丈夫ですか。痛むというようなところはないですか」
 三浦はおだやかな声で訊いた。
「うーん、別に悪いところはないんですが、血圧が二百を超えて、朝目覚めても立てないことが、時々あるんです」
 座り心地が悪そうに、慶三はもじもじと答えた。
「そうですか。血圧がねえ、それは大変ですね。ところでどこにお住まいですか」
 三浦は微笑みながら言った。
「……」
 慶三は、即座に答えることができなかった。
「……あ、あのう、河川敷です」
 慶三は俯いたまま、小さな声を出した。
「河川敷? じゃ、路上生活ですか」
 三浦は驚いたように声を挙げた。
「みんなは、ホームレスといいます。もうそれが厭になったんです。それで相談にやってきました」
 慶三は三浦の瞳を見て言った。
「千原さんといいましたね。河川敷で暮らすようになったいきさつを、教えて貰えませんか」
 三浦は真剣な眼差しで、慶三を見た。
「……でも、それは私の恥ですからね。……しかし、それを話さなければ相談になりませんね」
 大きな溜め息を、慶三はついた。
「私は小さな町で電器店をやっていたんです。が、ご存知のように、家電量販店が次から次に街にできて、みんなそちらへ流れるようになったんです。それで店が立ち行かなくなったんです」
 慶三は一息ついて、湯呑みのお茶を飲んだ。
「借金があったものですから、家と店を手放したんです。女房とは争いが絶えず離婚しました。二人の子どもはそれぞれ独立しています。それで私は死に場所を求めて、いろんなところを彷徨いましたが、死に切れずに、今の河川敷に落ち着いたのです」
 慶三は、そこまで話して眼を宙に泳がせた。
「そうですか。それは大変でしたね。千原さん、あなたは血圧が高いようですが、働けますか。働けるようなら、無理のない仕事を捜しましょう。まず、住居を確保することです。五十六歳ですか。多分非正規の働き口しかないと思います。それで賃金が低いようなら、不足分だけ、生活保護費を受けるようにしましょう」
 三浦は、机に両肘をついて身を乗り出してきた。
 慶三は明日、三浦と福祉事務所へ行くことを約束して、相談会場を後にした。彼は死に場所を求め、山や海を彷徨って、二度自殺未遂をしていた。死に切れなかったのだ。血圧は高いけれど、まだ働けないということはない。
「千原さん。人生をやり直すのに、遅いということはないのよ。必ず人生はやり直せるんですよ」
 三浦は、白いふっくらした右手を差し出した。
 慶三も右手をそうっと伸ばした。三浦はぎゅっと握って左手で包んだ。彼女の手は柔らかくて、温かかった。

「無念石」  三浦協子

 無念石  三浦協子

 Sさんの家に石をもらいに行くことになったのは、総務部長が町長に話しをしたのがきっかけだ。福島の原発事故以来、近隣に原発を抱えた町村では、万一のことがあった場合を恐れ、安全審査の徹底や新規着工や再稼動の見直し等を県に意見するなどするようになった。町民から直接問い合わせや陳情が多く出るようになったことが大きいが、被災して逃げ惑う人々を実際に見て、隣町に原発のあるうちの町長も変わったのだ。そこそこに再稼動されて、もしものとき、風がこっちに吹かれたのではたまらないから、と町長は言うのだった。「やるなとまでは言わないが、とにかく、安全にしといてもらわないと」
 このままでは我々は交付金や寄付金がもらえないばかりか、被害だけをもらうことになるぞという、いささか被害妄想めいた町民からの苦情も、事故の影響が甚大で無視もできない数でもあることから、とにかく、形だけでも町は原発には慎重であるよと意思表示しておくことは重要だ、と言うので、町長は、役場の入り口に何かそれらしいものを置いたり何か貼るなどしてアピールができないか、と総務部長にもちかけた。言われた総務部長は、あれこれ考えるうち、自身の家の近くに、遠方の原発に反対する裁判に、わざわざ原告として加わって、その裁判に負けて自身の庭に石碑を建てたという変わった人物が住んでいることを思い出し、それを町長に告げたのだった。
 Sさんの家には、総務部長とわたしが行ったのだ。敷地の広い豊かな農家で、ほら、あれだよ、と総務部長が指をさす先には、ひとかかえほどもある石がごろん、というように置かれていた。石には、なんと「無念」という文字が堂々と彫られていて、わたしは、その丸い大きな石をつくづく見ながら、勝てる見込みのない、しかも他人の県の原発裁判に目をつりあげて加わって、闘った挙句敗訴して、石を抱えひとり悔しさを噛み締めるという老人の姿をリアルに思い浮かべ、そのあまりのわかりやすさに、思わず親しみを覚えたのである。
Sさんの家では息子夫妻が迎えてくれて、けげんな顔はしていたものの、石の譲渡にはこだわることはなかった。くだんの裁判老人は、一昨年既に亡くなっていた。
「いいですよ。そうしてもらえるんだば。親父も喜ぶでしょう」
金は要らない、石は寄附するから、と息子さんが言うので、部長とわたしは丁重に礼を述べ、石をいただく日どりを決めてその日は帰ったのである。石は、数日後、無事役場の玄関に寄贈者の名と由来を記した小さなプレートをつけられて鎮座した。町長は、「なかなか、いい石じゃないか」と喜び、わたしは、以来そのことを忘れていた。
 ところが、それから半年ほどして、ある日、帰り支度をしていると総務課のカウンターに、突然Sさんが現れたのである。Sさんはわたしを見るとしきりと頭を下げて、
「他でもない、あの石のことなのだけれども。申し訳ねえんだけれども、あれを返していただけないですか」
と、恐縮するのであった。驚いて理由を聞くと、
「実は、えらい騒ぎになってしまって」
と、息子さんは大きな体を縮込めるようにした。聞けば、その後老人を映画にしようという人が来たのだそうだ。全国で原発をなくそうという運動が広く起こっていることから、映画の話は急に話が持ち上がり、資金も集ったのですぐにも撮りたいと言われたのだそうである。映画の中で石と老人を撮るから、石はどうしても元のところに収めて欲しい、そもそも、反対運動をやってきた仲間に黙って無念石を町にやってしまうなどと、息子といえども、どうしてそういうことをするのかとずいぶん怒られたのだと言う。
「親父は、あんたひとりの親父なんじゃねえって言うのですさ。全国の、原発に反対する人たちの希望の星みたいな親父であったと。この石のことも、今に人がどかどかと見に来るようになるって言うのですさ。だけど、わたしにとっては親父は親父で、別にそれ以上でも以下でもねえ、あんまり働かない、困った親父でしたさ」
わたしは、そんなに心配なさらなくても石はお返しできると思う、部長にはこちらから話しておくからと言い、Sさんに帰っていただいた。部長と一緒に町長に事情を話しに行くと、町長は、あっさり、じゃ、写真にしておけば、と言ったので、役場の玄関には「無念石」の写真が置かれることになった。わたしは、ホンモノの石が玄関にあった間は石のことなど忘れていたのだが、その石がなくなってからは、妙にそのことが気にかかり、役所の玄関を通るたびにその写真をちらっと見ては、「人生、いろんなことがあるもんだない。たいした、無念ってばっかりでもねえではないか」と、心の中でつぶやくことが常となった。